宿泊、ヒメナとの一夜
イサ「……色々と誤解を生みそうな章タイトルだな」
ヒメナ「イサがヒメナさんの魅力に気づいて、夜這いトカ……」
イサ「するわけないだろう!」
ヒメナ「逆ならわかりませんケドね」
イサ「!?」
「あっ、イサ。村が見えて来ましたヨ!」
俺の隣を歩いていた小娘が嬉しそうに叫んで、駆け出した。
しかし、すぐに足を止め、ゆっくり振り返る。
そして、とぼとぼと俺の隣に戻って来た。
どうやら雑木林での一件が効いているらしい。
雑木林を抜けてすぐ小娘が「もう勝手なことはシマセン」と涙ながらに訴え、「これ、1人で食べようと思ってたんですケド、半分貢ぎますカラ」と出発のどさくさに紛れて、こっそりとリュックに忍ばせてきたサンドイッチ(俺から言わせるとコッペパンに卵と野菜を挟んだ代物)を差し出したので、今回に限り、許してやった。
嘘泣きだということは百も承知だったが、片手がふさがった状態では、いざという時とっさに反応ができないこと。
また、お詫びにと差し出されたサンドイッチを俺が平らげた際の、今にも泣き出しそうな絶望しきった小娘の表情が小気味良かったこと。
これらが小娘を許した主な点だ。
もちろん許す前に、再度きつく注意し、その時小娘に、俺の視界から消えないことと、俺の半径2メートル圏内にいることを約束させた。
もし破れば今度こそ本当に、首に縄をつけると脅して。
「あの……イサ。……ヒメナさん、喜びのあまり、思わず駆け出しちゃいましたケド、すぐ戻って来ましたし、多目に見てくれますヨネ?」
約束を破った小娘が、もじもじしながら上目遣いで俺の様子を窺う。
本来なら、お仕置きのひとつでもしてやりたいところだが、一応小娘も反省しているようだし、多目に見てやることにするか。
「……いいから行くぞ。ついて来い」
「あっ、はいデス!」
足早で、眼前の村に向かう俺を、小娘は小走りしながら慌てて追いかけて来る。
そうして俺達は、リズ村に到着した。
リズ村は養鶏が盛んな村だ。
そのため、村の至る所で鶏を目にする。
「鶏がいっぱいいますねェ。……美味しそうデス」
ニタニタしながら、舌なめずりをしている小娘を尻目に、俺はさっさと宿屋を探す。
まだ日暮れには早いが、今からでは次の町に着く前に夜になってしまう。
そのため、今日はこの村で宿泊することにした。
――本当なら、もうひとつ先の町まで行きたかったんだがな。
ちらっと小娘を見て、胸にしまった不満をため息として吐き出す。
「ん? イサ。どうかしたんデスか?」
俺のため息に小娘が反応する。
俺は「どうもしない」と言いかけて、少し考えた後、こう言った。
「お前、この村に宿屋はないか探してこい」
「はい? 今ナント?」
「だから、宿屋を探してこいと言っているだろう。何度も言わせるな」
俺の言葉に、小娘は首をひねり、そしてこれ以上ない最高の作り笑顔を浮かべて、こうほざいた。
「ふざけんなデスよ」
「…………なんだと?」
「だから、ふざけるなと言ってるんデスよ。何度も言わせるなデス」
小娘が先程の俺と、まったく同じ受け答えをする。
「ヒメナさんのお財布の中身には限度があるんデスよ!? 何を贅沢なことを抜かしてるんデスか! 今日は日が暮れるまで進んで、日が暮れたらその場で野宿デス」
さっきまでの作り笑顔とは打って変わって、不快感を露わにしながら、小娘が一息に言い切る。
しかし、不快になったのは、小娘だけではない。
「ふざけるなよ?」
小娘を睨みつけながら、静かに吐き捨てる。
「今日は1日中歩き通しだったうえに、誰かのせいで走らされるは、木登りはさせられるは、散々な目に会ったんだ。せめて、ベッドで休ませろ」
小娘が口を開いて何か言おうとしたが、俺はかまわず続ける。
「だいたい夜行性の魔物は昼間活動している魔物に比べて、桁違いの強さだということは、この世界の常識だろう? 子供でも日が暮れたら、村や町の外に出てはいけないということぐらい理解しているぞ」
ここまで言うと、俺は小娘に発言する権利を与えるため、言葉を切った。
小娘は「そんなことは知っている」と言いたげな眼差しを俺に向けると、フンと顔を逸らし、言ってはいけない一言を言った。
「文無しは黙っててクダサイ」
一瞬、口を尖らせた小娘の言葉の意味を理解することができなかった。
だが、じわじわと小娘の言葉が俺の頭に浸透してくる。
「……いい度胸だな」
言葉の意味を理解すると同時に、小娘の頭を掴んで固定した。
「そっ、そうやってすぐ暴力に訴えるのは、ヒメナさん、いけないと思いマス」
俺と向き合って小娘が訴える。
そこで終わっておけばいいものを、やはり小娘は余計な一言も言わなければ気が済まないらしい。
「すぐ暴力で解決しようとするなんて、器の小ささが知れるってもんデスヨ!」
「……最期に言い残すことがあれば聞いてやる」
「最期って、なんデスか!? …………ぎゃぁおぅ!!」
頭を締め付けられ、たまらず小娘が悲鳴を上げる。
「ヒ、ヒメナさん、ちょっと言い過ぎました! 反省してマス!」
「……『ちょっと』?」
「イエ。だいぶ言い過ぎました。反省してマス。機嫌直して下さい」
うるうるした瞳を俺に向ける。
「いい加減、その手は食わんぞ?」
「……何のことだか、さっぱりワカリマセン」
「……」
再度、小娘の頭を掴んでいる手に力を加えようとしたが、小娘がそれを敏感に察知して先手を取った。
「あ! 今日はこの村で一泊するんでしたよネ? ヒメナさん、ひとっ走り行って、宿屋を探して来ますヨ」
そう言うが早いか、俺の手をなんとか外して、小娘が一目散に駆けていった。
――――――――。
――――――。
――――。
――。
――遅い。
青かった空がほんのり朱色に染まっても、小娘は戻って来ない。
それだけでも、十分腹立たしいのに、通りがかる村人からの好奇の視線。
鶏の喧騒。
それらすべてが煩わしい。
――だいたいこんな小さな村、10分もあれば宿屋の場所くらい、すぐわかるだろう。
そこまで考えて、ふと思いついた。
「もしかして、逃げたのか?」
おもわず、考えが口から漏れる。
――少し、いじめすぎたか?
いくら手加減したとはいえ、少しやりすぎたかもしれない。
少し反省していると、それを見計らっていたかのように小娘が戻って来た。
いつものように、のほほ~んとした笑顔を浮かべ、呑気に歩いて来る様を見ていると、先程の反省はすっかり消え失せ、かわりに怒りが沸々と湧き上がる。
「お待たせしました。ヒメナさん、ただいま戻りましたヨ!」
「あんまり遅いから、てっきり逃げたのかと思っていたが?」
俺の辛辣な言葉に小娘は悪びれた様子もなく、飄々と答える。
「一時の激情に任せてオイシイ話を棒に振るホド、ヒメナさんは浅はかじゃあ、ありませんヨ」
小娘の言う『オイシイ話』というのは、俺の髪の売却額を半分頂くという話のことだろう。
「それにヒメナさんが遅くなったのは、いろいろ情報収集していたカラで、決して、遊んでいたわけではアリマセン!」
「……情報収集?」
「ハイ」
小娘が両手を腰にあて、胸を張りながら得意げな顔をする。
「宿屋と一口に言っても、いろいろあるんデスよ。中には追い剥ぎ宿と呼ばれるような悪質な店もありマス。ちなみにそこでは、身ぐるみ剥がされるだけならまだマシで、酷いと命まで奪われますからネ」
「そんな宿屋が存在するのか!?」
信じられず、問い返す俺に、小娘は大きく頷いてみせた。
「だから賢いヒメナさんは、この村の宿屋の評判を村人達に聞いて回ってたんデスよ。やはりこの村のことをよく知ってるのは、この村で生活している人達ですからネ」
小娘が誇らしげな笑顔で俺を見る。
「ほかにも宿屋の前で張り込んでて、出て来た客を捕まえて話を聞くっていう手もあるんですケド、ある程度利用客のいる大きめの街でしか使えないんデスよねェ」
やれやれと両手を広げて、小娘が首を左右に振る。
――こいつ、意外と馬鹿ではないのか?
今、小娘が語ってきかせた知恵は、俺が聞いたこともない話ばかりだ。愕然としていると、小娘が話題をリズ村の宿屋のことに戻した。
「あ、それでデスね。この村の宿屋についてなんですケド」
「……何か問題があったのか?」
わざわざ言葉を切ったので心配になったが、とうの小娘はけろりとした顔で事も無げに先を続ける。
「いえ、なかなか評判良かったデスよ。一応宿屋にも行って直接宿屋の主人からお話も聞いてきましたが、宿泊料もまァ妥当なところデシタ。料理もそれなりに美味でしたし、今夜はここに泊まりまショウ」
「そうだな……」
一応賛同したが、何故か小娘の言葉が頭に引っ掛かる。
――何が引っ掛かるんだ?
先程の小娘の言葉を頭の中で反芻する。
そして、ある場所でぴたりと思考が止まった。
――これか!
「イサ。ヒメナさんが案内しますカラ、ついて来て下さいネ」
そう言って、俺に背を向けて歩き出した小娘の頭を背後から思いきり掴んだ。
「……今度はなんデスか?」
後ろを向く気配もなく、小娘がわざと明るく振る舞う。
その明るさを無視して、俺は小娘を追及する。
「さっきお前はこう言ったよな? 『料理もそれなりに美味でした』って。なんで初めて行く宿屋の料理の味をお前が知っているんだ?」
「!」
しまったというように小娘の体が一瞬びくっと動く。
「さあ。納得のいく説明をしてもらおうか?」
「……ヒメナさん、そんなこと言いましたっけ?」
内心の動揺を押し隠し、小娘がしらっととぼけてみせる。
表情は見えないが、おそらくはわかりやすい作り笑顔をしているんだろう。
「……今すぐ正直に話せば、許してやるぞ?」
「話す! 話しマス!! だから、頭を潰すのだけは止めてクダサイ!!」
頭を掴む手に込められた殺気を敏感に察知した小娘が態度を一変する。
その後、半泣きで語った小娘の言い分はまとめると、この村の宿屋は食事だけの提供もしていて、1階は食堂、2階は宿泊施設になっているらしい。
そして、宿屋の主人に話を聞きに行ったおり、ちょうど食事をしている人達がいたので、話を聞いたついでに食事も少しご馳走になったとか。
「あんまり料理が美味しそうだったものですカラ、『一口ちょうだい』と上目遣いで可愛くおねだりしたらくれたんデス。でも、本当にちょっとだけデスよ? イサを待たせて1人だけ先に食事したわけじゃありませんヨ?」
俺の機嫌を窺うように、小娘が一言ずつゆっくりと言葉を選ぶ。
「あの、正直に話しましたし、そろそろ手を放して頂けないでショウか?」
「……そうだな」
「ぎゃおう~!!」
一度頭を握り締めた後で、小娘の願い通り手を放してやった。
「嘘つきデス。『正直に言えば許してやる』って言ったクセに!」
小娘が両手で頭を押さえながら、俺と少し距離をとった後で、ぼそっと呟いた。
だが、それには気づかない振りをして、小娘に声を掛ける。
「それで、宿屋は何処だ?」
「あ、はい。こっちデス」
両手で頭をさすりつつ、小娘が俺を先導する。
特に会話もないまま歩き、ある建物の前で小娘がぴたりと歩みを止めた。
「着きマシタ」
くるりと振り返り、小娘が簡潔に述べる。
宿屋は周りの家と同じ木製の建物で、他と比べたら少し大きいかという感じの質素な造りだった。
入口に看板が出ていなければ、ただの民家にしか見えない。
「あの~、それでデスね。中に入る前に言っておかなければならないことがあるんですケド…」
頭を両手でガードし、視線を泳がせながら、小娘が言いにくそうに切り出す。
――こいつ、まだ何かしでかしたのか!?
小娘の態度から、良い報せでないことは間違いない。
俺は眉間に皺を刻み、小娘の次の言葉を待った。
俺の機嫌が一瞬で悪くなったのを悟った小娘は、じりじりと俺の手が届かない位置まで後退り、そして開き直った。
「今夜はヒメナさんと同じ部屋で寝てもらいますヨ! なお、イサに拒否権はアリマセン!!」
「……は!?」
「し、仕方ないんデスよ! ヒメナさんのお財布の中身では、2部屋借りる余裕がなかったんデス!! だからヒメナさんと相部屋でも我慢して下さいヨ!」
畳み掛けるように小娘が言う。
――そういえば。
俺は昨日の出来事を思い出す。
粗末な家に、質素な食事。
余計な物は何ひとつない室内。
それに――。
意識を目の前の小娘に向ける。
明らかに安物とわかる衣服。
革ではなく、木を削って作った靴。
確かに小娘の言う通り、たいした貯蓄がないということも納得できる。
「……それなら仕方がないな」
「ほェ?」
小娘が素っ頓狂な声を上げる。
「なんだ?」
「イエ。てっきりもっとごねるかと思っていたモノで。……聞き分けが良すぎてなんだか怖いデス」
後半部分を小声でぼそっと吐き捨てる。
「何か言ったか?」
「イエ。聞き分けが良いのは大変素晴らしいことだと思いマス」
小娘が右手を高速で左右に振り、俺の言葉を否定する。
その様子に苦笑しながら「金がないのに文句を言っても仕方がないだろう?」と俺が言うと、小娘は一瞬驚き、そしてすぐいつもの、のほほ~んとした笑顔になった。
話がまとまったところで、小娘が宿屋の扉を開けると扉に付けられているのであろうベルがカランと鳴る。
室内に入ると小娘はすぐにカウンターへ直行した。 俺はなんとなく、その場に立ち尽くして、室内の様子を眺める。
カウンター内には中年の男が1人。
おそらくこの宿屋の主人だろう。
そして丸テーブルを囲っている複数の客が2組。
その間を何度も行き来している従業員の女が1人。
小娘はカウンターにいる男と何やら楽しげに会話をしている。
しかもその合間に、丸テーブルにいる客達(先程小娘が料理をたかった連中なのだろう)に愛嬌を振りまくことも忘れていない。
――器用なものだな。
小娘が宿屋に入ってまだ数秒なのに、すっかり場の空気に溶け込んでしまっている。
あたかも数時間前から、当たり前のように『そこ』にいたかのようだ。
――小娘にこんな特技があったとは。
こういう才は天性のものだから、誰でも会得できるものではない。
だが、ここまで見事に溶け込むからには、それなりに場数を踏んでいるのだろう。
――情報収集をするには便利な能力だな。
のんびりそんなことを考えていると、小娘がいきなり俺を呼んだ。
「イサ~。ちょっとこっちに来てクダサイ」
その声を合図に、その場にいた人間が視線を俺の方へ向ける。
一斉に注がれる視線。
その視線の中に混じる、驚きと好奇。
わかっていても、思わず顔をしかめてしまう。
「なんだ?」
不機嫌に吐き捨て、カウンター前にいる小娘の所まで移動する。
その間も視線は俺を追ってくる。
「お兄さん。黒髪なんて珍しいね。どこの人だい?」
小娘が何かを言う前に、カウンター内にいる中年の男が口を挟んできた。
馴れ馴れしい口調が癇にさわる。
「貴様に教える義理はない」
「違うんデスよ、マスター。これは、染めてるんデス」
小娘がわざと言葉を被せて、俺の発言を打ち消した。
「染めてる?」
どうやら俺の台詞は、カウンターの男には届いていなかったらしく、不思議そうな顔で小娘の発言を繰り返した。
おそらく、小娘の不可解な言葉を聞いていた者は揃って首を捻っていることだろう。
何故なら、当事者である俺自身も訳がわからないのだから。
俺は解せないまま、視線を小娘に向け、次の言葉を待った。
「ハイ。実はコレ、染め粉で染めてるんデスよ」
小娘が満面の笑みを浮かべながら、言葉を続ける。
「今度、客引きに使おうと思って、試しに使ってみたんデスよ。上手く人目を引けるか心配してたんですケド……この分じゃ、大丈夫そうデスネ♪」
一瞬の沈黙の後、爆笑がその場を支配する。
「なんだ! すっかり騙されちまったよ!!」
そう言いながら、カウンターの男が俺の髪をじろじろと見る。
だが、男の視線からは好奇の色が消えていた。
いや、カウンターの男だけでなく、先程まで容赦なく突き刺さってきた好奇の矢も、小娘の一言で一斉に消えてしまった。
残ったのは、ただ純粋な驚きだけだ。
――この小娘。
のほほ~んとしている小娘を見据える。
――まさか、こうなることを見越して、俺を呼んだのか?
まず自分に注目を集め、次にわざと俺を大声で呼ぶことで、周囲の視線を俺に集中させ、そして最後に期待を裏切り関心を逸らす。
完璧だ。
だが、小娘が意図してしたことなのか?
俺の視線に気づいた小娘と目が合う。 小娘は一瞬、きょとんとした顔を見せた後、俺の疑惑を察したのか、口角を引き上げ、悪巧みを思いついた時のような意地の悪い笑みで、俺を見返してきた。
――こいつ……。
その笑みが何よりの答えだ。
小娘は間違いなく、すべてを計算していた。
「それにしても、斑なく綺麗に染めたもんだな。原料は何を使ってるんだい?」
小娘の本性にも気づかず、カウンターの男が更に言葉を重ねる。
小娘は小娘で、すぐに意地の悪い笑みを引っ込めて「それは企業秘密デス」なんて嘯きながら、偽りの笑顔でにこやかに受け答えをしている。
――やはりこの小娘、油断がならない。
きつい眼差しで、小娘を睨みつける。
「それじゃあ、イサ。ここにサインをお願いします」
まるで何事もなかったかのように、小娘が平然とした様子で、カウンターの上に置かれた白紙の台帳を指でさす。
「その間、ヒメナさんは宿代を支払っておきますカラ」
「このペンを使って宿帳に記入お願いしますよ」
カウンターの男が、小娘が指した台帳の横にペンを用意しながら話す。
「ここに書けばいいんだな?」
「あっ、ついでにヒメナさんの名前も書いといて下さいネ」
横から小娘が口を挟む。
そのことに対して、何か言ってやろうと思ったが、すでに小娘は宿屋の主人と宿泊費について話し込んでいたため、言葉を飲み込み、素直にペンを握った。
――さてと。
俺はペンを握った状態で考え込んだ。
――さすがに本名を書くわけにはいかないしな。
今までは、適当な偽名で宿泊していたが、今回は小娘がいる。
もし適当な名前を使えば、確実に怪しまれる。
それにこの場にいる者にも、小娘の言葉で俺が『イサ』と呼ばれていることは知られたし。
思い悩んだ末、宿帳には仕方なく『イサ』と記入した。
――後は小娘の名前だけだな。
そこでまた、ペンが止まった。
――小娘の名前って、なんだっけ?
ヒメナ? ……いや、ヒメノだったか?
ずっと小娘と呼んでいたから、はっきりと覚えていない。
興味のないことは、何度聞いても覚えていないものだな。
そんなことを考えながら、俺は最初の直感を信じて『ヒメナ』とペンを動かした。
――まあ、小娘の名前など間違っていたところで、大した問題でもないだろう。
俺がペンを置くと、それを待っていたかのように小娘が声を掛けてきた。
「あっ、書けたんデスか?」
「ああ」
「はい、確かに」
俺が奥へ押しやった宿帳をカウンターにいる男が手に取り確認した。
「それじゃあ、これが部屋の鍵。そこの階段を上がって、奥から2つ目の部屋だよ」
男はカウンター内の壁に取り付けられた金具に引っ掛けられた鍵のうち1つを取り上げると、小娘に手渡し、カウンターの脇にある階段を指で示した。
俺と小娘は一旦部屋に荷物を置きに行くと、すぐに夕食を取るため階下に降りた。
席につき注文してから数分で、次々と料理が運ばれて来る。
その中には、近々臨時収入が手に入るのでかなり奮発した(小娘談)鶏の唐揚げの姿もあった。
小娘は狂喜乱舞しながら、骨付きの唐揚げにかぶりつき、肉の一片までもしゃぶり尽くしたあげく「いい出汁がとれるかもしれません」と綺麗な骨をポケットにしまい込もうとしたが、さすがにそれは止めた。
完食後、皿に残された鶏の骨を名残惜しそうに眺め「ヒメナさんの鶏がらスープ~」と呟く小娘がこれ以上醜態を晒す前に、俺は小娘の頭を掴み、強制的に席を立たせた。
それでもまだ、名残惜しそうに鶏の骨を見つめる小娘を引きずり、2階にある部屋へと向かう。
「イサ。部屋に戻ったらどうするんデスか?」
階段を上がっている最中に、小娘がのんびりとした口調で言った。
俺は小娘を見ずに答える。
「今日は疲れたから、もう寝る」
「そうデスか。それじゃあ、ヒメナさんも寝マス。唐揚げの余韻を忘れないうちに」
小娘の表情は見ていないが、おそらくこの世の幸福を独り占めしたような、極上の笑みを浮かべているであろうことは、想像に難くない。
唐揚げごときで、ここまで幸せになれるとは、ずいぶんと安上がりなものだな。
心の中で悪態をついていると、またもや小娘が話し掛けてきた。
「あの、イサ。……部屋に入る前に一応、言っておきたいことがあるんですケド」
「なんだ?」
小娘の言葉で、俺は部屋の前で立ち止まり、小娘の顔を見た。
小娘は俺の目をしっかりと見つめ、笑顔でこう続けた。
「いくらヒメナさんが可愛いからって、お触りは厳禁デスよ。……まァ、寝顔を眺めて妄想するくらいなら、別にかまいませんケド」
にやりと黒い笑みを浮かべる小娘に、俺は絶句するしかなかった。
間違っても端正とは言い難い顔。
まっ平らな胸。
くびれのない腰。
全体的に色気の欠片もない肢体。
――これのどこに欲情しろと!?
「はんっ!」
「今、鼻で笑いましたネ!? ヒメナさん、とっても傷つきマシタ」
「こんなことで傷つくほど、繊細な神経をしているわけがないだろう?」
「酷いデス! ヒメナさんは精神的苦痛を受けマシタ。もうここから一歩も動けまセン」
小娘が胸を手で押さえ、わざとらしく泣き真似をしてみせる。
「そうか。それなら一生動かなくてもかまわんから、とりあえず部屋の鍵だけはよこせ」
俺が手を差し出すと小娘は泣き真似をやめ、かわりに口を尖らせ頬をぷぅと膨らませた。
「いいデスヨ! ヒメナさんが開けマス!!」
俺を押しのけ、小娘がドアに鍵を差し込む。
鍵の開く音がすると、すぐに小娘がドアを開いた。
部屋の中に明かりはついていないが、正面の窓から漏れてくる月光が部屋全体をぼんやりと照らしている。
部屋の中には、窓を挟んで両端の壁に沿うようにベッドがひとつずつ置かれているだけだ。
「きちんと鍵を掛けておけよ」
言いながら、小娘の脇を通り抜け、室内に入る。
「わかってますヨ!」
不機嫌な小娘の声を背後で聞きながら、俺は月明かりを頼りに、向かって左手のほうに進んでいく。
迷わず左手のベッドへ向かったのは、食事前に一度荷物を置きに来た際、どちらのベッドを使うかを小娘と決めていたためだ。
俺はベッド脇に置いた荷物をざっと目視し、異常がないことを確認すると、剣と剣帯をはずし、枕元に置いた。
一夜の間に剣が必要になるようなことがあるとは思えなかったが、念を入れておいて損はないだろう。
靴を脱ぎ、ベッドに転がる。
そしてそのまま、もう一方のベッドに背を向けるように寝返りをうった。
室内にはコツコツという小娘の木靴の音だけが響き、それもじきに止んだ。
どうやら宣言通り、明かりもつけず、すぐベッドに向かったようだ。
――疲れた。
ベッドで横になった途端、今日1日分の疲労が一斉に襲ってくる。
静寂の中、俺はふぅと小さく息を吐き出すと、身体を休めるためにゆっくりと目を閉じた。
――――――。
――――。
――。
ようやく、うとうとした頃、部屋の空気が動いた。
一瞬で眠気が吹き飛び、寝た振りをしたまま、神経を張り巡らす。
ギシ、というベッドのスプリングが軋む音がして、続けて木靴が床を鳴らす。
初めは小娘がトイレにでも行くところかと思ったが、足音は俺のほうへ近づいて来る。
――何をする気だ?
俺は寝た振りを続けながら、枕元に置いた剣に手を伸ばした。
何かあればすぐにでも反撃できるように。
俺の寝ているベッドの側まで来ると、足音がぴたりと止まった。
殺気や敵意という物は感じられない。
だが、注がれる視線が俺を刺す。
――静かだ。
小娘に何か動きがあれば、すぐにでも次の動作に移れる用意はしている。
しかし小娘は、なかなか次の行動に移ろうとしない。
このままでは、こちらとしても対処の仕様がない。
どうしたものかと考えていると、ようやく小娘がこの部屋の静寂を破った。
「イサ。もう寝てマスか?」
静かな声だったが、音のない部屋ではかなり響く。
注がれる視線から、小娘が俺の反応を確かめているのがわかる。
だが、俺はそのまま寝た振りを続けた。
小娘は俺が本当に寝ていると思ったらしく、しばしの沈黙の後、ようやく次の言葉を口にした。
「たぶん起きている時は言えないと思いマスので、今言いますネ」
一呼吸置いて、小娘がゆっくりと語り出す。
「ありがとうございます。第一歩を踏み出すきっかけをくれて。これでも私、感謝してるんデスよ」
視線が柔らかな物に変わり、伸びてきた手がずれた掛け布団を直す。
「風邪、ひきますヨ」
掛け布団を直した手でそのまま俺の髪を撫でる。
「ギトカまであと少しですケド、よろしくお願いしますネ。オヤスミナサイ」
名残惜しそうに、俺の髪に触れていた手が離れていき、また木靴の音がした。
先程とは違って、今度はゆっくりと、遠のいていく。
ベッドの軋む音がして、しばらくすると小娘の規則正しい寝息が聞こえてきた。
――寝たのか。
瞑っていた目を開き、上半身を起こす。
暗くてよく見えないが、動きがないことから思った通り、小娘は眠りについているらしい。
――なんだったんだ? 今のは。
小娘の寝ているベッドへ視線を向けたまま、小娘に触れられた箇所に手をやる。
髪には当然温もりなんて残っていない。
だが、なんとも形容しがたい気持ちが、体内から湧き上がってくる。
「変な奴」
わざとこぼした言葉と共に、正体不明の感情を吐き出す。
どうせ、あと少しの付き合いだ。
小娘が何を企んでいようが、俺には関係ない。
そう自分に言い聞かせ、俺は再度ベッドに体を預けた。
しかしその夜、俺が眠りにつくことはなかった。