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ヒメナの世界、イサの世界

ヒメナ「イサの目に映っている世界はどんな世界デスか?」

イサ「……質問の意図がわからないのだが?」

ヒメナ「世界はひとつじゃあないんデス。みんな同じ物を見ているようで、違う世界を見ているんですヨ」

イサ「何かの謎掛けか?」

ヒメナ「世界は平等で、そして時に残酷デス」

 薬草をみほぐし、俺の右手の傷口に塗り込むと、ヒメナが仕上げにハンカチを巻く。


「さァ、これで安心デス」


 ふぅと息を吐いたヒメナが腕で額の汗を拭う仕草をして、にっこりと笑った。

 俺はハンカチを巻かれた自分の右手に視線を落としながら、ヒメナに礼を言う。

 それを聞いたヒメナは、嬉しそうに破顔した。


「それじゃあ、そろそろ荷物をまとめて行きましょうか? これ以上ゆっくりしてたら、今日の予定地まで行けませんヨ」

「ああ。そうだな」


 俺が同意すると、ヒメナは地面に放置されたままになっていた童話を手に取った。

 さっきの騒動で砂でも付いていたのかヒメナが童話の表面を手で払う。

 そして、申し訳なさそうな表情を浮かべて俺に謝った。


「スミマセン。これを貰った時、一生大切にするって約束していたのに、汚しちゃいマシタ」


 意気消沈とした様子のヒメナが頭を下げる。

 そんなヒメナを慰めようと、俺は努めて明るく言った。


「ヒメナが粗雑に扱ったわけではないのだから気にするな。だいたい童話のことといい、俺の怪我のことといい、ヒメナは大袈裟過ぎだ」

「…………それはイサが恵まれているから言えるんデスよ」


 面を上げたヒメナの目は、何故か哀しみの色をたたえていた。


「スミマセン。イサがヒメナさんのことを思って言ってくれたのはわかっていマス。だけど、大袈裟だって言えるのは、イサに多少の医学の心得があるからデス」


 その言葉を皮切りにヒメナが故郷ミニアル村でのことを語り出した。


 ミニアル村に医師はいない。

 それどころか薬師など多少の医学知識を持った者すら一人もいない。

 だから、怪我をしたり病気になっても少々なら放っておく。

 もちろん、大怪我をしたり、症状が悪化したりすれば、医師に往診を頼む。

 しかし、一番近くでも徒歩で片道2時間はかかる。

 そのため、せっかく医師を呼んで来ても、すでに手遅れという場合も多いのだという。


「『もし初期症状のうちに適切な治療ができていたら助かったかもしれない』そう医師から言われたことも一度や二度ではないデス。だけど、そんなことわからないじゃあないデスか? だって、誰も判断できないんデスよ? 放っておいても自然と治るのか。医師による治療が必要なのか」

「自分達で判断ができないのなら、早いうちに医師の診察を受ければいいだろう?」

「……そうデスね。お金さえあれば、それが一番いいんでしょうケド、貧乏人はそう易々(やすやす)と医師の世話にはなれないんデスヨ」


 哀しみと憂いを帯びた目で、ヒメナが遠くを見つめる。


「こんなことを言ったら、イサは『お金と命どちらが大切なんだ?』と思うかもしれません。だけど貧乏人にとって、医師の受診料を捻出ねんしゅつするのは、命を削るようなものなんデスよ。それとも、また『大袈裟だ』と笑いマスか?」


 遠くを見ていた目を俺へと向けて、ヒメナが哀しそうな微笑を浮かべる。

 俺が何も答えられないでいると、ヒメナは汚れてしまった童話を大切そうに抱きしめて、ぽつりと呟いた。


「イサには、本当に感謝しているんデスよ。ヒメナさんに読み書きを教えてくれて」


 どこか哀しそうな笑顔を浮かべて、ヒメナが話す。


「イサ。ヒメナさんはこれまで、読み書きができなくて哀しい思いや悔しい思いをしたことはたくさんありましたケド、それが生きるために必要なことだと思ったことは一度もありませんデシタ。だって畑仕事や家事をするのに、読み書きなんて必要ありませんカラ」


 自分の言葉を噛み締めるようにヒメナが胸に抱いた童話をぎゅっと抱きしめる。


「だけど、イサに文字を教えてもらって、読み書きができるようになって初めて世界を見た時、ヒメナさんは愕然がくぜんとしたんデスよ。世界にはこんなにも文字が……文字による情報が溢れていたことに」


 童話を抱きしめたまま、目線を落とす。


「今なら、読み書きができないヒメナさんのことをバカにしていた人達の気持ちが少しだけわかるような気がしマス。だって、あんなにもたくさんの情報を知らずに生きていたんですカラ。そして、そのことに気づきさえしなかったんデス」

「ヒメナ……」

「イサ。ヒメナさんはイサが思っている以上にイサに感謝しているんデスよ。だってイサはヒメナさんに新しい世界をくれたんですカラ」


 なんと声を掛けたらいいのかわからず戸惑う俺に、ヒメナが仕切り直すように顔を上げて俺の名を呼ぶ。


「これまで普通に過ごしていた世界が一変して、鮮やかに色づいていくような、そんな気持ちは、きっと同じ世界を見て来た者にしかわかりまセン。本当にありがとうございマス」


 表面的には、俺への感謝の言葉だ。

 しかし、無自覚で言ったであろう、その言葉の裏に潜むヒメナの心が、俺の胸に痛みを与える。


『同じ世界を見て来た者にしかわからない』


 つまり、俺にはヒメナのことを理解できないし、ヒメナもまた俺が理解できるとは思っていない。

 決して分かり合うことなどできないと、そう言外に言っているのだ。

 ヒメナからはっきりと線引きされたことに傷つくとともに、自分の身勝手さに苦笑する。

 先にヒメナに対して一線引いたのは自分だ。

 それなのに、ヒメナが同じことをしたら、俺は許せないでいる。

 俺はこんなにも我が儘だっただろうか?

 急に笑い出した俺を不思議そうに眺めるヒメナを見て、胸がうずく。

 ヒメナの見て来た世界を見てみたいと、俺の心が渇望する。


 ヒメナの見て来た世界。

 それは、ヒメナが15年間生きて来た世界。

 文字という情報のない世界。

 そして、俺が決して見ることのできない世界――。


 俺を見つめる焦げ茶色の瞳の奥まで覗き込むように、ジッと見つめ返す。

 ヒメナのその目には、世界はどのように映っているのだろう?

 いま無性に、その目を通して世界を見てみたい。

 そうすれば、少しはヒメナの心に触れられるような気がするから。


「イサ?」


 いぶかしげに呼びかけるヒメナの声で我に返る。


「どうかしたんデスか?」

「いや。なんでもない」


 夢想を振り払うように、首を軽く横に振る。


「それよりも早く次の町へ行くぞ」

「そうデスね。急いで準備しマス」


 特に突っ込むこともなく、ヒメナが急いで支度を済ませる。

 そうして俺達は、互いに少しの(わだかま)りを残したまま、次の町に向けて歩き出した。

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