傷痕、懺悔と赦し
ヒメナ「今話のみ、ややいかがわしい表現が含まれマス。閲覧は自己責任でお願いします」
イサ「わざわざ警告するほどの内容か?」
ヒメナ「黙りやがれデス。この諸悪の根源がっ!」
イサ「……それは誰のことだ?」
ヒメナ「本人が一番わかってるんじゃあないデスか?」
浅い眠りと覚醒を何度も繰り返し、うとうととしていた俺は、だんだんと近づいて来る誰かの乱暴な足音で目が覚めた。
――誰だ? あと、廊下は走るな。
寝起きの働かない頭でそんなことを考える。
そして起きようか、それともこのままもう一度寝ようかとベッドで横になったまま迷っていると、突然この部屋の扉が開いた。
「ヒメナちゃーん! いるー?」
「うるさいぞ、リリィ。それとドアを開ける前はまずノックをしろ」
俺は入口を見ることなく、礼儀知らずの侵入者に文句をつけた。
「そんなことより、ヒメナちゃんがどこにいるか知らない?」
俺の文句を『そんなこと』呼ばわりするリリィにイラっとしつつも、さっさと追い払いためリリィの望む答えを教えてやる。
「ヒメナなら、今日の夕食の材料を買いに出かけたきり、まだ戻ってないぞ」
「えー。せっかくヒメナちゃんとお昼を一緒に食べようと思ったのに!」
「それは残念だったな。わかったら、おとなしく――」
「それじゃあ、イサでもいいわ。一緒にお昼を食べに行きましょ」
「はあ?」
予想外の言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げて、リリィの顔を見た。
深紅の長い髪を後ろでひとつにまとめているせいか、いつもより凛々しく見えるリリィ。
そのリリィが、俺の視線に自分の紫紺の瞳を重ねる。
「だから、一緒にお昼を食べましょうって言ってるの。どうせ仮病なんでしょ?」
「何故、仮病だと言い切れる?」
内心の動揺を隠しながら、嘯く。
「だって、本当に体調不良だったら、イサは絶対素直にそれを私や兄様には言わないでしょ? 弱みを見せたくないのか、昔っから本当に体調が悪い時ほど『なんでもない』って、バレバレの嘘をつくのよね」
駄目だ。
完全に俺の性格を読まれている。
こうなったら少々強引にでも、速やかにリリィを追い出そう。
「仮病だと思いたいのなら、そう思っておけ。俺は体が怠いから寝る。食事はひとりで行って来い」
俺は頭まで掛け布団を被り、リリィに背を向けた。
しかし、拒否の姿勢をしながらも、背中に神経を集中させ、リリィの動向を窺う。
「もう、しょうがないわね」
そう呟くと、リリィは歩き出した。
やっと出て行ったかと、ホッと胸をなで下ろしたのも束の間、何故か本来なら遠ざかって行くはずのリリィの足音が、再び俺のほうへと戻って来る。
そして、ギシッという音とともにベッドの端が沈んだ。
「……出て行ったのではなかったのか?」
「私は一言も、出て行くなんて言ってないわよ?」
寝返りを打ち、ベッドの端に腰掛けているリリィを見上げる。
「ここにいても、昼食は出て来ないぞ?」
「わかってるわよ。ただ偶然とはいえ、イサと2人きりになれるチャンスなんて滅多にないんだから、この際ちょっと話をするのもいいかなーって」
面白い遊びを見つけた子どものような目で俺を見下ろすリリィに、俺は諦めてため息を吐いた。
「なるべく手短に頼む」
「そう来なくっちゃ!」
弾むような声の後、リリィが少し腰を捻り右手をベッドについた状態で、まっすぐ俺に視線を送る。
「イサはヒメナちゃんのこと、どう思ってるの?」
さっきまでの騒々しさが嘘のように、真剣な眼差しをしているリリィを見て、俺は既視感を覚える。
だが既視感の正体は、すぐに思い出した。
昨日はソルだったが、さすがは兄妹。
よく似ている。
「昨日ソルにも、似たようなことを言われたぞ?」
「あら、そう?」
俺の揺さぶりをあっさりと受け流し、けろりとした顔でリリィが答える。
「やっぱり兄様も気になってたのね。まあ、あれだけ人前でいちゃついていればねぇ」
意地悪く笑うリリィに「お前ら兄妹の目は腐っているのか」と言いかけて、言葉を飲み込む。
反論すれば、そのぶん追及が厳しくなることは、昨日学習済みだ。
しばらくクスクスと笑っていたリリィだったが、俺が黙りを決めこんだとわかるや否や、突然神妙な面持ちで、こう切り出してきた。
「昨日ヒメナちゃんに対して急に態度が冷たくなったのは、兄様に何か言われたせい?」
いきなり核心を突かれ、反応に困っている俺を見て、リリィが話を続ける。
「大方『ヒメナちゃんと別れろ』とでも言われたんでしょ?」
「なんでそのことを……?」
「伊達に長年付き合ってるわけじゃないわよ。兄様の言いそうなことも、何を言われたらイサがああいう態度をとるのかも、私にはすべてお見通しよ」
言葉通り、本当にすべてお見通しなリリィに驚きながらも、俺は素直に称賛の言葉をかける。
「すごい観察眼だな」
「そう。私、すごいの。だから、イサがヒメナちゃんと別れようと思った理由もちゃんとわかってるわよ」
口元に笑みを浮かべ、俺の目をまっすぐ見ながら、リリィが艶やかな唇を動かす。
「怖いから、でしょ?」
「怖い? ……俺が?」
リリィは何を言っているんだ?
俺はただ、これ以上一緒にいれば、ヒメナにも危害が及ぶかもしれないと思ったから、ヒメナのために――。
口には出さなかったが、リリィには俺の心の声が聞こえたらしい。
無理に作った微笑が哀しそうに歪む。
「イサは怖いのよ。いつか、すべてを知ったヒメナちゃんが自分を拒絶することが。いつか、自分の『力』がヒメナちゃんを傷つけてしまうかもしれないことが。――私にしてしまったように」
言い終わるのとほぼ同時にリリィが動く。
そして、衝撃と動揺で瞬きすらできずに固まっていた俺の意識が戻った時、すでにリリィは俺の上に跨がって、俺を見下ろしていた。
「……リリィ?」
現在、自分の置かれている状況が飲み込めず、恐る恐る声をかけるが、リリィは何も答えない。
無言のまま、険しい表情で俺をじっと見つめている。
沈黙の中、どれぐらいそうして見つめ合っていただろうか?
突然リリィが大きく息を吸い込むと、意を決したように自身の襟元のボタンに手をかけた。
首元までしっかりとしめられたブラウスの一番上のボタンを、リリィが丁寧に外す。
そのままリリィは、順番にブラウスのボタンを外していくが、さすがに途中で俺は目を逸らした。
この場から離れるのが一番良いのだろうが、リリィが上に乗っているため、下手に動くことができない。
力ずくでリリィを退かせることはできるが、そうなるといくら注意していても、やっぱり色々と目に入ったり、触れたりするだろうし、あまり気が進まない。
そもそもリリィの目的がわからない以上、余計な行動は慎んだほうが賢明だ。
「イサ。見て」
酷く落ち着いた声で、目を逸らしたまま身動きできずにいる俺に、リリィが話しかける。
「目を逸らさないで。ちゃんと見て」
意図がわからず困惑している俺を見て、リリィがさらに言葉を付け加える。
「ちゃんと見て。この傷痕を」
「!」
リリィの言わんとすることをようやく理解した俺は、そろそろとリリィに視線を移した。
――!!
衝撃で言葉もなかった。
胸をはだけ、露わになったリリィの白い肌を縦に走る一本の赤い線。
その赤い線は、鎖骨の辺りから両胸の間を通り、鳩尾の下までまっすぐにのびている。
「この傷……」
リリィの傷痕に触れようと無意識に伸ばした手が自分の視界に入り、すんでのところで思いとどまる。
ソルから、リリィの胸にはいまだにあの時の傷痕が残っているとは聞いていたが、まさか11年経った今でもこんなにはっきりと残っているとは思ってもみなかった。
なまじ容姿が良いだけに、胸の傷痕がよりいっそう際立ち、痛々しい。
「どうにかして、消せないのか?」
「兄様が色々と手を尽くしてくれたんだけどね。これ以上は無理みたい。だけど、これでもだいぶマシになったのよ」
ソルがリリィのために手を尽くしたというのなら、おそらくこれが現在の医療技術の限界なのだろう。
しかも、これでだいぶマシになったのなら、もとはどれほど酷い傷だったのか、俺には想像もつかない。
――本当に俺は、もう少しでリリィを殺してしまうところだったんだな。
リリィの身体に走る赤い傷痕を目の当たりにして、今更ながらそれを実感する。
もちろん、自分がリリィに生死をさまようほどの怪我を負わせたという認識はあった。
だが、実際にリリィの傷口や手術の様子を見たわけではなかったため、リリィの容態を聞いても、いまいち現実感が薄かったことも、また事実だ。
「リリィ。すまない……」
自然と口から零れる。
「本当に、すまない」
微笑を浮かべて俺を上から見下ろしているリリィに、心から詫びた。
俺の謝罪を聞いたリリィは、一瞬驚きの表情を見せたが、すぐ穏やかに笑って、ゆっくりと首を横に振った。
「謝らないで。むしろ、謝らなければならないのは私のほうだから」
そう言うとリリィは、俺に跨がった状態のまま、やや前屈みになる。
思わず、胸元に視線が行くが、すぐに気づき、視線をリリィの首から上に固定した。
「私ね、思い上がってたの。イサのことならなんでも知ってるって。だからあの日も、嫌がるイサを無理に外へ連れ出そうとしたの。それがイサのためだと本気で思ってたから。その結果が――」
無言で視線を自身の胸の傷へ向ける。
そして、自分に言い聞かせるようにリリィが呟いた。
「傲慢だったわ。私」
思い詰めた顔をしたリリィが俺をまっすぐ見つめる。
「私はね。ただイサに元気になってもらいたかったの。だけど、独りよがりな私の行動が、余計イサを傷つける結果になってしまって――」
潤んだ瞳から堪えきれずに溢れ出たリリィの涙が、俺の顔に落ちる。
「ごめんなさい。本当ならもっと早く言わないといけなかったのに。本当にごめんなさい」
なおも零れる涙を指で拭いながら謝罪するリリィの姿に、俺は動揺を隠せないまま、それでも今の素直な気持ちを伝えた。
「リリィが謝る必要はない。リリィは俺のためを思ってしてくれたんだろう? それなのに、俺はそんなリリィの気持ちにも気づかず大怪我を負わせて、あまつさえそれを心のどこかでリリィの自業自得だと思っていた。だから、リリィが気にすることはない。むしろ、謝らなければならないのは俺のほうだ」
「優しいのね、イサは」
涙を拭い去り、無理に作った笑顔でリリィが俺に話す。
「だけど、それなら私も同罪よ。私だって、イサの気持ちを何も理解していなかったんだもの。それに怪我を負ってすぐの頃は、イサのことを恨んでもいたわ。……もともと切っ掛けを作ったのは私のほうなのにね」
苦しそうに絞り出すようにリリィが言う。
「療養中、胸の傷が痛むたびにずっと『どうして?』『何故?』そう思ってたわ。イサを恨む気持ちと、これまでのイサとの楽しかった思い出が心の中でぐちゃぐちゃになって、つらくて、苦しくて、仕方なかった」
リリィが右手で自分の左胸を押さえる。
「この苦しさから逃れるには、疑問の答えを見つけなくちゃだめだって、何故だかそう思ったのよ。それで、兄様に訊いたの。どうしてこんなことになったのかって。初めは兄様も言葉を濁してたんだけど、とうとう根負けして教えてくれたわ。イサの持って生まれた宿命を」
「……」
「私は、本当に何も知らなかったのね。イサのことも、魔王のことも、何も……」
涙を堪えて、寂しそうにリリィが笑う。
「すべてを知った時、あれだけぐちゃぐちゃだった私の心が、すぅーと澄んでいくような気がしたの。それと同時にイサへの恨みも消えたわ」
「リリィ……」
「それから、いろんなことを考えたわ。私が大切な友人にできることはなんだろうって。そして出た結論は、この先何があってもイサを支えていこうだったわ」
一度言葉を切り、リリィが続ける。
「そのためには、赤緑の医療団に入るのが一番手っ取り早かったのよ。しかも上層部――できれば頂点にね」
――頂点。だからリリィは金の指輪を欲したのか。
痛々しい傷痕に意識がいき、今まで気づいていなかったが、よく見るとリリィの胸元には、赤緑の医療団の最高責任者の証である金の指輪が銀鎖に揺られて光っていた。
――この指輪を手に入れるために、リリィはどれほどつらく苦しい思いをしたのだろう?
俺はふと、どうして金の指輪の後継者がリリィになったのかとソルに問うた時のやり取りを思い出した。
ソルに反対されてでも、自分の意志を貫き通したリリィ。
そのために背負ったあまりにも重い責任。
そして、ソルの言っていた「リリィには柵に捕らわれず、自由に生きて欲しかった」という言葉の重み。
「すべて俺のせいだったんだな……」
呻くように呟く。
「俺がリリィの人生を狂わせたんだな」
「……イサ?」
困惑するリリィに、俺は今感じたありのままの気持ちを伝える。
「もし俺と出会わなければ、リリィは一生残る傷痕をつけられることも、金の指輪の後継者になることもなく、柵のない世界で自由に生きられたのに」
俺を見つめるリリィの紫紺の目が大きく見開かれる。
おそらく驚いているのだろうが、唐突に言われたことに驚いているのか、話の内容に驚いているのかは、その表情からは読み取れない。
俺は自嘲の笑みを浮かべながら、ぽつりと呟いた。
「やはり、俺は誰とも関わるべきではなかったのだな」
次の瞬間、左頬へ鋭い痛みが走った。
俺は何が起こったのかわからず、呆然とリリィを見上げると、リリィが鬼のような形相で俺の胸ぐらを掴み、両手で締め上げてきた。
「ふざけたこと抜かすんじゃないわよ!」
リリィの一喝が空気を裂く。
「何が『俺は誰とも関わるべきではなかった』よ? 何が『すべて俺のせい』よ? 何が『俺がリリィの人生を狂わせた』よ? 笑わせないで頂戴! この胸の傷痕ならとっくに受け入れたし、私は誰かに人生狂わされるほどヤワじゃないわよっ」
苦しいと俺が訴える隙すら与えず、リリィが一気にまくし立てる。
「それにイサと出会わなければ、きっと私は今の『私』じゃなかったわ。イサとの出会いが今の私を形作ってるの。だから、さっきのイサの言葉は、今の私のことすらも否定していることになるのよ!? そこのところ、ちゃんとわかってるの?」
言葉を重ねるたび、リリィが熱くなっていく。
自分でも熱くなっていくのを感じたのか、そこまで一気に言葉を吐き出した後、大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと話し出した。
「それとも、出会ったことを後悔するくらい、私のことが嫌い?」
「そんなことないっ!」
「私もよ。私もイサが好き。イサと出会えて良かった」
即座に否定した俺の言葉を聞いて、リリィが微笑を浮かべながら、俺の胸ぐらから手を離す。
そして、そのまま俺の頬を撫でる。
「だからね、もう赦してあげて。自分自身を。そして色々あった過去も現在も未来も、すべてを受け入れて、自分に正直に生きて欲しいの。宿命だからって、初めから諦めて、全部手放してしまわないで。イサにだって、幸せになる権利はあるんだから」
「でも俺には時間が――」
その続きを言わせまいと、リリィが人差し指を俺の唇に押しあてる。
「わかってる。そのために赤緑の医療団の頂点まで昇り詰めたんだから。絶対に原因を突き止めて、治療法を見つけてみせるわ。だからイサも私を信じて」
まっすぐに俺を見つめる紫紺の瞳。
その力強い眼差しが真実だという証しであるかのように、リリィの胸元で金の指輪が光る。
軽くて重い、その指輪――。
「ああ。ありがとう、リリィ」
俺はいろいろな言葉を飲み込んで、そう答えた。
俺のために重荷を背負ったリリィを、少しでも安心させたくて。
「イサ……」
潤んだ瞳で嬉しそうに微笑むリリィ。
「私、頑張るから!」
そう言うなり、リリィが俺に飛びつく。
昔から感情表現豊かなリリィは、嬉しいことや楽しいことがあった時、よく俺やソルに抱きついて喜びを爆発させていた。
今回のことも、いきなりでびっくりしたが、おそらく子どもの頃の延長線上にあるのだろうと、そっとリリィの背中に手を回す。
そして幼子を宥める時のように、片手でリリィの頭をぽんぽんと撫でた。
その刹那、ドサッと何かが落ちる音がして、反射的に出入口のほうへ顔を向ける。
そこには、驚いたように大きく目を見開いたヒメナが1人で突っ立っていた。
足元には茶色の紙袋が倒れた状態で落ちており、紙袋から零れたと思われるオレンジが2個床に転がっている。
「ヒメナ」と俺が呼びかけるよりも先にリリィが声をかけた。
「あら、ヒメナちゃん。どうしたの?」
その言葉が合図であったかのように、ヒメナの身体がびくっと震える。
そして、あわあわと挙動不審な動きを繰り返すと、慌てて部屋から飛び出し、勢いよくドアを閉めた。
「ヒメナちゃん、どうかしたのかしら。なんか様子がおかしくなかった?」
しばらく2人で、勢いよく閉められたドアをぽかんと眺めていたが、先に我に返ったリリィがそう切り出す。
「ヒメナがおかしいのは、いつものことだろう?」
「それはどうか知らないけど、なんかこう焦ってるというか、見てはいけないものを見てしまったような――」
そこまで言ってリリィが何かに気づく。
それと同時に俺もはたと気づいた。
今の俺達の状況を客観的に見ると、若い男女が密室に2人きり。
そのうえ、ベッドで抱き合っている。
しかも女のほうは胸がはだけている。
これでは、どう見ても情事の最中にしか見えない……。
「ちょっ! ヒメナちゃん待っ! 誤解! 誤解だから!!」
おそらく俺と同じ結論に達したのだろう。
ブラウスのボタンを素早く掛けると、さっきのヒメナと同じくらい挙動不審になりながら、リリィが慌ててヒメナのあとを追う。
一連の騒動が嘘のように静かになった部屋に1人残された俺は、とりあえずベッドから身体を起こした。
なんとなく、床に転がったオレンジが目に付き、ひとつを拾い上げる。
少し大ぶりなそれは、鮮やかで瑞々しく、甘酸っぱい香りが漂う。
俺はその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。




