しばしの休息、ヒメナと麦粥
ヒメナ「麦粥って独特の食感が苦手な人も多いんデスよね。ヒメナさんは好きですケド」
イサ「そもそもヒメナに苦手な食べ物があるのか?」
ヒメナ「そりゃあ、ヒメナさんにだって苦手な物くらいありますヨ」
イサ「なんだ? 言ってみろ」
ヒメナ「そうデスねェ。腐った物とか……」
イサ「それは苦手以前の問題だな」
「うーん。熱はないみたいだけど」
「だから言っただろう? 少し疲れが溜まっただけで、寝ていれば治ると」
ベッドに寝ている俺の額に手を当て、熱を計っているソルにそう言い放つ。
「わかったら、しばらくこのまま1人で寝かせておいてくれ」
掛け布団を顔まで引き上げ、ソルに背を向ける。
「食事は?」
「いらん。食欲がない」
背後からソルの小さなため息が聞こえるが、気づかない振りをする。
「わかったよ。朝食をとったら、僕とリリィは診療所のほうへ行くから、何かあったら連絡して」
今の俺には何を言っても無駄だと思ったのか、そう言い残すとソルはあっさりと引き下がり、部屋を出て行った。
ソルの足音が遠ざかって行くのを確認した後、俺はベッドから身を起こした。
体調が悪いというのは嘘ではない。
ただ、この程度なら、魔王城では間違いなく通常通りに執務をこなしていただろう。
その程度のだるさだ。
しーんとした室内に俺の盛大なため息が零れ落ちる。
――ヒメナは、少しは元気になっただろうか?
昨日の夕食時、俺の本当の名を問うヒメナが、冷淡な返事しかしない俺に見せた、涙を我慢した不自然な笑顔。
その哀しい笑顔が脳裏に浮かぶ。
その影を振り払うように、俺はベッドの上で勢いよく頭を振った。
そういえば、結局ソルに訊くのを忘れていたな。
ふと、住み込みメイドの仕事をヒメナが受けたのかどうかをソルに確認していなかったことを思い出す。
――ヒメナはなんて返事をしたのだろう?
ソルにしてみれば一石二鳥の案なわけだから、かなり好条件を提示したはずだ。
ヒメナだって、もともと魔王退治に行く動機が動機だし、毎日美味しい物を腹いっぱい食べられるなら、わざわざ危険を冒す必要はないはずだ。
――ヒメナのことだから、住み込み先でも上手くやるだろう。
ミニアル村で出会ってからルニガッセまでの道中にあったヒメナとの思い出を思い返す。
くるくるとよく変わる表情に楽しい会話。
ときどき見せる大人びた表情と、俺では考えつきもしないような穿った意見。
何度か衝突したこともあったが、それすらも今では懐かしい。
たった数ヶ月間、一緒に過ごしただけなのに、どうして俺はこんなに感傷的な気分になっているのだろう?
ヒメナと別れるのがつらいなんて……。
どれくらい悶々としていたのだろうか。
俺は、この部屋に近づいて来る足音と人の気配に気づき、慌ててベッドに伏せた。
近づいて来る足音はひとつ。
そのため、ソルが朝食の後、一度部屋に戻って来たのかと思ったが、注意深く耳を澄ますと、大人の男の足音にしては歩幅が狭いことに気づく。
――女、みたいだな。
もしかしてリリィが「イサの体調が悪い? それなら診療所に行く前にイサの診察をしておかなくっちゃ」とか言って来たのかとも思ったが、それならもれなくソルもついて来るだろうと思い直す。
ソルでもリリィでもないのなら、残るは……。
俺の頭が回答を拒否している間に、鍵の開く音がして、すぐにドアを開閉する音が聞こえた。
そのまま足音は、俺が寝ている部屋にまっすぐ近づいて来る。
そして――。
「イサ~。起きてマスか?」
身構える間もなく、この部屋のドアが開く。
開いたドアからひょっこりと顔を出したのは、案の定ヒメナだった。
「ドアを開ける前に、まずノックをしろ!」
そう声を張り上げてから、せっかくベッドで横になっていたのだから寝たふりをしておけば良かったと気づく。
しかし、いまさら寝たふりをするわけにもいかないので、しぶしぶ身体を起こした。
「良かったデス。まだ寝入る前で」
いつもと変わりない様子のヒメナが、のほほ~んとした笑みを浮かべて、俺の枕元に盆を運ぶ。
長方形の盆の上には、水の入ったコップと木の匙。
それと木の器に盛られた麦粥が一皿のっている。
「これは?」
「麦粥デス。ソルさんから、イサが体調不良で食欲もないとは伺いましたケド、やっぱり何か食べたほうがいいと思いまして。これなら食べられるかなァと、特別に頼んで作ってもらったんですヨ」
ヒメナはにこにこと笑いながら、木の匙を麦粥に突っ込むと、そのまま木の器を俺に手渡した。
その瞬間、麦粥独特の匂いが湯気とともに立ち上る。
「さァ、冷めないうちにどうぞ」
「ああ。いただきます」
一応『どうぞ』と言われた手前『いただきます』とは言ったものの……食べづらい。
ヒメナの視線が食い入るように麦粥を見つめている。
「……ヒメナ」
「はぇ!? なっなんデスか? もしかして、麦粥はお嫌いでしたか? リリィさんとソルさんにイサが食べられるかどうか確認したんですケド」
「そうじゃない。よだれ、垂れてるぞ」
「えっ!?」
ヒメナが慌てて口元を手の甲で拭う。
その様子に呆れながら、俺は口を開いた。
「食べるか?」
そう言った瞬間、ヒメナの目が嬉しそうに輝いたが、すぐにハッとして首を横に振る。
「い、いえ。これはイサのために用意してもらった物ですカラ、イサが全部食べてクダサイ!」
ぷるぷると震えながら、断腸の思いで断るヒメナの努力がいじましい。
「そうか? では頂くぞ」
ヒメナの努力を無駄にするわけにはいかないので、改めて麦粥を口に運ぼうとするが、やはり突き刺さるヒメナの視線が気になって食べることができない。
――まるで、おあずけをくらった犬みたいだな。
半開きの口からよだれを垂らし、切なそうな目で麦粥を見つめるヒメナにおもわず失笑する。
「ヒメナ。少し屈んでくれないか?」
「なんデスか?」
ベッドに座っている俺の目線に合わせるように屈んだヒメナの口に一匙の麦粥を入れてやる。
「どうだ? 美味しいか?」
「ふぁい。ひょへもおいひぃでふ」
恍惚とした表情を浮かべながら、ヒメナが答える。
この美味しいものを食べる時に見せるヒメナの幸せそうな顔を見ていると、なんだか俺の心まで温かくなってくるから不思議だ。
ヒメナはこの世の幸福を独り占めしたような笑顔で、一匙分の麦粥をゆっくりと味わい、そして気づいた。
「なんでヒメナさんに食べさせてるんデスか!」
「食べたかったのだろう?」
「うっ! それはそうですケド……でも!」
何やらヒメナが葛藤する。
そうして、葛藤のすえ何かを決意した様子のヒメナが俺から麦粥の入った器と木の匙を奪うと、そのまま俺の横に腰掛けた。
何をするつもりなのかと傍らのヒメナを観察していると、ヒメナは木の匙ですくった麦粥に数回息を吹きかけ、それを俺のほうに突き出してきた。
「ハイ。あ~ん♪」
「は?」
「『は?』じゃあ、ありませんヨ。口を開けてクダサイ」
「いや。だから、なんでそんなことをしなければいけないんだ?」
「こうすれば、イサがヒメナさんに食べさせることを防げるからデス。さァ、観念して食べてクダサイ」
そう言ってヒメナから差し出される麦粥を、俺はじっと見つめた。
――そういえば、昨夜も同じようなことがあったな。
あの時の気恥ずかしさと居たたまれなさをまた味わえというのか。
しかし、今日はソルとリリィの目がないだけ、まだマシかもしれない。
俺は意を決して、ぱくりと麦粥を口に入れた。
ほんのりと温い麦粥が口の中に広がり、独特の匂いが鼻を抜けていく。
その後も、ヒメナは雛に餌を与える親鳥よろしく、俺の口に麦粥を次々と運び、とうとう完食した。
「それじゃあ、ヒメナさんはこれを下げて来ますネ」
空になった器をのせた盆を両手で持ちながら、ヒメナが言う。
「イサはちゃんと寝とくんデスヨ」
「わかっている」
ヒメナの注意を少々鬱陶しく思いながら、俺は立ち去るヒメナの後ろ姿をベッドに座った状態で見送る。
だが、ヒメナが突然「あっ」という声を出し、その後すぐに振り返った。
そして、その場で立ち止まったまま、俺に声をかける。
「ヒメナさん、この後ちょっとお出かけして来ますケド、何か欲しい物はありマスか? もしあれば、ついでに買って来ますヨ」
「お出かけ? どこに行くんだ? 1人でか?」
俺の矢継ぎ早の質問にヒメナが、少し面食らったように答える。
「もちろん1人でデスよ。ソルさんもリリィさんもお仕事ですカラ」
「1人で大丈夫なのか? 俺もついて行こうか?」
こう言ったのはもちろん、ヒメナを野放しにするとろくなことにならないからだ。
まあ、多少はヒメナのことを心配する気持ちがないわけでもない。
「何を言ってるんデスか!」
俺の提案にヒメナが目をつり上げる。
「具合が悪い時に無理をして、もっと悪くなったらどうするんデスか!」
珍しくヒメナが強い口調で俺を叱りつける。
それを言われると、俺も反論ができない。
まさか、いまさら「本当は仮病だから心配ない」とは言えないしな。
俺が無言で俯いていると、何を勘違いしたのかヒメナが慌てて言葉を付け足した。
「心配しなくても大丈夫デスよ。ちょっと食材を買って来るだけですカラ。お昼頃には戻りマス」
「……食材?」
作った笑顔を見せるヒメナに、俺は疑問に思ったことを素直に問いかけた。
出来合いの物ならまだわかるが、食材なんて買ってどうするつもりなんだ?
「ハイ。昨夜リリィさんとお話ししてた時に話の流れで、『ヒメナちゃんの手料理が食べたーい』『それじゃあ、明日作りマスよ』ということになりまして、今日の夕食はヒメナさんが用意することになったんデス」
話していくうちにヒメナの表情が作り笑いから、いつもののほほ~んとした表情に変わる。
「昨日いろいろな物を買って頂いたお礼も兼ねて、腕によりをかけて作りますカラ、イサも楽しみにしててくださいネ」
「だが、調理はどこでするんだ?」
「それなら、リリィさんの泊まっている部屋にある調理場を使わせてもらう予定デス。設備は小さめですケド、4人分の料理を作るだけなら十分ですカラ」
そうか。
普段、特別室を使う人間は、ある程度地位と金のある人物だろうから、そういう人間が毒殺を恐れて専属の料理人を連れて来た場合でも、対応できるようにしてあるんだな。
「本当に1人で大丈夫なのか?」
俺の念押しにヒメナが笑顔で答える。
「ハイ。心配してくれて、ありがとうございマス」
「俺は心配しているなんて、一言も言っていないぞ」
「……そう言うと思ってましたヨ」
呆れたように呟くと、ヒメナはため息をひとつ吐き、そして安心したように微笑んだ。
「減らず口をたたく元気があるなら、今日の夕食は普通に食べられそうデスね」
にこにこと笑うヒメナを見て、俺は確信する。
――まさかさっきの台詞はわざとか!?
こういう駆け引きはヒメナのほうが一枚も二枚も上手だからな。
「それじゃあ、ヒメナさんはもう行きマスね。戻って来たら一緒にお昼を食べまショウ。それまでちゃんと寝とくんですヨ」
「ああ。――気をつけて行って来いよ」
俺の言葉に笑顔で答えると、ヒメナは盆を持って部屋から出て行った。
部屋のドアも両手で盆を持ったまま、自分の身体を使って器用に閉める。
バタンとドアが閉まるのを確認してから、俺はベッドに転がった。
さっきまでの騒々しさが嘘のように静かだ。
――普段通りだったな、ヒメナ。
まるで昨日、何もなかったみたいだ。
だが、そんなことは有り得ない。
これはきっと、ヒメナなりの気遣いなのだろう。
俺がヒメナと顔を合わせても気まずい思いをしないようにと。
俺はこれ以上、ヒメナに気を使わせないために、言いつけ通りベッドへ転がったまま、おとなしく目を閉じた。




