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ヒメナ、字を習う

ヒメナ「ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致しマス」

イサ「……」

ヒメナ「どうかしましたか?」

イサ「ヒメナが珍しく、まともなことを言った……」

ヒメナ「失礼デスよ!」


 ヒメナが正式に旅の仲間となった日は色々ごたつき、結局ギトカを旅立ったのは翌日だった。

 今はヒメナと2人で街道を歩いている。


「いやァ~、それにしても驚きましたネ。いきなり魔物が出て来るなんて、反則デスヨ!」


 俺の隣りでヒメナが表情豊かに話す。

 どうやら先程遭遇した魔物のことを言っているらしい。


「話には聞いてましたケド、まさか本当に街道にまで出るとは思いませんでしたヨ」

「同感だ。ギトカの乗合馬車が運行停止していたのも納得がいく」


 俺達を襲ってきた魔物は単独だったが、このぶんだと街道で魔物の群れに襲われたという話を聞く日もそう遠くないだろう。


 ――魔物の活発化か。


 数日前、ギトカの宿屋でも考えたが、原因はわからずじまいだった。

 だが、城へ帰れば原因もはっきりするだろう。

 そうすれば、対策もできる。


 ――帰ったら、忙しくなりそうだな。


「魔物が出てきたことにも驚きましたケド、ヒメナさんはイサが強かったことのほうが驚きましたヨ」


 俺が物思いに耽っていると、ヒメナがのほほ~んと失礼なことを言い出した。


「あんな牛みたいな魔物を1人で軽々と倒してしまうナンテ、チームリーダーであるヒメナさんは鼻高々デス」


 ――ちょっと待て。


「とりあえず、いつチームになったのか、いつ誰がリーダーになったのかを簡潔に教えてくれ」

「いつって……、もちろんイサがヒメナさんに『どうしても一緒に来てください』とお願いした、その瞬間からデスよ。それに昔から勇者はリーダーと相場は決まってるんデス。以上、質問はアリマセンか?」

「……ない」


 正確には、もうどうでもいい。

 そもそもヒメナの思考回路について訊いた俺が馬鹿だった。


「あっ、イサ。道が分かれてマスヨ!」


 頭を抱えている俺に気づいていないのか、ヒメナが元気に駆け出して行く。

 俺はそれを制止するでもなく、自分のペースで歩きながら、ヒメナの後を追う。

 幸いヒメナは分かれ道で立ち止まっていたので、すぐに追いついた。


「どうかしたのか?」

「イサ。これを見てクダサイ」


 そう言うとヒメナは分かれ道の立て札を指差した。

 立て札は木でできており、多少の汚れはあるものの、そこに書かれた文字ははっきりと読み取れる。


「……何か問題でもあるのか?」

「イエ、その……。どっちに行くんでしたっけ?」

「どっちって、王都へ向かうなら方向からいって、カズンのほうだろうな」


 いまいちヒメナの意図が理解できないまま答える。

 俺の答えを聞いたヒメナは難しい顔をして少し考えた後、元気よく左の道を指差した。


「こっちデスね?」

「違う。そっちへ行くとサキタだ」

「そ、そんなことわかってマスヨ! ちょ、ちょっと間違えただけじゃあないデスか!!」


 頬を膨らませ、顔を真っ赤にしながら必死に取り繕おうとするヒメナに苦笑する。


「なに笑ってるんデスか!?」

「いや。今日は魔物も倒して疲れたし、早く宿で休みたいと思っただけだ」

「だったら早くカズンへ行きまショウ!」


 先程の失態をごまかすようにヒメナが俺の腕を引っ張る。

 その様子を微笑ましく思いながら、俺達は右の道を進んで行った。



 カズンは良質な薬草の栽培地として有名な町だ。

 その品質ゆえ、わざわざ遠方から買い付けに来る者も多い。

 そのため、この町の住人のほとんどは、薬草作りに携わっており、その影響かこの町の子供達にとって薬師は憧れの職業だと聞いたことがある。

 現に町中を歩いている今も、至るところで熱心に薬師になるべく勉強している子供達の姿が目に付く。


「この町の子供はずいぶんと勉強熱心だな」

「……そうデスね」


 そう答えたヒメナの声には、いつもの元気がなかったが、その時はあまり気にも留めず、とりあえず宿屋へと向かった。


「いらっしゃい! 泊まり? それとも食事だけかい?」


 宿屋で俺達を出迎えたのは、ふくよかな中年女性だった。

 はきはきとした喋りと明るい笑顔が印象的だ。


「泊まりだ。部屋は空いているか?」

「あっ、同室でも構いまセンので、なるべく安い部屋をお願いしマス」


 俺の言葉にヒメナが付け足す。

 その後、宿屋の中年女性とヒメナが何度か遣り取りをして、なんとか話が付いたようだ。


「それじゃ、2人部屋になるけどいいんだね?」

「ハイ! 大丈夫デス」


 俺の許可も取らず、ヒメナが笑顔で快諾する。


 ――まあ、今更ヒメナと同室でも、気にすることはないか。


 結局なんだかんだで、宿屋ではヒメナとずっと同室だったからな。

 むしろ今更気にするほうが、よっぽどおかしい。


「それじゃ、部屋の鍵を渡すから、宿帳に記入して頂戴ね」


 にこにこしながら中年女性が、ヒメナの前に宿帳を広げ、ペンを置く。

 だが、ヒメナはペンを執らず、何故か俺の方を仰ぎ見た。


「イサ。お願いします」

「なんで俺が? 自分で書けばいいだろう?」

「……」


 ヒメナがぶぅと膨れ、恨みがましい目を俺に向ける。


「別にいいじゃあないデスか。減るもんじゃなし」

「それなら、なおさら自分で書けばいいだろう? 毎回毎回俺に書かせるな」


 思い返してみると、ミニアル村からカズン町までの道中、いくつもの宿屋に泊まったが、ヒメナが宿帳に記入したことは一度もなかった。

 いつも、なんだかんだと理由をつけて、俺に任せている。


「たまには自分で書いたらどうだ? 数秒もあれば書けるだろう?」


 俺の言葉を聞いたヒメナは、今度は口を尖らせて、あさっての方向を見つめながら、言いにくそうにぼそっと呟いた。


「……書けるものなら、そうしてますヨ」

「今なんて言ったんだ?」


 ヒメナの呟きが聞き取れなくて聞き返すと、何故かヒメナが顔を赤くして俺を睨みつけてきた。


「仕方ないじゃあないデスか! 書けないものは書けないんデスヨ!!」


 耳まで真っ赤に染めたヒメナが怒鳴る。

 まるで今にも頭から湯気が出てきそうだ。


「……まさか、読み書きができないのか?」


 衝撃の事実に俺は唖然となる。


「たしか、もう15だったよな? その歳で読み書きができないなんて、恥ずかしいとは思わないのか!?」


 真っ赤な顔で睨んでくるヒメナに、さらに畳みかける。


「いったい今まで何をしてきたんだ? 学校には行っていなかったのか?」

「……」

「どうして何も言わないんだ? 怠惰は言い訳にはならないぞ」

「イサのバカ! もう頼みませんヨ!!」


 キッと俺を睨みつけると、ヒメナは唇を引き結び、背を向けた。


「スミマセン。代筆をお願いします。名前はヒメナで」


 ヒメナはこう言って宿屋の中年女性に代筆をしてもらい、部屋の鍵を受け取ると、俺を無視して1人でさっさと行ってしまった。

 残された俺は訳がわからず、ただその場に立ち尽くして去って行くヒメナの後ろ姿を眺めていた。


 ――なんなんだ? いったい。


「ちょっと、そこのヒメナさんのお連れさん。アンタも宿帳に記入して頂戴よ。それとも代筆のほうがいい?」


 あいかわらずはきはきとした声で、宿屋の中年女性が手招きして俺を呼ぶ。

 俺はその誘いに応じて、宿帳の前まで歩き、ペンを手に執った。


「あのさ、余計なことかもしれないけど、あとであの娘に謝っときなよ」

「何故、俺が謝らなければならないんだ?」


『イサ』と記入してから顔を上げ、宿帳を挟んだ正面にいる中年女性に問いかける。

 中年女性はやれやれとでもいうようにひとつため息を吐き、苦笑いを浮かべる。


「アタシは商売柄、だいたい身形みなりや立ち居振舞でその客がどんな人間かわかるんだよ。勿論、こっちは客商売だから、いちいち詮索なんてしやしない。アンタみたいに怪しい格好をしててもね」


 そう言うと、黒髪を隠すため頭からすっぽりとフードを被っている俺を露骨に眺める。


「だけど今回は、あんまりあの娘が可哀想だから、ついついお節介を焼きたくなってね。あの娘、どこか小さな村の貧しい家庭で育ったんじゃないのかい? そしてアンタは逆に都会の裕福な家庭で育った。違うかい?」


 疑問形だが、中年女性は自分の考えが正しいと確信しているようだ。

 まあ、たしかに大きく間違ってはいない。

 俺は何不自由なく育てられてきたし、ヒメナに至っては中年女性の考えそのままだ。


「……それがなんだと言うんだ?」


 中年女性の言わんとすることが理解できず、疑問に疑問で返す。

 中年女性は俺の台詞を自分の考えに対する肯定と捉え、ヒメナが俺に怒鳴った原因を語り出した。


「貧しい家庭では子どもも立派な働き手だからね。学校にやらない親も多いんだよ」


 困ったような表情を浮かべると、中年女性がさらに言葉を続ける。


「それなのに、さっきのアンタの言い草だと、読み書きできないのは、たんにあの娘が怠けてたからだって聞こえるよ。きっと相当傷ついたんじゃないのかい?」

「……っ! だが、文字が書けなければ、就ける仕事も限られているだろう。それなのに何故、学校に行かせないんだ?」


 内心の動揺を押し隠し、目の前の中年女性に食ってかかる。

 中年女性はそんな俺に冷ややかな目を向けながら、きっぱりとこう言い放った。


「今日生きるのがやっとの、明日を無事に迎えられるかもわからないような生活で、どうして来るかどうかもわからない遠い未来に期待することができるんだい?」


 その中年女性の言葉が俺の頭を殴る。

 俺の常識では、子どもはみんな学校に行っているものだと思っていた。

 まさか学校にも行かせてもらえず、働かされている子どもがいるなんて、考えたこともなかった。

 そして自分がどれだけ、狭い視野で物事を見ていたかを知った。

 国政を考える時、大抵は5年、10年。場合によっては50年、100年単位で見なければならない。

 だが俺は、ずっと遠い未来のことばかり考えてきて、今この瞬間を生きるすべてのモノをないがしろにしてきたのかもしれない。


「……先程は失礼な態度をとった。忠告、感謝する」

「アタシのことはいいから、早くあの娘のところに行ってあげな。その廊下の一番奥の部屋だからすぐわかるよ」


 ヒメナが去って行った方向を指さして、中年女性が笑顔をみせる。

 俺は軽く頷くと、中年女性が指さした方角へ歩を進めた。


 木でできた床は、歩くたびにぎしぎしと音を立てるが、気にせず進む。

 短い廊下の突き当たりには、風景画が掛けられており、片側の壁には窓。

 もう片方の壁には、古びた木製のドアがあった。


 ――ここか。


 俺は深呼吸をすると、木製のドアを3度ノックした。

 だが中から返事はなく、再度ヒメナの名を呼びながらノックしてみたが、やはり返事はなかった。

 どうやら、そうとう怒っているらしい。


「ヒメナ?」


 呼びかけながら、おそるおそるドアノブに手を掛けてみると、どうやら鍵は掛かっていないらしく、ドアがわずかに動いた。

 少し悩んだが、俺は意を決してドアを開けた。


「ヒメナ。入るぞ」


 開かれた部屋は、安いだけあって、入口で軽く見渡しただけで、すべてが見て取れる。

 その中にヒメナの姿はなかったが、1カ所だけ明らかに怪しい場所があった。

 部屋に置かれた2つのベッド。

 そのうち、片方のベッドが不自然に膨らんでいる。


 ――なんてわかりやすい。


 ほかに隠れられそうな場所もないし、ヒメナは確実にそこにいる。

 そう確信した俺は、着ていたフード付きマントを膨らみのないほうのベッドに脱ぎ捨ててから、不自然に膨らんだベッドの縁に腰を下ろした。


「ヒメナ」


 躊躇ためらいがちに布団の膨らみに手を掛ける。

 確かに誰かがいる感触はあるが、やはり返事はない。

 それでも俺は、かまわず言葉を続けた。


「さっきこの宿屋の女性から色々聞いて……。その、悪かった。俺の知識不足でヒメナに酷い言葉を投げかけたこと、心から詫びたいと思っている」

「……」


 やはり返事はない。

 だが、掛け布団がもぞもぞと動いたので、どうやら俺の話は聞いてくれているようだ。

 そのことに、心のどこかでほっとする。


「それでな、ヒメナさえよければ、俺が字を教えてやろうと思っているんだが、どうする?」

「本当デスか!?」


 俺が言い終わるのとほぼ同時に、ヒメナが掛け布団をはねのけて姿を現した。


「本当に字を教えてくれるんデスか!?」


 目をキラキラとさせて、期待に満ちた顔を俺に向ける。


「ああ。ヒメナにその気があればの話だが」

「ありマス! 大ありデス!!」


 興奮しているためか、ややうわずった声で即答するヒメナに少し驚きながらも、ヒメナの機嫌が直ったことに安堵する。


「それなら宿の人に頼んで、何か書くものを用意してもらうか」

「あっ、だったらヒメナさんが行って来ますヨ。ちょっと待ってて下さいネ」


 そう言うが早いか、ヒメナが脱兎のごとく部屋を飛び出して行った。

 部屋を飛び出して行ったヒメナは、本当にすぐ紙とペンとインクを持って戻ってきた。


「お待たせしました。さァ、早く始めまショウ♪」


 ヒメナがうきうきとした様子でサイドテーブルに持ってきた物を一式並べた後、自分はベッドの縁に腰掛けて、脇に立っている俺を見上げる。


「まずは俺が手本を書くから、ヒメナはそれを見ながら写してみろ」

「ハイ!」


 元気のいい返事を聞いて、中腰で最初の文字を書こうとペンを持った俺に、ヒメナが遠慮がちに口を開いた。


「あの……、できたら最初は『ヒメナ』ってどう書くか教えてもらえまセンか?」


 何故か恥ずかしそうにもじもじとしているヒメナを横目に見る。


「……まあ、別にかまわんが」


 俺の言葉でヒメナが嬉しそうに笑う。

 それを確認してから、俺は紙に大きく『ヒメナ』と書いてやった。


「これが『ヒメナ』デスか? なんだか、こうやって書かれているのを見ると、自分の名前じゃあないような、不思議な感じがします」


 俺の書いた字を横から覗き込みながら、ヒメナが呟く。

 俺はその紙を手渡すと、ヒメナの隣に座った。


「ほら。これを見ながら書いてみろ」

「ハイ! 頑張りマス」


 威勢のいい言葉通り、ヒメナが真剣な面持ちでペンを持ち、サイドテーブルに向かう。



 ――――――。


 ――――。


 ――。


 遅い!

 たった『ヒメナ』と書くだけで、どれだけ時間を使うつもりなんだ?

 文字を書くのは初めてで、緊張しているのかもしれないが、それにしても遅い。

 俺なら執務室の机に積まれた書類の山の半分はすでに処理できているぞ。

 俺の苛立ちが表面化してきた頃に、ようやくヒメナが喜びの声を上げた。


「できました! イサ、見てクダサイ。ちゃんと書けてマスか?」


 誇らしげに見せられた紙を見て、俺は絶句する。


 ――なんだ、これは!


 丁寧に書こうとした気構えは、十二分に感じられる。

 だが、丁寧に書こうとゆっくり慎重に書いたせいで、インクが滲んでいる上に、線は震えてガタガタになっており、はっきり言ってなんと書いてあるか知らなければ、おそらく読めない。


「どうデスか? ちゃんと読めますか?」


 目を輝かせて俺を見つめるヒメナを前にして、俺は言葉に詰まる。


「ああ……。そうだな。よく見れば、読めないこともない……かもしれないな」

「本当デスか!?」


 苦しまぎれの俺の言葉を聞いて、ヒメナが輝くような笑顔をみせる。


「ヒメナさん、ちゃんと自分の名前を書けたんデスよね? 嬉しいデス!」


 まるで宝物のように、ついさっき自分が名前を書いた紙を抱きしめる。


「これでもうバカにされることも、騙されることもアリマセン。本当に嬉しいデス」


 独り言のように紡がれたヒメナの言葉は、俺の胸を締めつける。


「イサ、ありがとうございます。これはヒメナさんの一生の宝物にします!」


 初めて自分で書いた自分の名前を愛おしそうに抱きしめながら、ヒメナが本当に嬉しそうに笑う。

 その笑顔を見て、俺の胸はさらに痛んだ。


「はっ! こうしてはいられまセン。もっと練習しなければ!!」


 抱きしめていた宝物を、ベッド脇に置いた自分のリュックの中に大切そうにしまうと、ヒメナが再度ペンを握り、真剣な面持ちで白紙に向かう。

 俺の書いた手本を白紙の左側に配置し、何度も視線を左右に動かしながら、ヒメナが少しずつ手を動かしていく。

 俺はその様子をヒメナの隣で眺めていた。

 ヒメナは間近で見られていることすら気づいていないかのように、ただひたすら自分の手元に集中している。


 それからヒメナはものの数時間のうちに、驚異的な集中力とたゆまぬ努力で、あっという間に自分の名前を完璧に書けるようになり、さらには俺が追加で書いてやった基本的な文字の一覧を手本に、一応すべての文字が書けるまでになった。


「よく飽きないな」


 ヒメナの邪魔にならないよう、先ほどマントを脱ぎ捨てたほうのベッドに移動していた俺は、サイドテーブルを挟んでヒメナに声を掛ける。

 するとヒメナがペンを止め、視線をまっすぐ俺に向けてきた。


「何がデスか?」


 ヒメナがきょとんとしているので、少し言葉を足して、もう一度話し掛ける。


「さっきからずっと同じ文字を繰り返し書いているだけで、飽きてこないのか?」

「どうして飽きるんデスか?」


 逆にヒメナが不思議そうに問い返してくる。


「だって、ずっと字を書きたいって思ってたんデスよ。やっとその夢が叶ったのに、どうして飽きたりできるんデスか?」


 純粋なヒメナの言葉が俺に重くのしかかる。

 俺にとって、読み書きができることは当たり前のことだった。

 だが、ヒメナはその『当たり前』のことを『夢』だと言った。

 俺はヒメナのことを理解したようで、まったく理解していなかったのかもしれない。


 ――それに。


 俺は宿屋の中年女性から言われた言葉を思い出す。


『貧しい家庭では子どもも立派な働き手だからね。学校にやらない親も多いんだよ』


 つまりそんな言葉が出るほど『当たり前』のことを『夢』だと思っている子ども達がこの国に大勢いるということだ。

 学ぶすべがない子ども達は、いくら向上心があっても書物からなんの知識も得ることができない。

 そして大人になっても知識がないために限られた職にしか就けず、貧しい生活を余儀なくされ、その子ども達もまた生活のために働かざるを得ない。

 そんな負の連鎖が延々と続いていく。


「なあ、ヒメナ。文字を書くのは楽しいか?」

「ハイ! とっても楽しいデス」


 俺の唐突な質問にヒメナが間髪入れず、笑顔で断言する。

 それが負の連鎖を止める答えのような気がした。

 俺は少し考えてから、ヒメナにこんな質問を投げ掛けてみた。


「どうして親が子どもを学校に行かせないのだと思う?」

「ヒメナさんは親じゃあないですカラ、そんなことわかりませんヨ」

「だったら質問を変えよう。どうすれば親は子どもを学校に行かせたいと思うようになると思う?」

「そうデスねェ……」


 ヒメナが眉間にシワを寄せて考える。

 そして、真面目な顔つきでこう言った。


「食事が出れば行かせようと思うんじゃあないでショウか?」

「食事?」

「ハイ! 特に冬場は食べ物が少なくなりマスし、一食だけでもタダで食べさせてもらえるのなら、学校に行かせてみようって気分になると思いますヨ」


 ――学校で食事を提供する?


 平たく言えば、食事という餌で親を釣り、とにかく子どもを学校に集めようというわけか。

 俺では逆立ちをしても、一生出てこない発想だな。


「なかなか面白い案だ。ただ、現実的ではないな。そもそも学校で食事を出すのなら、その費用はどこから捻出ねんしゅつするんだ?」

「そんな難しいこと訊かれてもわかりませんヨ。ヒメナさんは、思ったことを言っただけですカラ!」


 ヒメナが頬をぶぅと膨らませる。


「ヒメナさんはただ、もしこうだったら学校に行ける子どもが増えて、そしたらヒメナさんのような思いをする子どもが減るんじゃあないかなァと思っただけデス」


 口を尖らせ、ねたような口調でそう言うと、ヒメナはまた文字の練習を始めた。


 ――学校で食事を提供する、か。


 実現できれば、得られるものは大きい。

 だが予算の問題上、無理がある。

 全学校で食事を提供するとなると、食材費は勿論、食材を各村や町へ運搬する費用も掛かる。

 さらには、運搬した食材を調理する人材も必要となる。


 ――やはり現実的ではないな。


 俺はそう結論づけた。

 しかし夜になっても、何故かヒメナの『学校で食事を提供する』という提案が俺の胸にトゲのように刺さったまま、抜けることはなかった。

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