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ヒメナ再び、再会は酒場

イサ「実質、いなかったのは前章だけだったな」

ヒメナ「イサ1人だけでは、荷が重すぎたというわけデスネ」

イサ「……頭を潰されるか、その減らず口を縫われるか、どちらか好きな方を選べ」

ヒメナ「どっちも嫌デス……」

 店内はそれほど広くはないが、大勢の客で賑わっていた。

 まだ宵の口のためか、ざっと見渡しても、まだほとんどの客がほろ酔いといった感じだ。

 それに酒場といえば、男ばかりがつどうところというイメージがあるが、女性客の姿もちらほら見える。

 その中を忙しそうに動き回る栗色の髪の女が目に付いた。

 エプロン姿で客に酒や料理を運んでいるところをみると、この店の給仕らしい。


 ――なんか、どこかで見たことがあるような。


 まさかと思いつつ、女の横顔を注視していると、視線を感じたのか、栗色の髪の給仕が振り向いた。


「あっ、いらっしゃいませ。お一人ならカウンター席へどうぞデス」


 笑顔でそう言った後すぐに、エプロン姿の女が怪訝そうな表情を浮かべて俺の方へ駆け寄って来た。

 焦げ茶色の瞳がフードで半分隠れた俺の顔を覗き込む。

 その不躾な視線に顔を逸らすが、どうやら遅かったらしい。


「やっぱりイサじゃあないデスか。フードなんて被ってるカラ一瞬誰だかわかりませんでしたヨ」


 のほほ~んとした笑顔を見て、予感が確信へと変わった。


 ――やはり小娘だったか。


 目の前に来た時点でほぼわかってはいたが、こののほほ~んとした笑顔を見るまでは信じたくなかった。


「まだこの街にいたんデスね。今日は安酒でもあおりに来たんデスか?」

「……『安』は余計だ。だいたいなんでお前がここに居る?」

「見てわかりまセンか? ここで働いてるんデスヨ」

「そんなもの見ればわかる! 俺が訊きたいのは」


 その先は小娘を呼ぶ客の声に掻き消された。


「あっ、ご注文デスね。今行きマス!」


 客の声に答えてから、小娘が再度俺に向き直る。


「すみません。今立て込んでマスので、話の続きは後でいいデスか? まずは酒でも飲んでゆっくりしてて下さい」


 口早に言うと、小娘は小走りで先程の客の席へ向かった。

 小娘の後ろ姿を見送ると、俺はカウンター席へと移動する。

 全部で8席あるうち2席には先客がいたため、俺はその2人とは離れた席に腰掛ける。

 カウンターの中には恰幅のよい髭面のオヤジがいて、グラスを磨いている。

 俺はそいつに適当な酒を注文すると、その分の代金をカウンター上に差し出した。


「おまちどおさま」


 それから数分も経たないうちに注文した酒が用意された。


「兄ちゃん、ヒメナちゃんとは知り合いなのかい?」


 酒の入ったグラスを俺の前に置くついでに、愛想のいいオヤジが挨拶のようにさらりと話し掛けてきた。


「知り合いというか……ただの顔馴染だ」


 オヤジの言葉を無視しても構わなかったが、それで妙な勘繰りをされても面倒なため、当たり障りのない言葉を返す。

 だが次の瞬間、やはり無視しておけば良かったと激しく後悔した。


「いやぁー、ヒメナちゃんは本当に良く働いてくれて助かってるよ。今まで働いてた子が急に辞めちゃってね」


 訊いてもいないことを一方的に話し出すオヤジに、俺は無言のまま酒の入ったグラスを傾けた。

 しかしそれでも構わず、オヤジは話を続ける。

 どうやら俺が聞いていようがいまいが関係なく、ただ自分が話をしたいだけのようだ。

 オヤジの話など聞く気はなかったが、目の前で喋られたら嫌でも耳に入ってしまう。


 1人静かに酒を飲みながら、耳に届いた情報を整理すると、今まで働いていた娘が急に辞めたため人手不足で困っていると、小娘がいきなりやって来て「次の人が決まるまでの繋ぎとして、試しに一週間雇って下さい」と自ら売り込んできたそうだ。

 しかも「賃金は賄い付きなら前に雇っていた人の半額でいい」と言ったらしく、それならと試しに雇ってみたら、意外と役に立っているとか。

 今やすっかり小娘は馴染み客に可愛がられ、持ち前の愛想の良さと口の上手さでさり気なく客に追加注文をさせ、店に貢献しているらしい。


「ヒメナちゃんが来てから、店の売上が2割増で笑いが止まらんよ」


 そう言って豪快に笑うオヤジを尻目に、俺は残りの酒を一気に飲み干した。


 ――これ以上、無駄話に付き合ってられるか。


 俺は本来、1人静かに飲むのが好きなんだ。

 それに俺が酒場に来たのは、一杯飲んで寝るためであって、断じてオヤジの無駄話を聞くためではない。

 いい加減飽き飽きして席を立とうとした瞬間、絶妙のタイミングで小娘が口を挟んできた。


「ずいぶん盛り上がってるみたいデスネ。ヒメナさんも混ぜて下さい」

 

小娘がのほほ~んとした笑顔で、俺とオヤジを交互に見る。


「立て込んでいるのだろう? 仕事をしなくていいのか?」


 小娘の乱入で席を立つタイミングを逸した俺の口調は、自然と刺々しい物になる。

 だが、この程度のことで怯むような小娘ではない。

 飄々とした顔で「だいぶ落ち着いて来たので大丈夫デス」と言ってのける。


「それでなんの話をしてたんデスか?」

「ヒメナちゃんがどれだけ働き者かってことをこの兄ちゃんに説明してたとこさ」

「働き者だナンテ……もっと褒めてクダサイ」


 その言葉でオヤジが再度豪快に笑う。

 俺はそれを三文芝居でも見るような心地で眺めていた。


「あっ! イサ。もうお酒がないじゃないデスか」


 オヤジと下らない話で盛り上がっていた小娘が、目敏く空になったグラスを見つける。


「もう一杯追加デスね?」

「勝手に決めるな。俺はもう帰るところだ」


 立ち上がろとした俺を、小娘が慌てて引きとめる。


「まだ何も話してないじゃないデスか。そんなこと言わずに、もう一杯飲みまショウ? ね?」


 小首を傾げて上目遣いで可愛くおねだりする小娘の姿に、オヤジの言っていた『店の売上2割増』のからくりがわかった気がした。


「……今更、俺に猫を被っても無駄だぞ?」

「そんな、猫なんて(5匹くらいしか)被ってませんヨ」

「今の、妙な間はなんだ?」

「……細かい男はモテませんヨ?」


 満面の笑みで、しれっとほざく小娘の横っ面を殴りたい衝動に駆られるが、空気を読まないオヤジの横槍で実行されることはなかった。


「ハハハ! ずいぶんと仲が良いな。もしかして付き合ってるんじゃないのか?」

「はぁ?」


 突拍子もないオヤジの発言に、思わず間抜けな声を上げてしまった。

 どこをどうしたら、そんな関係に見えるんだ?

 もし本気でそう思っているのなら、早急に医師に診てもらったほうがいいぞ。

 特に頭を重点的に。


「イサ。仲良しだって言われましたヨ」

「ああそうか。で?」

「……イサが冷たいデス」

「まあまあ、兄ちゃん。もう邪魔しないから機嫌直して、ゆっくりしてってくれよ。邪魔したお詫びに次の一杯はサービスするからさ」


 そう言ってオヤジが、俺が先程飲んでいた銘柄の酒を空になったグラスに注ぎ込んだ。

 こんなことをされると、帰るに帰れない。


「オヤジさん、太っ腹デスネ。イサも良かったデスね。得しましたヨ」


 小娘がすかさずオヤジを持ち上げ、同時に俺の機嫌もとる。


「それでイサはなんでまだギトカにいるんデスか? 急ぎの旅じゃあなかったんデスか?」


 ちゃっかり俺の隣に座って、長話する気満々の小娘。

 それをにやにやしながら眺めるオヤジ。


 お前ら、仕事しろよ。

 それともこの店では客と無駄話するのも仕事のうちなのか?


 心の中で悪態づくが、このまま小娘を無視すれば事態を悪化させるだけなので、仕方なく言葉を返した。


「俺のことはどうでもいいだろう。それより俺としては、何故お前がまだギトカにいるのかを知りたいんだが? 俺と違って路銀に不安があるわけではないだろうに」


 小娘は俺の髪を売って得た金を半分以上持って行ったはずだ。

 それに元々小娘が持っていた所持金も合わせると、余裕で王都ルノオンまで行けるだろう。

 俺からの思わぬ質問返しに小娘は一瞬戸惑いをみせたが、すぐにいつもの余裕を取り戻した。


「イサがまだギトカにいるのって、もしかしてお金が足りなくて不足分を補うために働いてたからデスか?」


 ――何故それを!


 俺が怪訝な顔を見せると、小娘は俺の言いたいことを察したらしく、にまにま笑いながら答えを発した。


「どうしてヒメナさんがそんなことを知っているのかって? だって今、イサが自分でさり気なく暴露してたじゃあないデスか」


 にまにま笑いを隠すように小娘が手で口元を覆う。


「あっ、でも、ヒメナさんはイサのそういう素直なところ好きデスヨ。…………扱いやすくて」


 最後の一言は小声で、にやりと黒い笑みを残す。

 次の瞬間、俺の頬に羞恥と怒りで朱が差した。

 反射的に俺の手は、すっかり油断しきっていた小娘の頭を掴んだ。


「な、何するんデスか!?」

「相変わらずお前は一言多いな」


 小娘のささやかな抵抗ごときに気を留めず、手に力を込めながら話を続ける。


「俺のことはどうでもいいと最初に言ったはずだ。それともお前の耳は飾りか? そうでないのなら、俺の言っていることが理解できるな?」

「ハイ! もうばっちりデス!! 完璧デス!! ……だから手を離してクダサイ」


 まるで玩具おもちゃのように何度も首を縦に振り、潤んだ瞳で俺を見つめてくる。


 ――毎度のことながら、すごい演技力だな。


 本来ならもう少し懲らしめてやりたいところだが、これ以上やるとオヤジがまた口を挟んできそうなため、仕方なく手を離した。


「それで、なんでお前がここにいるんだ?」


 再度、小娘に質問する。

 すると小娘は先ほどまでの潤んだ瞳が嘘のように、平然と答えた。


「イサと違ってヒメナさんは先を急いでいませんし、せっかくギトカみたいな大きな街に来たんですカラ、ここでしか味わえない名物料理をすべて食べ尽くさなければ、次の町になんて行けませんヨ。ヒメナさんの胃袋に失礼というものデス」


 この後の小娘の話を聞き、要点をまとめる。

 つまり昼間はギトカの名物料理を食べ歩き、ほとんどの店が閉まる夜は小遣い稼ぎ兼晩ごはんのために酒場で働いているということらしい。


「だいたいの名物料理は食べ終えたので、そろそろギトカともお別れデスねェ」


 のほほ~んと小娘が独り言のように呟く。

 すると話の区切りがつくのを待っていたかのような絶妙のタイミングで、客の1人が小娘を呼んだ。


「ヒメナちゃん、ちょっとケチャップ持って来て」

「あっ、ハイ! すぐ行きマス」


 小娘が慌てた様子で椅子から飛び退き、カウンター内からケチャップの入った容器を掴むと、急いで先ほどの客の元へ向かった。


 ――今のうちに帰るか。


 俺は追加でもらったグラスの酒を一気に飲み干すと、素早く席を立った。

 のんびりしていたらオヤジか、もしくは戻ってきた小娘に絡まれるに決まっている。

 出口に向かうため身を翻すと、何かが俺の肩にぶつかった。

 反射的に『それ』を確認すると、赤い顔をした中年の男と目が合った。

 呼気からはアルコールの臭いがして、足取りもおぼつかず、一目で泥酔していることが窺える。


 ――ただの酔っぱらいか。


 視線を外し、そのままやり過ごそうとしたが、酔っぱらった中年男がそれを許さなかった。


「おい。ちょっと待ちな! 人にぶつかっといて、詫びもなしか?」


 酔っぱらい男の戯言に、俺は足を止め振り返る。


「ぶつかったのはお互い様だ。何故俺だけが詫びねばならない?」

「なんだと!?」


 そう言うと、激昂した男が俺の胸倉を掴みかかってきた。


「もう一度言ってみろ!」


 ただでさえ赤かった顔をさらに赤くさせ、男がえる。

 胸倉を掴まれ、酒臭いを呼気を顔に浴びた俺の不快感は頂点に達した。


「その薄汚い手をすぐに放せ。この下種げすが」


 俺の一言で騒がしかった店内が水を打ったように静かになる。

 酔っぱらいは俺の言葉をとっさに理解できず呆けていたが、すぐ怒りを露わにし、さらに強く胸倉を掴んだ。


「お前、何様のつもりだ!? ふざけんな!」


 至近距離で怒鳴り散らす男を冷ややかな目で見る。

 あまり悪目立ちはしたくなかったが、もう手遅れだな。

 それならいっそのこと、この無礼な男を心行くまで殴ってやるか。

 そうすれば、少しは腹の虫が収まるだろう。


「何笑ってやがる? もう許さねぇぞ!」


 酒と怒りで顔を真っ赤にした男が右手で拳を作り、それを俺の顔面に向けて繰り出した。

 だが、男の拳が俺に届くことはなかった。

 拳を防御するために用意した俺の手も必要なかった。

 何故か、殴りかかってきた男の右腕に小娘がしがみついていたからだ。


「あのっ、スミマセン! この人、酔ってるみたいで。多目にみてあげてクダサイ。代わりにヒメナさんが謝りますカラ!」


 腕にしがみついたまま、酔っぱらい相手に小娘が下手したてに出る。


「……なんのつもりだ? だいいち俺は酔ってなどいない」

「イサは黙っててクダサイ! これ以上話をややこしくしないでくださいヨ!!」


 俺の方を見もせず、小娘が悲壮な声で怒鳴る。

 顔は見えないが、小娘の気迫は伝わってくる。

 だが、俺が口出ししようがしなかろうが、頭に血がのぼっている中年男が小娘の謝罪ごときで大人しくなるとは到底思えない。

 そしてその予感はすぐに的中した。


「うるせぇ! 関係無い奴は引っ込んでろ!!」


 そう怒鳴ると男は力任せに小娘を振り払った。

 その反動で華奢きゃしゃな小娘の体は、近くの円卓に飛ばされる。

 小娘がぶつかった衝撃で、円卓は倒れ、卓上にあった酒瓶や料理が床に落ちて音を立てた。

 とっさにそばにいた女性客の1人が小娘に駆け寄って声を掛けるが、小娘は座り込んだまま両手で顔を覆い微動だにしない。


 ――こいつ!


 未だ片手で俺の胸倉を掴んでいる男に視線を移すと、さすがに酔った頭でも自分の行いがまずかったと理解できたのか顔色が変わっていた。


「痛い……痛いデス」


 小娘の涙声で視線を再度そちらに向けると、顔を覆っている両手から赤い液体がぼたりとこぼれ落ちた。

 よく見ると小娘の白いエプロンにも赤い染みが広がっている。

「!」

「おっ、俺は知らねーぞ! その女が勝手に!!」


 いきなり叫ぶと、顔面蒼白の男はおぼつかない足取りで一目散に逃げ出した。


「待て!」


 反射的に逃げていく男を捕まえようとしたが、小娘がそれを制止する。


「イサ、やめて下さい。ヒメナさんは大丈夫デス」

「だが」

「本当に大丈夫ですカラ」


 まだ両手で顔を覆った状態のままの小娘がそういうので、不本意ながら逃げ去っていく男の背中を見送った。


「ヒメナちゃん、大丈夫か? 今手当てを……っと救急箱は」


 カウンターにいたオヤジが慌てた様子で奥へと姿を消す。

 おそらく救急箱を取りに行ったのだろう。

 しかし、両手から溢れるほど出血しているのなら、まず止血をしなければ危険だ。

 周りの客達は皆、顔を覆い座り込んだままの小娘を遠巻きに眺めるだけで、何もしようとしない。

 小娘に声を掛けていた女性客もおろおろとするだけで、止血する素振りはみせない。


「顔を怪我したのか? 見せてみろ」


 それ以上黙って見ていることができず、まったく動こうとしない小娘に近寄る。


「イサ?」

「手を退けろ」


 小娘の傍らに膝をつき声を掛けると、ようやく小娘が両手を外した。

 その両手は真っ赤に染まり、顔面にも赤い液体がついている。

 だが俺は、その光景になんだか違和感を感じた。


 ――この違和感はなんだ?


 俺はこの違和感の正体を探るため、記憶の引き出しから似たような状況を選びとる。


 それは、俺(魔王)に戦いを挑み返り討ちにされた自称勇者達。

 それは、領域を侵し粛清しゅくせいした魔物達。

 どちらも血の臭いをまといながら、俺の足元にいつくばっていた。


 ――そうか、わかった。


 俺が感じた違和感の正体。

 それは、血の臭いだ。

 これだけ出血しているにも拘わらず、小娘の身体からは血の臭いが一切しない。

 俺は無言で、小娘の頬に付いた赤い液体を指先で拭―ヌグ―い、ひと嗅ぎすると舌でそれを舐めとった。


 ――やはり、思った通りだ。


 舌の先から伝わった物は苦い鉄の味ではなく、先程小娘が客の注文を受けてカウンターから持ち出していった物だった。


「これは、ケチャップだな?」


 疑問系だが、確信を持って小娘に問い掛ける。

 小娘は真顔で俺を見つめ返していたが、観念したのかケチャップ塗れの顔を一瞬で崩して、こんなふざけたことをぬかした。


「よくわかりましたネ。大正解デス」


 小娘がへらへらと笑いながら、赤い染みのついたエプロンのポケットに手を突っ込み、ケチャップまみれになった容器を取り出す。


「絡まれてたイサを助けに行く時、手に持っていたケチャップが邪魔だったのでポケットに突っ込んだんデスヨ。そしたら突き飛ばされた時に蓋が外れてしまいまして……。せっかくなので零れたケチャップを有効活用してみたんデス。どうでしたか? ヒメナさんの迫真の演技は」


 ケチャップ塗れで誇らしげな顔をする小娘に殺意が湧く。

 ここに鏡があれば、確実に青筋をたてている俺の姿が映っているはずだ。

 俺は何も言わず、小娘の頭を上から片手でがっちりと固定した。

 怪我でもしたのかと気遣ってやった俺の善意を無駄にした代償は重い。


「……当然、頭を潰される覚悟はできているんだろうな?」

「いやいやいやいや。ヒメナさんはイサが絡まれてたカラ、とっさに機転をきかせて助けてあげたんデスよ? 感謝されこそすれ、頭を潰される覚えなんて、ぎゃお~!!」


 小娘の言葉を最後まで聞かず、指先に力を込めて頭に指を食い込ませる。


「なんだ!? 何事だ?」


 小娘の悲鳴に、救急箱を手にしたオヤジが奥から飛び出して来た。

 やはりこのオヤジはとことんタイミングが悪いらしい。


「おいっ、兄ちゃん! 怪我人になんてことを」

「怪我人じゃない。この赤いのはケチャップだ」


 オヤジの言葉を軽くいなすと、最後に渾身の力で小娘の頭を握り、すぐに解放してやった。


「少しは懲りたか?」

「暴力反対デス!」


 頭の痛みに身悶えながらも、俺に抗議してくる小娘を鼻で笑う。


「教育的指導と言え」

「ふっ、ふざけんなデスヨ!」

「まあまあ。ヒメナちゃんに怪我がなくて良かったよ」


 言いながらオヤジが俺と小娘の間に割って入る。


「あの、スミマセン。お騒がせしてしまいまして……。すぐにここ片付けマス!」


 自ら身につけているエプロンでケチャップ塗れの顔を拭い勢い良く立ち上がった小娘だったが、すぐにまたよろけてその場に座り込む。


「ヒメナちゃん? やっぱりどこか怪我したんじゃ……」

「いえ、大丈夫デス」


 心配そうな様子で覗き込むオヤジを安心させるためか、小娘が笑顔を見せる。

 だがその笑顔は、さらにオヤジの不安を募らせた。


「ヒメナちゃん、なんか顔が赤くなってるぞ? 本当に大丈夫なのか?」

「ケチャップは拭きましたヨ?」


 小娘が不思議そうに小首を傾げる。


「いや、そうじゃなくてだな……。兄ちゃんからもなんか言ってくれよ」

「イサ。ヒメナさん、何か変デスか?」


 オヤジの言葉で小娘が俺の方へ顔を向ける。

 小娘が変なのは元からだろうと毒づきながら、その顔に視線を向けた俺は思わず凝視してしまった。


 ――確かに赤い。


 ケチャップ塗れの時は気づかなかったが、オヤジの言う通り小娘の顔はケチャップに負けないほど赤く染まっている。

 よく見ると、小娘は耳まで真っ赤に染まり、瞳は心なしか潤んでいるように見える。


 おぼつかない足取り。

 赤い顔。

 潤んだ瞳。

 そして、ここが酒場だということを考慮すると、当然導き出される答えは一つ。


 ――こいつ、まさか……酔っているのか?


 だが俺がこの店に来てから、小娘は何も口にしていないはず。

 それ以前に飲んでいたとしたら、俺と会話していた時に顔が赤くなっているはずだが、そんなことはなかった。

 導き出した答えを頭の中で打ち消していると、小娘が決定的な言葉を口にした。


「アレ? いつの間にかイサが2人に増えてマス。いつ分裂したんデスか?」

「お前、酔っているだろう?」


 ケケケと不気味な笑い声を立てて、ご機嫌な様子の小娘が俺の問い掛けに反論する。


「ヒメナさんは酔ってませんヨ。何故なら、ヒメナさんは前に香りづけのために数滴お酒を入れた料理を食べた後、記憶がなくなるという経験をしているからデス。それ以来、お酒を体内に入れたことは一度もアリマセン!」


 酔っている割には、はっきりとした呂律ろれつの小娘が胸を張る。


 ――数滴の酒量で酔えるものなのか?


 そう疑問に思ったが、世の中には酒を一滴も受け付けない体質の者もいるというし、そういうこともあるのだろうと勝手に納得した。

 そして、小娘が微量の酒で酔う体質というのがわかったことで、いつ小娘が酒を飲んだのかという疑問も解決した。

 おそらくは酔客に跳ね飛ばされ、円卓にぶつかった時、卓上に乗っていた酒瓶かグラスから零れた酒が偶然小娘の口に入ってしまったのだろう。

 現に小娘の傍には、酒の水たまりが出来ている。


「アレ~? いつの間にかオヤジさんも分裂してマス。……というか、ヒメナさんの周りのもの、み~んな分裂してマス。ケケケケケ」


 俺は無事に謎が解けたので、不気味に笑う小娘を捨て置いて出口へ向かった。

 しかし、またしてもオヤジが余計な一言で、俺の足を止めさせる。


「あっ、兄ちゃん。帰るんなら、ついでにヒメナちゃんを送ってやってくれないか? この分だと、今日はもう使い物にならんだろうし」

「何故、俺が?」


 振り向き、救急箱片手に困った表情で小娘を眺めているオヤジに異議を唱える。


「だいたいこいつがこんな状態になったのは、職務上の事故のようなものだろう? だったら店側でなんとかするのが、筋というものではないのか?」

「たしかに、兄ちゃんの言うことはもっともだ。けどな……」


 空いている方の手で頭を掻きながら、オヤジが生意気にも反論してくる。


「ヒメナちゃんを雇ったのは、人手が足りなかったからだ。それなのに、ヒメナちゃんが抜けたうえ、さらに介抱までとなると、無理なのはわかるだろ? それにヒメナちゃんは兄ちゃんを助けようとしたわけだし、知らない間柄ってわけじゃないんだろ? なっ。頼むよ」


 そう言うとオヤジは、座り込んでいる小娘の腕を引っ張り立ち上がらせると、そのまま無理矢理小娘を俺に押し付けた。


「ふざけるな! この店では客に従業員の世話をさせるのか!?」

「後は任せた! ああ、忙しい」


 俺が思わず小娘を抱きかかえてしまうと、オヤジはそそくさと店の奥へと姿を消した。


 ――無責任にもほどがあるだろう!


 最後の最後まで相性が最悪だったオヤジが消えて行った先をしばらく睨んでいたがすぐ諦めて、俺の腕の中で赤い顔をしてケケケと不気味な笑い声を立てる小娘に視線を移す。

 このままここに置き去りにして行ってもいいが、さっきのオヤジの態度だと適切な処置もせず、放置される可能性が高い。

 まあ、そうなった所で俺には一切関係がないが、小娘が俺を助けようとしたことは事実だし、あまり無下むげに扱うのも気が引ける。


 ――こいつの姿を見かけた時に、すぐ店を出ていれば。


 しかし、いまさら後悔した所で遅い。

 俺は盛大なため息を吐くと、小娘を連れて店を出た。

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