雨空と喪失青年さん ニイ
雨はどんどんキツくなって行く。いつの間にか傘を殴るような強い雨に変わっていた。
「そこを曲がると、私のお家ですわ」
彼女の的確な道案内により、一回も間違える事なく、真っ直ぐ辿り着けそうだ。
ドロドロの地面を転ばぬように踏みしめ、彼女に負担がかからないように……それこそ首元に巻いた、彼女から借りたマフラーさえも僅かしか揺れないほどに慎重に、されど牛歩にならずに運ぶ。
「ふふ……とても快適ですわ……」
豪雨の中だと言うのに、彼女は実に満足気だ。
そんな嬉しそうな彼女の表情に、私も何だか嬉しくなって仕方ない。
「……光栄……です」
「もぅ……大袈裟じゃないかしら?」
彼女はそう言いながらクスクスと笑い声を含ませている。
しかし、光栄だと心から思うほど、私は彼女を敬愛しているようだ。先程から彼女の些細な動作一つ一つに反応してしまい、自分でも驚いてしまう。
出会ってまだ一時間すら経っていないのに不思議な物だ。これが彼女の魅力、と言う物なのだろうか。
例えば今、彼女が細い腕を上げ、右側を指差しているだけでも……
「失礼。そこを曲がるのですよ?」
彼女の指摘を受け、私はハッと我に返る。
曲がる目印となっていた木は、自分の三歩後ろに存在していた。
「……申し訳……ありません」
彼女の背後で頭を下げ、謝罪をする。
さっき言われたように、私は考え過ぎる癖があるようだ。それも、周りが見えなくなってしまうほどの。
直ちに回れ右をし、通り過ぎてしまった木の元へと戻る。
彼女は少し、呆れたような表情になってしまった。
「もう……また考え事?悪い癖ですわね。言われていましたでしょ?」
「ん……どうでしょう……かね」
少し私にとって重い話だ。
記憶を無くす前は、大勢の人間からそう言われていたかもしれない。いや、もしかしたらこの癖は記憶を無くしてから、かもしれない。
私は私が思うよりも神経質な人間なのだろうか?
「ほら、あれが私のお家ですわ」
またあれこれと思考している私を、彼女の声が呼び覚ます。考えている私の様子に気付いてか、やや大きな声だった。
気が付くと、見えてきたのはこれはこれは大きな屋敷であった。
周りをグルリと塀が囲み、屋上込み四階建ての灰みのな色をした木造の屋敷だ。バルコニーも見受けられる。
細かく施された装飾が芸術作品を思わせるような、素晴らしい屋敷だ。
少し、不気味な印象を受けるのは気のせいだろうか?
「あーあー……門が開きっぱなしじゃない……開けたら閉めるように言っているのに」
所々錆の入った門は、確かに開き切っている。
こんな豪雨だ。開いているのに気付いたとしても、閉めに外に出るのは億劫になる。
私なら関係なく閉めるがね。
「まぁいいですわ。入って下さい」
彼女からの許可を貰い、私は開いた門を潜った。
頭上には細いアーチがかかっており、様々な花を形取った装飾がなされている。まるで花が出迎えてくれているようだ。
門を潜り終えると一度彼女を降ろし、門を閉めた。
「気が利きますわね。感謝致します」
彼女は車椅子から私へと振り返り、ニコリと微笑んだ。それだけで私はまた嬉しくなる。
私は一度お辞儀をし、また傘の下に入った。
「それでは、中に入って下さい。使用人がいると思いますわ」
大きな屋敷に住んでいるし、彼女の上品で丁寧な物腰からしてお金持ちだとは思っていた。使用人を雇うくらい何ともないのだろう。
それに彼女は足が不自由だ。世話をする人がいなくては色々と大変だろう。
「……立派なお屋敷……です、ね」
「そう?ありがとう」
彼女を持ち上げながら、私は屋敷の感想を述べた。
枯れた木に、花が少ない花壇。やたらに寂しげな庭を越え、扉へと続く階段の前で彼女を降ろす。
近くで見ると屋敷が一層大きく見える。少し私は圧巻された。
「……少し、揺れますよ」
「構いませんわ。ふふふ」
体が上下左右に揺れないように気を使いつつ、四段ばかりの階段を上る。
階段を上り切ると、流石に私の腕も限界だったようで、息を漏らしつつ彼女を降ろした。
庇の下に入ったので雨に濡れる事はなくなった
。車椅子に取り付けられた傘を取り外し、水滴を落としてから畳む。
「何から何まで気が利きますわね。どこかの執事さんだったり?」
「……どうでしょうかね」
「二回目ですわよ?その返答」
そうは言われても、分からない以上は曖昧に答えるしかない。
なんと言うか、彼女にだけは嘘をつきたくない気持ちが私の中で渦を巻いていた。
しかし、彼女も彼女で質問に答えていない私に不満がっている。不機嫌そうな目で私をジトリ、と見ている。
「中まで運んで下さるかしら?」
命令を聞き、直ぐに私は行動に移した。彼女の視線から逃れるように、急いで。
彼女と車椅子を持ち上げる前に、先に出入り口である扉を開いた。
ドアノブを捻り、ギギギっと軋むような音を響かせ私は彼女の屋敷へ入り込む。
扉の向こうはメインエントランスのようで、頭上の吹き抜けから下げられたシャンデリアが部屋を照らしていた。
印象としては目にキツくない色合いと、豪華過ぎない装飾が、落ち着いた雰囲気をかもし出している。
ただ、今日が雨天で日光が少ないのもそうだが、エントランス全体の光源がシャンデリアのみなので薄暗く感じてしまう。
外観からかもし出された不気味な雰囲気は、払拭される所かより強くなっている。
「傘立ては入り口のすぐ隣にあるはずです」
入ってすぐの所に傘が数本入った箱が置いてある。どうやらこれが傘立てのようだ。
そこに傘をさしこむと、彼女を屋敷の中へと運び込み、扉を閉じた。同時に雨音がピタリと止む。
「お疲れ様。重かったでしょう?」
「……いえ、大丈夫……でしたよ」
「ふふ……無理は禁物ですよ?」
私が強がっているかと思っているのだろうか。
本当に車椅子ごと持ち上げた彼女は、体格そのまんまでとても軽かった。
第一、私は女性に対して「重い」と言うほどデリカシーのない人間ではない。記憶はなくとも断言出来る。確証はないがね。
「さて、と……」
彼女はすぅっと息を吸い込むと、大きな声で使用人を呼んだ。
「ローレルド!ローレルド!」
すると、すぐさまドタバタとした忙しない足音と共に、一人の女性が廊下の奥より走って来た。
彼女がローレルドだろうか?
「お、御嬢様!お帰りなさいませ!」
バケツとモップを携えてやって来た女性は、立ち止まった瞬間顔を見せる間もなく凄い勢いで頭を下げた。ポニーテールに縛った茶髪が前へ大きく揺れる。
エプロンドレスを着ているのを見ると、彼女は屋敷のメイドさんだろうか。
「……ルチル、私はローレルドを呼んだのですわよ?」
どうやら彼女が呼んだローレルドと言う人ではないらしい。
そのまま「ルチル」と言う名前のメイドさんは顔を上げた。
青い瞳をしているが、それが見えるのは右目だけで左目は白い布の眼帯を着けていた。
「あ、あの、ローレルドさんは……」
あわあわと酷く慌てた様子で話し出すメイドさんを見て、彼女は面倒臭そうに溜め息を吐いた。
「ハァ……もう分かりました……全く、まただわ……」
メイドさんの様子で、何かを察した彼女の表情はどんどん不機嫌な物になる。
目頭を押さえ、もう一回溜め息を吐いた。
「……逃げたわね」
「そ、その通りです御嬢様ぁ……」
ビチャビチャと水が滴るモップと共に、メイドさんも泣き出しそうな顔だった。