雨空と喪失青年さん イチ
私は誰なのか、何処から来たのか、何を探しているのか。……何も分からないまま、私は「何か」を探していた。
探している物さえも忘れているくせに、這いつくばって忘れてしまった「何か」を探すのに必死になっていた。
気候は大雨、風は寒風。服が泥まみれの上、雨と風の冷たさが突き刺さるように襲って来る。
指先が痛い。震えが止まらない。痛くて、寒い。
それでも私は、探すのを止められなかった。
泥を掻き分け、掻き分け、汚れた手で濡れた顔を拭く。自分からは見えないが、私の顔は泥と雨水でグシャグシャだろう。
自分でも分からない。頭の中でさえ形に出来ない「何か」を、何故こうも執着しているのか。
大切な物なのは分かった。でも忘れてしまった。それを探している。
自分の事なのに、まるで他人のように思える。とても哀れだ。
「……ない……どこに……何だっけ……?」
そもそも「自分の事」は名前すら忘れている。覚えているのは性別は男だって事のみ。
本当にただそれだけ。何故自分はここにいるのか、自分の生い立ちは、自分は自分は……頭の中は空っぽで埋めつくされている。
記憶の喪失と言う異常事態なのに「何か」を最優先に探している。だったら尚更気になってしまう。
自分の事をなおざりにするほど、「何か」は価値のある物なのか?
もしかしたら忘れてしまった記憶を取り戻せる手掛かりなのだろうか?
自分自身を哀れに思いつつも、少しだけだが「何か」に期待を寄せていた。
もしかしたら私は気でも狂っているんじゃないだろうか?いや、そう思えるくらいには意識はハッキリしている。
じゃあ、私は何なのだ?
何故手を止めない?探すこの手を止めない?
体もこんなに弱っている。何が私をこうさせているんだ?
考えて、探して、拭いて、また考えて、探して、拭いて……
永遠に続くかと思われるこの一連の動作に、嫌気が差してくる。そう考えられるのに止められないとは滑稽だ。
考える事すら面倒になってきた。
あぁ、このまま何も考えずにいれたらどれほど楽なのか。このまま川に落ちた葉っぱのように流されて行きたい。
無駄な感情と、疲れるだけの思考を止め、ただ探す事だけに徹しよう。探す事だけを考えよう。それが幸せなのかもしれない。
頭の中が真っ白になるような感覚にまどろみながら、私は泥を掻き分け続けた。
「はぁ……困りましたわ……」
ふと聞こえて来た誰かの声。聞き覚えがない。
その声に呼び覚まされたかのように、私の手はとうとうピタリと止まった。
手放しかけた思考が再び帰って来た、白へと向かう頭が色を取り戻した。誰の声なのだろうか?
ハッと辺りを見渡してみると、そこは石垣がまばらに続く田舎道であった。
雨で泥と化した道の、両側に石垣。右側の石垣の向こう側には何処までも続く麦の畑が広がっている。
灰色の空とは対照的な金色の大地に、私はしばし見入ってしまう。
こんな光景にさえ気付かないほど、私は我を忘れていたのか。自分で自分が恐ろしくて仕方がない。
寒さと自分への恐怖に、自分の体を抱くようにして震えた。
そうすると、また聞こえて来たあの声。
「まさか取り替えをしていなかったなんて……無能な方を雇ってしまいましたわ……」
溜め息を混じらせ、ややアンニュイな雰囲気でぶつぶつと女性の声が背後から聞こえる。
後ろを振り返ると、左側の石垣が目に入った。
左側の方はもう一つ道があるようだ。その道を跨いで、また麦の畑が広がっているのだろうか。
石垣の上からこちらを覗くように、視界に入った桃色の綺麗な傘と、女性の頭。それより下は石垣で隠れており、座り込んでいる自分からは見えない。
「……?」
気になった私は、フラリと立ち上がった。
久しぶりに立ったようで、少々立ちくらみがしたが、転ぶのを石垣を掴んで体を支える。
そのまま息を一つ吐き、顔を上げて女性を見た。
そこには車椅子に乗った少女がいた。
「……?」
頭頂部分は綺麗な黒髪なのだが、肩を過ぎた辺りで色素が薄くなって行き、毛先に辿り着くまでには白色に変わっている。
記憶のない自分が言うのもアレだが、おかしな髪色だ。
服は、裾部分から生えるように花が描かれた白いワンピースで、暖かそうな毛皮の上着に、黒いマフラーを細い首に巻いていた。
車椅子の車輪が泥に嵌まった、のかと思ったが元より車輪がなく、丸い台のような物が車椅子の下に貼り付いていた。妙に機械的に見える。
「……」
少女は動かない車椅子を見るようにうつむいている為、顔が全く見えない。そして、私に気付いていないようだ。
とりあえず気付いて貰おうと、石垣を乗り越え声を出した。
「ぁ……あの、どう……しまし……た?」
「えっ?」
私の声を聞いた少女は、驚いたようでバッと顔を上げた。
端整な顔立ちに、雪のように白い肌。私が驚いたのは少女の目で、薄紅色の透き通った瞳をしている。
珍しさから、私はついつい凝視してしまった。
「あっ……」
少女はとんでもない事をしでかしたような、少し怯えた表情で私の目を見た。
私の目を見た少女の瞳が、薄紅から濃い赤へと変わった。
「え……!?」
「……あら?」
私も少女も驚いた声をあげる。
私は色の変わった瞳に対してだが、向こうは「おかしい」と言いたげな、怪訝そうな驚き声だ。
少女はジッと私の目を見つめ、小首をかしげた。
「……平気……なのですか?」
丁寧な物言いだが、おかしな質問をされた。
平気、と言われれば平気だ。いや、それ以前に私は何もされていない。瞳の色が変わったのは驚いたが。
その瞳の色も、いつの間にか元の薄紅色に戻っていた。私の気のせいか?
「えぇ、平気……ですが……」
とりあえず与えられた質問に答える。無言は相手に悪い。
私の返答を聞いた少女は、目を開いて再び驚いた表情になる。
今度は少女が私の目を凝視し始めた。
「……こちらへ、近付いて下さい」
少女に呼ばれ、私は車椅子の前へと近付き、目線を少女に合わせる為に屈む。
前で見ると、長い髪が地面に着かないよう、背もたれの内に入れてあるのが分かる。とても長く、腰まであるのではないか?
「……」
少女は私の目をなおも凝視する。
何故か、彼女からは目を逸らしてはいけないと思ってしまい、私も少女の目をずっと見つめ続ける。
互いの視線が交差し、絡み合う。紅色で澄んだ瞳には、私が映っていた。
「……どうか……しました?」
流石に一分も目を見つめる少女に、私は理由を聞いてみた。
しかし少女はその質問には答えず、沈黙したまま私の目をひたすらに凝視する。
「黒い瞳……見た事ない」
「ん?」
そう呟いたかと思えば、少女は指先でつーっと私の頬をなぞっていた。
いきなり見ず知らずの人間に顔を触られ、少し動揺する。
「ぬぅ……」
むず痒いような、こしょばゆいような感覚だが、何故か止める事が出来なかった。少し、心地の良い物を感じていた。
「あら、ごめんなさい、つい……でも可愛らしいわね……目を細めちゃって……」
一言謝った後、スッと彼女の手が私の顔から離れる。
離れた彼女の指は、取り出したハンカチで拭かれた。
……あぁ、そういえば泥だらけな顔だったっけ。少し申し訳がない。
「驚いたわ……効かない人に出会ったのは初めてなの」
効かない人?
その言葉を疑問に思った時、私の目の前にはハンカチが差し出されていた。
「どうぞ。お顔が汚れていますわよ?素敵なジェントルマン」
微笑む彼女の手よりハンカチを拝借し、私は顔をそれで拭った。
少し遠慮すれば良かったかもしれないが、顔に付着した泥を不快に感じていたのも事実だ。雨で泥を流すように、ゴシゴシとハンカチで拭く。
絹で出来ていて、肌触りは気持ちいい。
彼女は、私の頬を撫でた指をペロリと舐めた。そしてそのまま微笑みを崩さずに、優しい声で私に問いかけた。
「貴方はだぁれ?傘もささずに……泥棒に襲われたのかしら?」
何故だろうか。見ず知らずの女性なのに、彼女には心を許せてしまう。
とても心地よく、心の奥から安心出来る。
「あ……えぇと」
自分の事は忘れてしまったが、とにかくさっきまでの事を言おうと考えを纏めようとした。
その時である。
「ハッ……くしゅん……!」
鼻の奥から押し寄せるむず痒さで、私は小さなくしゃみをした。
「あ、いけない。貴方ずぶ濡れでしたわね」
小鼻を抑え、鼻をすする。
忘れていた寒気が、一気にかけ上って来たようでブルルッと震えてしまう。一度震えれば、どうしても止まらなくなってしまった。
「少し待って……」
彼女は震える私を見て、首に巻いたマフラーをスルリと解く。
解いたそのマフラーを一旦広げて再び整えると、クイクイと私を手招きする。
「もっと、近付いて下さる?」
言われるがままに私は彼女の前に更に近寄った。膝と膝がぶつかるか、ぶつからないかの距離だ。
そこで私は静止すると、彼女は前に腰を曲げ、私の首に黒いマフラーを巻いてくれた。
「ふふ……少しは寒さが和らいだかしら?」
さっきまで人肌に触れていた毛糸のマフラーは、ほんの少し雨で濡れていたものの、充分に暖かかった。
私は巻いてもらったマフラーをギュッと握り、安堵の息を吐いた。
震えはもうすでに止まっている。
「貴方の話は、私のお家で聞きましょう。とりあえず……」
彼女は車椅子をキョロキョロ見やり、苦笑い気味に頼み事をする。
「力はある?私を運んで貰えないかしら?」
必死になって探していた「何か」だが、私の中で優先順位が彼女の事へと変わっていたようだ。
首を縦に振って肯定の意思を示してすぐ、車椅子の後ろへと回る。傘の下に入ったので、濡れる事はまずなくなった。
手押しハンドルを握って前に力を入れる。
ピクリともしない。
「?」
「あ……この車椅子はね、雨の日しか使わない特殊なタイプなの」
忘れていたが、この車椅子には車輪がない。
と言う事は、どうやって動くのか?色々と考え、悶々とする私に彼女は痺れを切らしたように呟いた。
「考え過ぎちゃうのが悪い癖のようですわね……ふふ、可愛らしいわ」
それから彼女の説明を受け、サイドガードに引っ付いた取っ手を握り、思いっきり持ち上げた。
「キャッ……あら、細いのに力持ちね」
自分でも意外なほどにスッと持ち上がった。
そのまま抱えるように、私は車椅子と彼女を家まで運ぶ事となった。
それが、私と「御嬢様」との最初の出会いであった。