二 事務所と児童館
土曜日の朝、茂は平日昼間働いている会社の最寄駅の、駅と反対側のビルに入っている、大森パトロール社の事務所へ顔を出した。土日夜間限定で彼が警護員として働いている警備会社である。
従業員用入口からカードキーで入り、事務所内を覗くと、奥の打ち合わせコーナーに人影が見えた。
「おはようございます。河合です。」
「おはようございます。」
人影は、椅子に・・・いや、車椅子に、座っている。小型だが電動のものだ。車椅子の向きを変え、人影が茂のほうを振り向いた。それは、息が止まるような美女だった。
いや、美女ではない、美形だ。肩の少し下くらいまで伸ばした柔らかそうな髪が、美と愛の女神の芸術作品のような額、頬、顎にそって顔を縁取り、天然のアイシャドウをしたような艶めいた切れ長の両目、鼻筋、唇、すべてがこの世の常識を超絶した美しさである。頬に小さな赤い傷跡があるのも、一層表情の色香を増しているようだ。しかし残念なのは、この美貌にもかかわらず彼が女ではなく男であることと、その天上世界のもののような容姿には、その服装・・・オーバーサイズのひざ下まであるロングシャツ・・・が、さすがに興ざめであることとである。
大森パトロール社の先輩警護員、葛城怜だ。
茂は葛城に会ってからその美貌に慣れるまで数日かかったが、今も不思議なのはなぜ彼のような人間が警護員などしているのかということだった。
「葛城さん、今日もリハビリなんですよね。車で送る人間はいますか?」
「ありがとうございます、大丈夫ですよ。明日に変えてもらいました。今日は河合さんは初日ですし、やはり私も一日事務所で待機していたいので。」
葛城は前回の仕事で事故があり、左腕と左脚を骨折し、治るまでの間は車椅子を使っている。二人は打ち合わせコーナーのテーブルに置いてある携帯端末を囲み、今日からの業務内容の資料を最終確認した。相変わらず葛城の資料は精密だ。茂は感嘆を正直に口に出した。
「葛城さんの事前調査があると、仕事でどんなミスもする気がしないです。」
「ははは・・・。今回、私が実地でペアを組めなくなり、残念です。」
「葛城さんの代わりの高原さんは、確か前からのお知り合いなんですよね。」
「私が警護員になった日からのつきあいです。彼が一年先輩ですが。」
噂をすれば、従業員用入口が開くベル音がして、高原が早足で事務室に入ってきた。
「おはようございます。怜、こちらが河合茂くん?」
「そうだよ。河合さん、今噂をしていた、高原晶生警護員です。」
よろしく、と言いながら高原は茂へ右手を差し出した。茂は握手を交わしながら、この、葛城が新米警護員だったころからの付き合いだという高原をまじまじと見た。すらりと背が高いが、想像していたような屈強そうな男ではなく、むしろ全体のイメージは腕の良い外科医とか敏腕の科学者とかいった感じだ。清潔そうな白いシャツ、すっきりした短髪、そして波多野営業部長の百倍はよく似合っているメガネ。特にすごくハンサムというわけではないが、明るい表情と優しそうなまなざし。高校で科学の教鞭をとったら女子高生からたちまち大人気になりそうである。
「河合くんのことは前から波多野部長に聞いていたけど、聞いていたとおりの人だな。新鮮というか、斬新というか・・」
「???」
葛城が持っていた空き封筒を片手で丸めて高原の頭を叩く。
「いきなり失礼だぞ、晶生。」
「いいじゃないか、久々に新人に会ってうれしいんだ、俺は。」
「今度はこっちで叩くぞ。」
葛城はギプスをした左手を持ち上げて見せた。高原と葛城がちょっとの間互いを見合い、そして我慢しきれずに笑い出した。
携帯端末の画面を今度は三人で、確認する。
「河合くんがサブ警護員で入ってくれるのは、今日、明日、そして来週の土曜と日曜だね。クライアントのご趣味に、全部おつきあいする。俺は社員に扮しているが、河合くんは今回は基本的に建物周回警護と、俺の補佐だから、変装なしのロープロファイル警護だ。気楽にやってくれ。」
「連絡方法は携帯電話です。こちらです。」
葛城が茂に、高原が装着しているのと同じ、ヘッドフォン型のマイクのついた携帯電話を渡す。
「あと、念のためにこちらは予備の携帯電話です。服の中の目立たないところに装着しておいてください。携帯は事務所の私の机のスピーカーに24時間つながっています。私も今週は事務所に泊まり込んでいますので、時間帯に関係なく、必要なときは連絡してください。」
事務所の車で茂と高原は警護現場に向かって出発した。運転席の高原が茂に声をかける。
「さっき言い忘れたけど、今回のクライアントの例の事件については、大体読んだ?」
「葛城さんが事前に送信してくださったファイルにありましたので、目を通しました。気の毒な出来事でしたが・・結局事件性は無しとされたんですよね?」
「そうだよ。遺族側は告訴したが負けている。民事訴訟も係争中だが原告側の勝算は薄いそうだ。」
「法が裁かないならば自分の手で・・・ということなんですね。」
「同情するかい?」
「・・・・・そんなことはありません。」
二人は市の児童館に到着し、駐車場から受付へと向かう。受付にいた初老の男性と中年の女性が、もう始まっていますよと言って部屋番号を教えてくれた。階段を上りながら茂が高原に尋ねる。
「クライアントは我々の警護がしやすいようにこちらに来ておられるんでしょうか。」
「いや、もともと、現場にできるだけ立ち会う主義らしいよ。土日でも仕事があるときはね。大きな会社じゃないから人手を補う意味もあるだろうし。もちろん、あの事故よりも、前からそうだ。」
茂は手元の端末のスケジュール表を表示させる。午前は児童館で母親学級と合同の踊り教室。午後からプライベートだ。
三階まで階段で上がり、右手奥の引き戸を開け、大きな和室になっている部屋へ茂と高原はそっと入った。子供たちのざわめきが満ち、日本舞踊の曲が流れている。高原はサラリーマンの扮装にふさわしい白いワイシャツの襟をちょっと正しながら、ふと後ろの茂の気配がおかしいことに気づき、振り向いた。
「河合くん?」
茂が顔をひきつらせて硬直した理由は、もちろん、舞の講師が三村英一だったからだ。
自転車で、障害物をよけようとして障害物を気にすればするほど、そちらへ向かっていってしまうという。茂はこの法則を朦朧とした頭の中で再認識していた。
高原が茂の肩をつつき正気に返らせていると、部屋の隅に立っていた背広姿の小柄な中年男性がこちらへ歩いてきた。高原と茂の脇まで来て、小声で挨拶する。
「やあ、週末も引き続きお世話になります。」
「どうも。こちらが、土日の警護に加わります、サブ警護員の河合茂です。」
「河合さん、お世話になります。中央保育サービス(株)代表取締役の豊嶋謙司です。」
今回の、茂たちのクライアント、警護依頼人兼警護対象者である。背が低いのでよく見える頭頂部の髪がかなり薄く、老けた印象だが、顔をみるとそれほどの歳でもないようにも見える。
「土日はプライベート中心ということで、朝のご自宅から最初の用務地までの移動時警護はしていませんが、四日ともそのかたちで大丈夫ですか?」
高原が念のために尋ねる。
「大丈夫です。行きは息子の車で送ってもらっていますのでね。その後から帰宅までの間で、引き続き大丈夫です。」
「わかりました。今日も児童館のイベントは盛況ですね。平日よりすごいですか。」
「土曜だと、母親学級にお父さんたちも来て、家族イベントみたいになるんですよ、最近は。ボランティア希望者も急増しています。ただし、需要と供給のニーズがなかなかマッチングしない面もありますが・・・。ここの児童館さんは、でも素晴らしいボランティアさんを確保しておいでです。」
高原と豊嶋のふたりは、小声で話しながら、部屋の奥のほうへ行ってしまった。豊嶋の部下社員に扮する高原と、遠巻きの警護をする茂は、基本的に少し距離を開けての警護活動となる。
気が付くと日本舞踊の曲が止み、畳の床から出口側の土間へ降りてきた英一が茂の姿を見つけ、さっきの茂以上に顔をひきつらせてしばらく硬直していた。休憩時間にトイレに行く幼児連れのお母さんお父さんや子供たちが、そんな英一と茂の脇を抜けてどやどやと廊下へ出ていく。
着流し姿の英一は、相変わらずその完璧に整えた黒髪も、茂より高い身長から見くだす、文字通り上から目線の表情も、いつもどおりの感じの悪さだった。その顔立ちは不気味なほど整ってはいるが、現代風ではなく時代劇に出てくる剣豪そっくりだ。
「み、三村お前、なんでここにいるんだよ。」
「なんでって、舞を教えているだけだ。」
「児童館のボランティアでか?日本舞踊三村流宗家の御曹司のお前が、タダで児童館で教えてるってか?」
英一は師範も含め四十人の弟子を持つ身である。しかも平日昼間は茂と同じ会社でサラリーマンをしている。
「悪いか。」
なにも悪くはない。個人的に茂が不満なだけである。会社での英一は、絵にかいたような唯我独尊人間だ。仕事ができるので誰も文句は言えないが、同期入社の茂も顎でこき使う。そんな英一が、プライベートでなにかいいことをしているという事実は、茂にはあまり愉快ではない。しかも、女性ファンたちの姿が見えないところをみると、本当にお忍びでやっているようだ。
「お前こそ、こんなところで何をしている。」
訊きながら英一の顔にはいつもの不敵な笑みが戻っていた。茂の答えなど聞かずともわかっている、と言いたげだ。英一は、(本人の意思によるものではないが)茂の警護のクライアントだったこともあるのだ。
「仕事だよ。じゃ、俺は忙しいから、これで。」
「待て河合。警護しているのは、あそこにいるおっさんか?」
「業務上の秘密です。」
「じゃあ、隣にいるあのメガネの男は、大森パトロールの警護員だな。」
「だから業務上の秘密だってば。」
「なるほど・・・・」
英一はしみじみと高原を観察し、それから頷いた。
「大森パトロールさんは、葛城さんといい、あの警護員さんといい、お前以外は実に頼りになりそうな人材が揃っておられるようだな。」
茂は目いっぱいの横目で英一を睨みつけた。
休憩時間を挟み、舞の教室の後半も終わると、高原と豊嶋は高原の車で移動し、茂は公共交通機関で次の警護ポイントへ向かう。変装を要しないとはいえ、警護員の存在が目立たないことに越したことはない。スケジュール表を開く。今日土曜日の午後のプライベートは、知人の訪問と買い物だけだ。明日の日曜日は舞の公演鑑賞とギャラリーと絵画教室。次の週は・・・土曜が茶会、日曜はギャラリーのオープニングセレモニーか。
優雅なもんだ、と茂はふと思い、自分の頭にもあの「事故」のことがかなり影を落としてきたことに気が付いた。
吉田は彼女にしてはわりとめずらしく、優しい目で相手を見つめていた。相手が泣いている、ということもあるだろう。
「鈴木さま、最初にお会いしたときに、お話は全部わかったのですが、また訪問してしまってすみません。」
「いいえ・・・・」
鈴木と呼ばれた、泣いている女性は、ハンカチも持たずに両手を膝の上で握りしめ、なんとか声を出した。
狭い和室で鈴木と向き合い、吉田の隣に座っている和泉は、さっきからもらい泣きしそうになるのをなんとか堪えていた。これでも吉田の部下である。仕事において精神的な動揺をコントロールするくらいは、最低限のことである。
「そして、つらいことをまた思い出させてしまって、すみません。」
「いえ、いいんです。もう何千回、何万回、反すうしたかわかりませんから・・・」
「今日は最終のご確認が目的です。なるべく早く終わらせますので、ご辛抱くださいね。業務は、お約束の日、お約束の場所で、必ず決行をします。が、必ず、今お話ししたとおりの手順でご覧をいただきたいこと。ここまでは大丈夫ですか?」
吉田は相手をせかさず、ひとつひとつ進めていく。
「はい。やはり、豊嶋の頼んでいるボディガードは強力なんですか?」
「そうです。だからこそ、我々は、十分な準備をしています。決行当日は我々が確実に警護員を排除しますから、お客様はまったくご心配いりません。ご自分の動き方に集中なさってくださいね。覚えておいていただきたい人間は、こちらです。」
吉田に促されて、和泉は写真を二枚取り出し、鈴木に向けて机に置いた。板見の顔写真と全身写真だった。
「この者が、実際に決行をいたします。若いですが、優秀なエージェントです。」
「ちゃんと、やってくださいますよね。」
「はい。やり遂げる覚悟では、鈴木さまにも負けないと思います。」
鈴木は淋しそうに微笑んで頷いた。
「それから、決行後の、注意事項です。・・・・」
吉田は丁寧に、最後まで説明した。
鈴木さやかの家を出て、吉田と和泉は大通りに面した曲がり角で軽自動車に拾われた。二人が乗り込むと、運転席の酒井が静かに車を発進させる。
「大丈夫でしたか?女性だけで行ったほうが相手が落ち着くから、ってことでしたけど、あのお客様ほんまになんか、精神的に心配ですな。」
「心配になるのは、お客様のことに立ち入りすぎている証拠。酒井、あなたこの仕事何年やっている?」
「そうですな。すんまへん。・・・」
「まだ、なにか?」
酒井は信号待ちをしながら、ちょっと天井を見て、またすぐ前に視線を戻した。
「板見は、ほんまに、人を殺せますかね。」