再会
名前のついた登場人物がまだほとんどいない…
倒れた女性に近づいて手を貸してみたが、彼女は呆然とした表情のままぺたんと座り込んで動かなかった。
「……そのとおりよね。私を本気で心配してくれるひとなんて、もう誰も……」
自嘲めいた笑いを口元にのせ、乱れかかる前髪を払いのけもせず座り込んでいる彼女を、改めてまじまじと見る。
子供と言っていたからには経産婦なんだろうが、まだせいぜい20代前半に見える。
染めていないさらさらの黒髪と、一重だが大きな切れ長の目が日本人形のような印象を与える儚げな美人だ。
今にも泣き出しそうな目の潤みは、それでも零れ落ちることなく目元に留まり続けた。
「大丈夫ですか?」
腰を落とし視線を合わせて呼びかけると、彼女はようやく私に気がついて、差し出した手をとった。
「……あ、ありがとうございます……」
慌てて立ち上がろうとするがまだ足元が覚束ないようで、半分抱きかかえるように起こしてやると、彼女はひどく恐縮して耳まで朱くなった顔をふるふると横に振った。
「本当に、もう大丈夫です。ちゃんと立てます」
潤んだ目のままにこりと微笑まれ、その可憐さにハッと胸をつかれた。
横をすり抜けていく人の流れに肩を押されて我に返るまでの数秒間、見とれてしまっていたほど、彼女は美しかった。
「お手数かけました。私、中嶋……いえ、鶴屋あかりと申します」
「……城之崎です」
なんとなく気まずい気分で名乗りあっていると、盛大な咳払いが聞こえた。
気づけばホールに残っているのは私達だけだったようで、武装兵は私達を無言で追い立て、ようやく空になったホールの扉を閉め切った。
武装兵達に導かれ、次に着いたのは食堂だった。
学食とか社員食堂といった雰囲気のだだっ広い空間で、そこに召喚されてきた「勇者」がほぼ集まっているようだ。
予想通りセルフサービスで饗されるのは、素朴な全粒粉のパンとわずかな薄切り肉と付け合わせの芋、豆と野菜のスープという質素なものだ。
さらに言うなら量も控え目で、食堂内のあちこちから「えーっ!?これだけかよ!!」「少なっ!」という若い声の悲鳴があがっていた。
教会で出される食事だから質素なのか、まだ何の戦果もない「勇者」だからケチられているのか、はたまたこれがこの世界のごく平均的な食事なのかはまだ解らないが、食べてみると味付けも結構薄い。
腎臓病食(塩分5g以下/日)ほどではないが、高血圧食(塩分7g以下/日)程度の味わいである。
なりゆき上、同席したあかりも「……もうひと味欲しいですね」と苦笑していた。
量が少ないのと長年の早食いの習慣で私の皿はあっという間に空になったが、あかりは細い指先でパンをもてあそぶだけで全く食が進まない様子だった。
「食欲わきませんか」
「……はい。いろんな事が有りすぎて、胸がいっぱいで……これからどうなるかも解らないし……」
「何がどうなるか解らない。だからこそ何があってもいいように、食べられる時には食べておいた方がいい」
せめてスープだけでもと重ねて勧めると、あかりは観念したようにスプーンを手に取り、一口、一口とスープをすすり始めた。
スープ一皿とパンを半分ほど胃におさめたところで、あかりは顔をあげ、私を正面から見つめたまま口を開いた。
「……強いんですね、先生は」
先生、と呼ばれるのはずいぶん久しぶりのような気がする。
それも最近は揶揄や侮蔑などのネガティブな感情を伴って呼ばれることが多かった。しかし、あかりの表情はそのどれでもない、真摯で生真面目なものだった。
「先生はもうお忘れでしょうけど、私、以前に先生に命を救っていただいたことがあるんです」
私は驚いてあかりを見返す。
物覚えは悪くないほうで、患者の顔は大概覚えているつもりだったが……それもこんな美人ならなおさら……私はさっぱり心当たりがなかった。
ひどい妊娠中毒症で、あちこちぶつけてて顔パンパンでしたから、と言われてやっと思い出す。
数年前、切迫早産で救急搬送されて緊急帝王切開になった症例があった。
臨月で階段から落ちて全身を強打、骨折していて母子共に危険な状態だったから、まず帝王切開で身ふたつに分けた後、子供は小児ICUへ、母親はそのまま整形外科へ引き継いだ……あの時の母親が目の前のあかりだというのか?
医師になって十数年、結構修羅場には慣れたつもりの私にとっても、あれはなかなかシビアな症例だった。
まさかこんな形で再会するとは思わなかったと付け加えながら、あかりは深々と頭をさげた。
思いがけない再会という点ではこちらも同じで、まさか異世界に来てまで昔診た患者に礼を言われるとは思わず、照れ隠し半分励ましの言葉を探す。
「どうか気にせずに。それより元気だして。帰れる可能性があるなら、頑張ってお子さんのところに帰りましょう」
途端に、あかりの表情が涙で崩れた。
「……娘は死にました。あの地震で……」
召喚される直前、日本を襲った大規模地震で倒壊した建物の下敷きになって、あかりの娘は即死したという。
しかも子供の死を見届けたあかりの夫は、あかりを置いて山の上に住んでいる自分の母親の様子を見に行ってしまったという。
海岸近くのあかりの家には、車は夫が乗って行った一台しか無かったというのに。
……記憶が確かなら、あかりが転落した際、あかりの姑(夫の母親)が突き落とした疑いが濃厚だったのはずだ。
彼女の言葉がすべて本当なら、夫と姑には以前からあかりに対する明確な害意があったということになる。
「実の両親もとっくにいませんし……あの神官の言うとおり、私には私がいなくなっても惜しんでくれるひとはもう誰もいないんです」
肩を震わせながらあかりが視線を落とす。
それからしばらく、あかりも私も口を開かなかった。
さっきまでただうるさいだけだった食堂内の喧騒を、むしろ気が紛れてありがたいと私は思った。
テーブルのふちにぽつりと落ちた水滴を指先で拭って、あかりが再び顔をあげる。
「……でも、夫たちは私が死んだと思ってるんでしょうけど……私はこうして生きてる……」
まだ暗いあかりの瞳に、鮮やかな灯がともった。
「生きてやる。もう、あの人達の思い通りになんか、ならない」
小さいけれどはっきりとした宣告。
皿の肉片にあかりはグサリとフォークを突き立て、口に肉を押し込む。
まだ泣きながら、それでも食べた。
そこにはもう、泣き崩れて呆然としていた女性の影はなかった。
「……強いのは、貴女の方だ。私はまだ……」
私は空になったトレイを手に立ち上がった。
あかりの前に医師づらをして座り続けるのがそろそろ苦痛になっていた。
弱っていたあかりを励ますつもりが、彼女は私の手など借りずとも十分自力で立ち直っていった。
それに比べて自分は……ただ、まだ死んでないから生きていくしかないと思っているだけで、この異世界で生き延びてやろうという意欲にはほど遠い。
マスコミに勝手に付けられ、刑事裁判は無罪と判決がおりてからも囁かれ続けた不名誉なあだ名にも、いちいち過敏に反応してしまうほどに心は折れたままだ。
「私、あんな報道なんか信じてませんから」
心を読んだように、あかりが声をかけてくる。
「先生はベストを尽くしたって信じてます。私と娘の命を救ってくれた時みたいに」
たぶん立ち上がってこちらを見つめているのだろう彼女を振り返ることは、私には到底出来なかった。
振り返らずただ……ありがとうと呟いて、私は食堂をあとにした。
午後はいよいよ戦闘の実践訓練だ。
たとえ惰性で生きるにせよ、この世界でまだ生き続けるつもりなら避けては通れない。
2012年1月4日 投稿




