翌朝
いよいよ教会の外に出て実戦が始まる朝がきた。
記念すべき「勇者」生活の初日。
窓の外の雲ひとつ無い青空のように、私は爽やかな目覚めを向かえて然るべきなんだろうが……残念ながらそうはいかず、睡眠不足のどんよりした気分と共に私はベッドから這い出した。
睡眠不足の理由はふたつ。
ひとつは筋肉痛。
普段ろくな運動もしないのにいきなり大剣を振り回したツケが、上腕から肩、背中、足腰の激しい痛みになって、鉄板の重さで張り付いている。
もうひとつは宿舎に一晩中続いた騒音のせいだ。
昨夜、真夜中過ぎ頃から私たちがいる部屋の周りから淫靡な物音が響きだした。
……あっ……あは…あ……んっ……
教会には最も似つかわしくない行為が繰り広げられている事を示す嬌声が、宿舎中のそこかしこから、最初はやや控えめに、やがて競い合うかのように立ちのぼりはじめた。
言うまでもなく、美しい従者をあてがわれた「勇者」達が、その有り余るエネルギーを発散しているのだろう。
どこかから五月蝿いと怒鳴る声も飛んだが、騒ぎはおさまるどころかむしろ当てつけのように激しさを増していった。
「勇者」達の多くは十代半ばから二十代。
睾丸の後から脳が歩いているようなあの年頃の衝動は、異世界での身体強化もあいまってちょっとやそっとではおさまらないのだろう。
ギシギシと振動まで伴う嬌声に悶々としていた時……ベッドの傍らにオリエが立ち、おずおずと「奉仕」を申し出てきたのだ。
今にも倒れそうにブルブル震えながら、ベッドに滑り込もうとするオリエを押し止めるには、結構な理性を必要とした。
私は三十代半ば。まだ枯れるには早い年齢で、オリエは従順な美少女。
もしこれが日本での出来事なら、ありがたく据え膳を戴いていたかもしれない。
しかし、今はオリエを抱く気になれなかった。
勝手に異世界に連れて来られ、先の希望も定かでないまま魔獣と戦えと言い渡されて、表面ばかり勇者と呼ばれたところで……いくら富や名誉や女をあてがわれたからといって納得などできる訳もない。
むしろ色や欲であしらえる程度の人間だと、異世界から見下されたような気さえする。
オリエを抱くことはそんな扱いを自分が受け入れるのと同じだ。
異世界に召喚されていなければ、あのまま大災害に呑まれて死んでいた、召喚されたからこそ今こうして生きていられるのも紛れもない事実だろうが、それでもなお、召喚した側の思惑にすんなりと乗ってやるのは我慢出来ない。
震えるオリエになるべく穏やかに、早くお休みと再度微笑みかけた。
ささやか過ぎる抵抗ではあったが、今の私に出来るのはその程度の抵抗だけなのだから。
目覚めたての身体を軽くストレッチで伸ばしていると、オリエとクレオが洗面や着替えの手伝いをしてくれた。
部屋には洗面所は無く、水差しと洗面器、タオルなどをベッドサイドにセットされた。石鹸や歯ブラシはこちらの世界には無いようで、代わりに口をさっぱりさせるために噛むという白樺の樹皮が少し添えられている。
白樺は食後にとっておくことにして、水差しの水で顔を洗って口をゆすいだ。
ざらりと伸びかけたヒゲを剃りたかったが、いわゆるヒゲ剃り用の剃刀も無く、剃るなら小刀を使うしかないと聞いて諦めた。
オリエによると、こちらでは成人した男性はヒゲが生えていて当たり前らしく、私の事もヒゲがない事からもっとずっと若い、せいぜい二十代半ばくらいだろうと思っていたという。
35歳だというとオリエもクレオも目を丸くして驚いた。
「……うそ。お父様と同い年?」
……この世界は結婚年齢もずいぶん若いようだ。
娘のような年齢の少女に手を出すヒヒ爺にならずに済んで良かった。
つまらない意地でも張ってみるものだなとつくづく思った。
朝の鐘に追い立てられて食堂に向かう。
昨日のメニューからあまり期待していなかったのだが、朝食はなかなかどうして結構なボリュームがあった。
昨日の昼食と夕食を合わせたよりも多い、トレイに乗り切れないほどのボリュームにも驚いたが、何よりメニューの中身が凄すぎる。
ソーセージ数種とベーコンにスクランブルエッグ、焼きトマト、炒めたキノコとハッシュドポテト。
バターたっぷりの厚切りトースト。
極めつけはオートミールのポリッジ(お粥)とカップになみなみ注がれたミルクティー。
私の記憶に間違いないなら、これは完璧なフルイングリッシュ・ブレックファストだ。
そうだとすると皿の一番向こう側にある赤黒いソーセージは、ブラックプディングに違いない。
何故異世界でフルイングリッシュスタイル、それもこれほどの徹底ぶりなのか?
疑問は尽きなかったが空腹には耐えられず、私は手近なテーブルに相席させてもらって、早々に料理に食らいついた。
隣の席の青年がオートミールを見て「うわぁ!犬のゲロだぁ!」と大騒ぎしていたが、他の相席相手たちのように食欲を削がれることはない。
医療に従事していて良かったと思うことのひとつに気持ちの切り替えの早さがある。
実際に患者の分泌物、吐瀉物、排泄物、血液や内臓、ご遺体を目にしたり触れたりした直後でも、手を洗って深呼吸をひとつしたら寿司でも焼き肉でも割と平気で食べられる。
昨夜ほとんど夕食をとっておらず空腹が最高潮なのも手伝って、ゲロゲロ大騒ぎしている真横でも普通に食事を終えることができた。
「だいたいケータイも使えねーし、ウォシュレット無いとか有り得ねーし?」
ムカつきを隠そうともせず料理をフォークでつつき回す青年のニキビだらけの横顔を見、まだごく若い……高校生か、下手するとまだ中学生……のだろうと判断して、食事時はもう少し静かにしろと声を掛けると、青年は即座に怒鳴り返そうと口を開いたが、私の顔を見たとたん「げっ!地震男?」と呟いて大人しくなった。
……どうやら私の知らないところで、また私のあだ名が増えたようだ。
「切り裂きドクター」よりは「地震男」のほうがマシなのかは疑問だが、以後ちゃんと大人しくしていたので、たった今彼が頬張ったブラックプディングの材料が豚の血液だということは黙っていてやることにする。
ミルクティーのお代わりを取りに行く途中、数人にパーティーを組まないかと声をかけられた。
見たところ大学生くらいか、オンラインゲームなどで団体戦には慣れているという彼らは、数の優位を力説し、自分たちの仲間にならないかと笑いかけてきた。
ひとりで魔獣と戦うより複数で協力して戦う方が確かに安全とは思うが、お互いを補完しあうというならまだしも、自分たちの得意不得意も示さずこちらの力量も訊ねずにただ人数さえ集めればよいというような安直な物言いが気に障った。
他人と協調する自信が無くてとりあえずお断りすると「ちぇっ、ケチ!」と舌打ちされた。
ゲロ発言の青年よりまともそうな外見と言葉遣いだったのに、こちらに脈がないとわかった途端に礼もせずに立ち去る態度は、なまじそれまでがまともそうだった分、ギャップは余計に薄気味悪い。
「……何だ、あれは?……」
「単なる他力本願集団ですよ。ハイレベルプレーヤーに寄生して、楽して稼ぎたくて必死なんです」
つい声に出していたらしい。すぐそばの席から声がかかった。
見ると、二十代後半くらいの痩せた男が、ミルクティーをすすりながら笑っていた。
ハイレベルって、誰が?と首を傾げていると、彼は自分の額を指差してニヤリとした。
「そんなにデカい魔晶石を付けて何言ってんですか?一晩でそんだけ育つんだから、寄生先にはもってこいなハイレベルでしょうに」
彼が占領していた二人掛けテーブルに手招きされ、向かいに腰を下ろす。
ゼスチャーに促されて自分の額に触ってみると、サークレットに違和感があった。
外して見てみると、サークレットの中央にあった魔晶石が明らかに変化していた。
昨日見たときには、指の爪程度の大きさの無色透明の水晶のような外見だったものが、今は大粒のアーモンドくらいの大きさになっていて、輝きもずいぶん強くなったように感じる。
昨夜は一晩中身に着けていたはずなのに、いつの間に石が取り替えられたんだろう?
サークレットを矯めつ眇めつしている間、テーブルの男がなにやら言葉を続けていたが、理解不能な言語に変わっていた。
「その語感は……韓国の方ですか?」
慌ててサークレットを頭に戻すと、再び言葉が通じるようになる。
「すみません。普段は日本語使ってたんですが、これ付けてから楽なんで、普通に国の言葉でしゃべってました」
パク=スンジュンと名乗った彼は、韓国出身で日本でアニメーション関係の仕事をしていたそうだ。
サークレットの翻訳機能は異世界の言葉だけでなく、地球上の外国語も対応していたようだ。
そういえば避難所や訓練中にも、日本人にしては多少顔立ちの違う人間もちらほらいたような気がする。
彼の観察によると、先ほどの集団は今の状況をオンラインゲームと思い込んでいるらしい。
どういう経緯からそう思い込んでしまったのかは不明だが、私たちは限りなく現実に近い体感型オンラインゲームの中にいて、何らかの原因でログアウト出来なくなった状態であり、誰かがゲームをクリアすれば全員元の世界に戻れるのだ、と。
ゲームだなんて馬鹿馬鹿しい、と言おうとして口ごもった。
考えてみたら異世界に召喚されたなんて事が、すでに充分非現実的で馬鹿馬鹿しい話なのだ。
この非現実的な状況をゲームと割り切り、クリアすれば元の世界に戻れると希望を持つことは、ある意味前向きな考え方だと言えないでもない。
「気持ちはわからないでもないですけどねー。やれチートだ、PKだ、死に戻りだとはしゃがれると、他人ごとながらおいおいって思っちゃいますよ」
本当は朝はコーヒー派なんですが、と愚痴りながらスンジュン氏はカップを傾けた。
彼はゲームやライトノベルに詳しいらしく、聞き慣れない単語に戸惑う私に親切に解説してくれた。
「……それにしても、勇者とか、英雄とか、世界のために戦うとかの荒事に、私みたいなおじさんを巻き込まないで欲しかったなぁ」
「……ですよねー」
つられるようにお互い苦笑して、とりあえず死なないように戦い抜きましょうと励ましあった。
スンジュン氏はお国で兵役の経験があり、火力が必要ならいつでも声かけてくださいと言ってくれた。
自分のサークレットの魔晶石の赤い輝きを指差して、光明と火炎魔法にも適性ありなんで、魔法攻撃もそこそこいけますよ、とも。
私はまだ自分に何が出来るかわからないけれど、人手が要りようならいつでもと約束して食堂を後にした。
私が出て行くころになっても、先ほどの集団はまだパーティーメンバー募集に精を出していた。
召喚の間でオリエに乱暴をはたらいた青年が、ずいぶん人数の増えた彼らに口説かれている。
バラキさんと呼ばれる彼は、おだてられてでもいるのかだいぶご機嫌なようだ。
バラキとは本名ではあるまい。ハンドルネームなんだろうが、ずいぶん古い映画のファンなのかなと思いながら、数歩歩いたあたりで忘れてしまった。
2012年1月29日 投稿




