表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

婚約破棄の書類に不備があるそうで、宰相閣下が受け取ってくれないのです

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/26

「イレーナ。君との婚約は、本日をもって破棄とする」


 エドガー・ロード子爵子息の声は、思いのほか平坦だった。

 王立舞踏会の会場の端、薔薇の飾りが揺れる小窓の傍ら。周囲の華やかな音楽がひどく遠く聞こえる中、イレーナ・ヴァシュ伯爵令嬢は相手の顔を三秒ほどじっと見つめてから、静かに頷いた。


「承知いたしました」

「……それだけか? 怒りもしないのか」

「怒る理由が見当たりません。あなたはご自分の本音に正直でいらっしゃる。それ自体は誠実なことだと思います」

「……君は本当に変わっている」

「よく言われます。明日にでも婚約解消の書類を提出いたします」


(解放された)


 内心でそっと息をついた。

 正直なところ、イレーナにとって王宮外交文書鑑定官の仕事は婚約者よりずっと大切だった。社交界の催しに顔を出すたびに「また書類の話か」とうんざりされ、「趣味は何か」と聞かれれば「インクの成分分析です」と答えてしまうような令嬢に、華やかな婚約者生活など最初から向いていなかったのだ。

 それに、背後でこちらをちらちら窺っているあのふわふわした金髪の娘——エドガーの視線の行き先を、イレーナは一時間前から確認していた。新しい恋でもできたか、とは思った。まあ、よくある話だ。


「君は……泣いたりしないのか」

「書類を揃えるほうが先です」

「本当に変わった女性だな」


 変わっている、というのはよく言われる。

 王宮外交文書鑑定官として五年。外交条約、貿易協定、国境画定書——あらゆる公文書の真贋を見極め、偽造を暴き、正本と写しの差異を一文字単位で確認する仕事だ。インクの酸化速度について食事中に熱弁し、封蝋の産地を嗅ぎ分けることに喜びを感じ、羊皮紙の繊維の向きから製造国を特定できる令嬢が変わっていないわけがない。そしてイレーナはそのことを、まったく気にしていなかった。

 もっとも、変わっているのは趣味だけではない。婚約破棄を告げられて「では書類を」と答えた令嬢は、この王国広しといえどもおそらく自分だけだろうと、わずかな自覚はあった。泣くべきか、喚くべきか——人々が期待するのはそういう反応かもしれない。しかし正直なところ、今の感情を分類するなら「安堵」が七割、「これで土日も仕事ができる」が残りだった。


 仕事は仕事として誠実に。婚約は婚約として粛々と解消。それだけのことだ。

 帰り際、何人かの令嬢たちが「まあ可哀想に」と囁き合っているのが聞こえた。

(可哀想ではないんですが)

 とは言えない。社交辞令には社交辞令で返すべきだと分かっているので、イレーナは微笑んで会釈した。心の中では既に書類の様式を組み立て始めていた。婚約解消届の必要書類リスト——証人の身分証明、署名、捺印、提出先は宰相府民政局……。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 翌朝、イレーナは王宮の宰相府を訪れた。


 婚約解消の届出は宰相府の民政局が管轄する。書類一式を自ら作成し——文書のプロとして不備のないよう五回確認済み、さらに念のため一晩置いて翌朝もう一度見直し済み——きっちり封筒に入れて窓口に差し出した。鑑定官の職には引き続き留まるので特段の手続きは不要。至ってシンプルな話のはずだった。


「受領いたします——」

「少々お待ちください」


 窓口の官吏の後ろから、静かな声が割り込んだ。イレーナは顔を上げる。そこにいたのはライナルト・フォン・シュテルン宰相——三十二歳、黒髪、鋭い灰色の目、王宮で最も多忙な文官にして表情筋が仕事中に稼働した記録がないと評判の男——が、なぜか自ら書類を受け取り、丁寧に検めていた。


(……なぜ宰相本人が窓口に?)


 疑問は正当だと思うが、問い返す前に宰相が口を開いた。


「第三条の署名欄の位置が、今年度改訂の様式と三ミリほど相違しております」


 声音は平坦だった。非常に平坦だった。


「え」

「様式集の第十七改訂版、第八条の二を参照してください。窓口にございます」


 イレーナは書類を受け取り、しばらく無言で宰相を見つめた。


(三ミリ? 確かに様式は改訂されたが、許容誤差は五ミリのはずでは。三ミリは余裕で範囲内のはず)


「閣下、改訂通達によれば許容誤差は——」

「今年の冬季補足通達で変更されました。窓口にございます最新版をご確認ください」


 ありました。確かに。ただしその通達、昨日付でした。

 イレーナは唇を一文字に結んだ。文書のプロとして昨日付の通達を見落としたのは、認めたくないが自分の落ち度だ。しかし三ミリ。三ミリのために出し直し。


「……修正して参ります」

「ご丁寧にどうぞ。お待ちしております」


(なぜそんなに落ち着いておられるのですか!)


 宰相は書類を返し、音もなく執務室の奥へと戻っていった。

 イレーナは封筒を抱えたまま、しばらく窓口の前に立ち尽くした。三ミリ。三日かける価値があるのかまったくもって疑問だが、プロとして出す書類に不備があってはならない。

「あの……お嬢様」と窓口の官吏が遠慮がちに声をかけてきた。「もしよろしければ、様式集の最新版をお貸しできますが」

「お願いします」

 受け取った様式集を確認すると、確かに今年の冬季補足通達のページが貼り足してあった。三ミリの件は完全に正当な指摘だった。悔しいが、認めなければならない。

 修正して参ります、と言ったのは自分だ。プロとして不備のある書類を出した自分の落ち度だ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 三日後、イレーナは修正した書類を再び宰相府に持参した。

 三ミリの誤差を修正しただけでなく、この機に全条項を最新様式と照らし合わせ、念のため二重確認した上での提出だ。これに不備があるはずがない。自分は文書のプロだ。五年間一度も偽造を見逃したことのない文書のプロだ。


「受領いたします——」

「少々お待ちを」


 また宰相本人が出てきた。

 イレーナは内心で小さく舌打ちした。気品ある令嬢がするようなことではないが、この状況に出てくる表現が他に思いつかなかった。


「筆頭証人であるヴァシュ伯爵閣下の身分証明ですが——現在ご在任の役職として、昨年十月の昇叙が反映されておりません」


 一瞬の沈黙。


「……お父様、昇叙されていたのですか」

「ご存知ではなかったのですか」


(存じませんでした! 父は事後報告が趣味なのです! 去年の夏に叙勲されていたことも半年後に書類が届いて初めて知りましたから!)


「確認して参ります」

「お待ちしております」


(待っている!? なぜそんなに自然に!? 宰相閣下には本来もっと重要なご公務があるはずでは!)


 イレーナは家に帰って父に確認した。ヴァシュ伯爵は「ああ、そういえばそうだったな、おめでとうと言ってくれたか?」と言った。

 イレーナは一分間だけ天井を見上げた。

 帰ってきた侍女が「お嬢様、お顔の色が優れませんが」と心配したが、「書類の修正があるだけです」と答えた。

 実際、問題は書類の修正だけのはずだった。父の新しい役職を確認し、全証人の身分証明を再発行してもらい、また一から揃え直すだけの話だ。

 どうしてこんなに手がかかるのだろう、と思いながら、しかし書類が完璧である以上の喜びを自分は知らないので、結局黙々と揃え直した。

 そういう自分を「変わっている」と言うならそれでいい。仕事が好きで、書類が好きで、文書の中に誰かの誠実さや欺瞞を見つける瞬間が好きだ。そういう人間なのだから、仕方がない。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 さらに一週間後、三度目の提出。

 父の現在の役職を確認し、全証人の身分証明を最新情報で揃え直し、様式の全条項を三度読み合わせて完璧に仕上げた書類だ。これで不備があれば、この国の様式集の作成者に問題がある。


「受領いたします——」

「少々」

「あなたは毎回ここにいるのですか!」


 さすがに声が一オクターブ上がった。周囲の官吏が全員書類から目を上げた。宰相はぴくりともせず、淡々と書類に目を落とした。


「……第二証人の印章が若干滲んでおります。書類の真正性に疑義が生じかねません」

「文書のプロとして申し上げますが、この程度は規定の許容範囲内の滲みです」

「私の見解では範囲外です」

「閣下は文書の専門家でいらっしゃるのですか」

「いいえ。ですが書類全般の最終承認権は私が有しております」


 沈黙。

 イレーナは五秒間、宰相の灰色の目を見つめた。一切動じない。揺れない。

 この目は何かを隠している——文書鑑定士として確信していた。文書は嘘をつかないが、人間はつく。問題はその嘘の目的が何かだ。


(この人、絶対に何か目的がある)


 ただしその目的が何なのか、文書鑑定の専門家にはさっぱり読めなかった。人の感情は羊皮紙の繊維方向のように明確ではない。


「……修正して参ります」

「お気をつけてお帰りください」


(三ミリ。父の昇叙。印章の滲み。次は何が出てくるのだろう。まさか、用紙の白さが規定に満たないとか言い出すのでは)


 帰り道、イレーナは職場で唯一の友人、先輩鑑定官のマーゴに事情を話した。


「……それはつまり」とマーゴは目を細めた。

「書類の様式が問題なのかもしれません。あるいは宰相閣下が私の婚約破棄に何か法的な懸念をお持ちか」

「ね、イレーナ」

「はい」

「あなたって本当に書類のことしか見えないのね」


 マーゴは呆れたような顔で紅茶を飲んだ。

「ま、いいけど。で、その宰相って、毎回自分で窓口に出てくるの?」

「そうなんです。なぜか必ず」

「宰相が窓口業務をするって、普通じゃないわよね」

「そうですよね。それも私が疑問に思っていたことで」

「そうよね」とマーゴはもう一度言って、何かを言いかけて、首を振った。「イレーナ、修正が終わったらまた教えて」

 イレーナには会話の意味がよく分からなかったが、翌日念のため印章を作り直した。費用は立替えることにした。プロとして完璧な書類を出す以上、小銭を惜しんでいる場合ではない。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 四度目の提出予定の三日前、王宮に緊急招集がかかった。

 実はこの朝、イレーナは四度目の書類を封筒に入れて机の上に置いていた。昨日完成させた完璧な書類だ。今日の午後にでも宰相府へ持参する予定だった。またあの宰相が何か言ってくるかもしれないが、今度こそ不備は一切ない。

(あの人は今日、何を言うのだろう)

 ふとそんなことを考えた自分に、少し驚いた。書類の不備への怒りではなく、純粋な興味として考えていた。

 その疑問は、夜の招集で別のかたちで答えが出ることになった。


「鑑定官を呼べ! 帝国との外交文書に重大な疑義が生じた!」


 会議室に入ったイレーナが目にしたのは、帝国との通商条約の草案とおぼしき羊皮紙だった。宰相以下、外交官が十数人。全員が青ざめた顔をして立っている。机の上には帝国の紋章入りの封筒と、大判の羊皮紙が数枚。


「イレーナ・ヴァシュ鑑定官、この文書の真贋を」


(……ああ)


 手に取った瞬間、分かった。


 まずインクの酸化具合——浅い。深みがない。インクは時間が経つほど紙に浸透し、表面が落ち着いて光沢が鈍くなる。昨年締結されたはずの条約としては有りえない新しさだ。せいぜい二、三ヶ月以内、どう見ても今年に入ってから書かれている。

 次に羊皮紙の繊維の方向——帝国標準の縦方向ではなくわずかに斜め。これは国内産の羊皮紙に特有のクセだ。帝国産の羊皮紙は原料の処理工程が異なるため、繊維が均一に縦に揃う。

 そして封蝋——鼻を近づければ一発だった。帝国宮廷御用達の赤蝋は特定の松脂を配合した、少し渋みのある独特の香りがある。これは違う。国内市場で流通する廉価品の、軽くて甘い香りだ。五年間嗅ぎ続けた鼻が、迷わず「違う」と答えた。


「偽造です」


 室内が静まり返った。


「確かですか」

「はい。インクの酸化度合い、羊皮紙繊維の方向、封蝋の成分、計三点で確認できます。おそらく製造から一週間以内の新しい偽造品です。帝国との正式な外交テーブルにこれを持ち込んでいれば、帝国は条約を捏造した証拠だと判断して開戦を宣言していたでしょう」


 外交官の一人が椅子に倒れ込んだ。もう一人が深く息を吐いた。宰相だけが、微動だにしていなかった。


「偽造者を特定できますか」

「インクの配合と羊皮紙の産地から、国内の特定の業者に絞れます。封蝋は王都南区で流通している型のものです。詳細な鑑定書を作成します」


 その場で筆を借り、三十分で詳細な鑑定書を書き上げた。書き慣れた手が、いつもより少しだけ速く動いた気がした。

「インクの特定銘柄は?」という宰相の問いに即答し、「羊皮紙の製造業者は三社まで絞れます」「封蝋の型は王都南区の金物屋が二年前から取り扱っている規格品です」と続けた。外交官たちが黙って書き留めていく音だけが会議室に響いた。

 仕事をしているとき、頭は不思議なほどすっきりする。婚約破棄も、書類の不備も、宰相の謎めいた行動も、全部どこかへ消えていく。目の前の文書が全てで、文書は嘘をつかない。

 それがイレーナの、ずっと変わらない仕事への姿勢だった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 その後の調査は、イレーナの鑑定書をもとに急速に進んだ。


 偽造文書の出所を辿ると、条約草案を取り扱った中間業者の一つとして、ロード子爵家の名前が浮かんだ。直接の主謀ではないが、情報漏洩に利用されていた疑いが強く、エドガーの父は調査対象になった。社交界での評判は一晩で地に落ち、当然ながらエドガーも連座して身動きが取れなくなった。

 さらに、エドガーが駆け落ち同然で逃げ出した相手の娘の実家が、偽造の首謀者に近い商人と繋がっていたのは後日判明した話だ。


(そういうことか)


 イレーナは腕を組んで、静かにそう思った。人の縁というのは文書より複雑で、読み解くのに時間がかかる。しかし証拠が揃えば答えは一つだ——婚約破棄を言い渡した相手が、自分の次に選んだ娘ごと不正に絡んでいた。文書で言えば「偽造に関与した書き手を後継者に選んだ」ような話だ。


 エドガーが最後に「もう一度話し合いたい」という手紙をよこしたのはその三日後だった。イレーナは丁重に断った。文書で。法的に完璧な文書で。様式は最新版に準拠し、署名の位置も規定通り、証人の身分証明も一切の不備なし。返却されることはなかった。


 社交界では、ロード子爵家の調査と同時に「婚約破棄を告げた当日に相手方は書類を揃えていた」という噂が広まったらしい。三日で完璧な書類を用意できるほど婚約に未練がなかった、という意味に受け取られたようで、エドガーの評判にもう一段の傷がついた。

 イレーナはその話を後日マーゴから聞いて「まあそういうことです」とだけ答えた。


 これもまあ、どうでもいい話だった。


「……ヴァシュ鑑定官」


 会議室から退出しようとしたイレーナを、宰相が呼び止めた。


「今回の迅速な対応に礼を申し上げる。あなたの鑑定がなければ取り返しのつかないことになっていた」

「職務ですので」

「あなたが宮廷を離れていなくて良かった」


 ふとイレーナは気づいて、宰相の顔を見た。

(もし書類が通っていたら……私は既にここにいなかった)

 その事実が、じわりと遅れて実感を伴ってきた。今夜の偽造を見抜けたのは自分だけだ、と鑑定官として分かっていた。そして書類が通っていれば、偽造は発覚しないまま帝国へ届いていた。

(三ミリの不備で、間接的に国を救ったことになる?)

 それはあまりにも奇妙な話で、思わず笑い出しそうになったがこらえた。会議室はそういう雰囲気ではなかった。


「閣下、もしかして」

「……なんでしょう」

「外交上の問題が迫っているとご存知で、私の書類提出を引き留めていらっしゃったのですか?」


 一秒の沈黙。


「……半分は、そうです」


「半分?」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 翌朝、イレーナのほうから宰相府を訪れた。


 宰相は執務室にいた。机の前に座り、羽根ペンを持ち、積まれた書類と向き合っている。イレーナが扉を叩くと「どうぞ」と静かな声が返ってきた。


「昨日は緊急対応で状況が整いませんでしたが、改めて婚約解消の書類を——」

「不備があります」


 今度は書類を見てもいなかった。

 イレーナは手の中の封筒を見て、宰相の顔を見て、もう一度封筒を見た。


「……どこにですか」

「少々お待ちを」


 宰相は机の引き出しを開けて、一枚の紙を取り出した。差し出されたそれを、イレーナは受け取って目を落とした。


 そこには見慣れた彼女自身の文字で書かれた一節があった——正確には、彼女の過去の鑑定報告書の備考欄が、別の手で丁寧に書き写されていた。


「羊皮紙の繊維が特に整然としており、素材への深いこだわりを感じる。作成者の美的感覚に敬意を覚える」


 三年前の最初の担当案件の備考欄だ。


「インクの濃度が全文を通じて均一で乱れがない。これほど安定した筆圧を保てる人物は王宮でも稀有だと思う」


 二年前の貿易協定鑑定の備考。


「条約文の余白の取り方が従来書式より二ミリ広い。読み手への配慮だろうと思う。こういう細部に書き手の人格が出る」


 去年の帝国条約鑑定。


「今日の文書は特に美しかった。書き手が言葉を大切にしているのが羊皮紙越しに伝わる。こういう仕事をする人に、いつか会ってみたい」


 一年前の国境協定。


(……これ、全部私の備考欄? なぜ宰相閣下がこれを)


「三年分あります」


 宰相は静かに言った。


「あなたの鑑定報告書を、毎回読んでいました。本文ではなく、備考欄を。あなたはそこに、仕事の記録だけでなく、文書への愛情と、仕事への誠実な思いを書いていた。読むたびに、この人と話してみたいと思っていた——正確には、この人のそばにいたいと思っていた」


 イレーナは固まった。


「……宰相閣下」

「婚約解消書類の不備とは、ここに記録された私の気持ちが整理できていないことです。様式上の問題ではなく、私個人の問題として」


 ぱちぱちと目を瞬かせた。


(え。あの。これ、どういう状況?)


(文書鑑定士として申し上げると、この書き写しの筆跡はかなり丁寧で、一字一字に気持ちが込められていて——いや、そういう話ではない、今はそういう話ではない)


(宰相閣下は今、告白をされているのでは?)


 じわじわと認識が追いついてきた。後ろのほうから「あなた気づくのが遅すぎです」というマーゴの声が聞こえる気がした。もちろん彼女はここにいないが。


「……三年、ですか」

「ええ」

「それはずいぶんと」


 少し間を置いた。


「書類を受け取れなかった理由として、えらく遠回りでは」

「三ミリの件は、話しかける理由が欲しかった」


(三ミリのために私が三日かけた修正は!)


 思わず笑い出しそうになるのを堪えた。


「お父様の昇叙の件は」

「事実ではありましたが——気づかれていないなら好都合だと思いました」

「印章の滲みは」

「……あれは正直、言いすぎました」


 宰相がわずかに目を逸らした。それが、この五年間で初めて見るライナルト・フォン・シュテルンの動揺した顔だった。王宮一と評されるほど感情を表に出さない人が、目を逸らしている。


(——ああ)


 なぜか、胸のあたりが温かくなった。普段の仕事中に羊皮紙の美しさを見て感じるのとは、少し違う温かさだった。


「閣下」

「はい」

「あの、私は書類のことしか考えないような人間ですが」

「存じております」

「恋愛というものが、文書より複雑で、正直よく分からなくて」

「分かっています」

「それでも」


 イレーナは一度深く息を吸った。


「その備考欄を三年間読んでいてくださったなら——閣下は、書類を読むのと同じくらい丁寧に、私のことを読んでくださったのだと思います。そういう人に、私は会ったことがなかった」


 しばらく、静かな時間があった。窓の外で鳥が鳴いた。


「……では」


 宰相が、ほんのわずかに口元を緩めた。


「婚約解消の書類ではなく、別の書類を一枚、用意してもよいでしょうか」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 その日の夕刻、宰相府の窓口に一枚の書類が差し出された。


 婚約解消の届ではなく、婚約届。差し出し人:ライナルト・フォン・シュテルン。受取人:イレーナ・ヴァシュ。


 書類を確認したイレーナは二ヶ所ほど不備を見つけ、付箋に修正内容を書いて貼り付けて返した。


(プロとして見過ごせないので。それと、証人の署名欄が一つ足りません)


 宰相は黙って修正し、再度提出した。


「これで問題はないかと」

「……不備、ありません」


 イレーナは初めて書類を受理する側になった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 一ヶ月後、宰相府の執務室の片隅に、イレーナの机が一つ増えた。


 王宮外交文書鑑定官として引き続き勤め、これまでと変わらず羊皮紙を検め、インクの匂いを嗅ぎ、封蝋の成分を確認する日々。ただし以前の薄暗い執務室から移動して、宰相の隣の席で仕事をするようになった。それだけの変化だった。


 宰相は毎朝、書類を一束持ってきて机の端に置く。「鑑定をお願いできますか」とだけ言って自分の仕事に戻る。イレーナは鑑定し、報告書を書き、備考欄に気づいたことを書く。宰相はその備考欄を、毎日読む。


 ある日の備考欄に、こんな一文が増えた。


 「隣の席の人が今日も書類を大量に持ってきた。全部精密で読み応えがある。毎日渡してくるのは嫌がらせかと思っていたが、今日ようやく気づいた——これは、話しかけるための理由だったらしい。まったく遠回りだ。困る。でも、嫌いではない」


 翌朝、その備考欄を読んだライナルトは——誰も見ていない執務室で、静かに微笑んだ。


 次の日の夕方、彼女の机の端にそっと一枚の紙が置かれた。鑑定依頼でも公式文書でもなく、便箋に短い一文が書かれていた。


 「読んでいます。毎日」


 イレーナはその一文を、しばらく見つめた。そして鑑定官として初めて、文書以外のものが美しいと思った。

 備考欄にはこう書いた。


 「受理しました」


 その日の夜、帰り際に廊下で宰相とすれ違いざま、イレーナは言った。

「閣下」

「はい」

「明日も書類を持ってきていただけますか」

 一瞬の間。

「……もちろんです」

「ありがとうございます」

「こちらこそ」

 短い言葉のやりとりだったが、それで十分だった。


 話しかけるための理由は、もう要らなかった。ただ、それでも書類が好きだということに変わりはない。宰相もそれを知っている。

 そういう二人の関係が、イレーナにはとても心地よかった。それで十分だと思った。


(了)

読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ