14話:帝国密偵カイエン
地上への通路が見え始めた頃、腕の傷がじんと痛みだした。
あの機械兵の連撃を受けたときについた裂傷だ。刃こそ持たないが、鉄の腕は岩を砕く。防いだだけで十分すぎる痛手だった。
エリスも息が荒い。
炉の反転を成功させた代償に、魔力の芯まで削られている。
「休むなよ、倒れるぞ」
「……あなたのほうが血が出てます」
「生きてりゃ止まる」
冗談めかして言ったが、実際は出血が続いている。地上に出る前に手当てしなければ危険だった。
――そのときだった。
前から、空気の流れを感じた。
通路の変化が止まった今の迷宮に、奥へと風が吹くことはありえない。ここには出口も換気路もない。空気は“溜まる”だけで、“動く”ことはないはずだった。
その静寂の空間で、わずかに風が揺れた。
誰かが、こちらへ歩いて来る。
そのわずかな動きが、通路全体の空気を押したのだ。
俺は歩みを止め、エリスの肩を軽く押した。
「……前方だ。誰かいる」
通路を抜けると、薄明かりの広間に男がひとり立っていた。
風が動いた理由が、ようやく分かった。
あの男の“存在”が空気を押し広げていた。
黒い上着に、無造作に束ねた銀灰色の髪。
整っているが、どこか笑みを張りつかせたような面差し。
目だけが、妙に静かだ。
そして――この静けさを纏ったまま人を殺せる男だ、と直感した。
「君が、噂の“港の剣”だね」
「その呼び方は好きじゃない」
「だろうね。
でも噂というのは勝手に育つものだ。火のついた綿みたいに」
軽い調子だったが、声が軽いわけではなかった。
底に石みたいな重さがある。
男はひとつ顎を引き、エリスを見る。
「それで――君が、“炉の反転”を成功させた魔術師」
エリスは小さく身構えたが、目に臆した様子はない。
「名は?」
「……エリス・ロウ」
「いい名だ。研究者らしい響きだ」
何を基準にそう言うのかは分からない。
だが妙に説得力があった。
この男は“人を見る”目を持っている。
「名乗っていなかったね。
私はカイエン。帝国で“発掘調査”を担当している者だ」
「帝国の密偵、って呼ばれてる方が通りがいいぞ」
俺がそう言うと、カイエンは微笑んだ。
だがその笑みは気配ひとつ揺らさない。
「密偵なんて、そんな大層なものじゃないさ。
ただ、価値あるものを“正しい場所”に運びたいだけだ。
帝国は、知が散逸することを嫌う」
「その“正しい場所”ってのは、帝国のためって意味だろう」
「王国は違うのかい?」
言葉を返す間もなく彼は続けた。
「エリス。君の研究――“炉の反転”と“刻印の構造解析”。
王国では、きちんと評価されているか?」
エリスの肩が、かすかに揺れた。
分かる。
痛いところを突かれたのだ。
「君の才能は、湿気た図書塔の奥に閉じ込められるべきじゃない。
帝国なら、もっと広い環境がある。
もっと多くの資料。もっと多くの学者。
そして――もっと多くの“可能性”が」
金でも名声でもない。
“研究者にとって抗いがたい誘惑”だけを差し出してくる。
この男は、本質を見ている。
そして俺を見た。
「君もだ、ラカム。
君の腕は、こんなところで朽ちさせるには惜しい」
「買われても困るな」
「買ってなどいない。
ただ――“君のような人間は、帝国では英雄になる”と言っているだけだ」
まるで“別の人生”を差し出されている気分だった。
俺がもし、
どこかで一歩間違えていたら――
いや、誰かに救われていなかったら。
この男の側に立っていたのは俺だったのかもしれない。
「残念だが、俺たちは王国の依頼を果たす最中だ」
「そうだろうね。
だが――君たちは既に、大きな渦に飲まれている。
国境も契約も、いずれ意味を失う」
カイエンは背を向けた。
「また会おう、エリス。
そしてラカム。
次に会うとき――君たちがどちらの旗の側に立っているか、楽しみにしているよ」
そのまま、迷宮の闇へ溶けるように姿を消した。
エリスはしばらく動けずにいた。
俺もまた、胸の奥に妙なものが残っていた。
あの男は、敵か味方か。
それとも――俺の“影”なのか。
いずれにせよ、忘れられない気配だけが通路に残っていた。
チャッピーの凄さ
!カイエンが「誰だ?コイツ。こんなキャラ設定したっけ?」状態になった。個人的に好きな、光で目をやられる大佐みたいなキャラの悪役にしようと思ったのだが。まあ、それだと色々な問題があるか。




