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9月7日、有楽町の夜に消えない手の皺

【メモ:9月6日(土)18:30 有楽町公園前】

 蝉の音が、スーツの背中に張り付いた汗と一緒に耳まで這い上がってくる。地方移住相談会の会場を出たところで、インバウンド回復のパネルが目に焼き付いて離れない。「三重県40%自治体消滅」──赤文字で書いた自分のメモが、パンフレットの破れ目に重なり、文字が歪んで見えた。


 霞が関の方へ歩けば、まだ残暑の通勤ラッシュが吐き出す熱気が、コンクリートにじっとり滲む。居酒屋「源や」の暖簾をくぐると、冷房と焼き鳥の煙が同時に鼻を打った。


【メモ:19:45 カウンター】

「また数字で終わったか」

 田中先輩は、コップの泡を半分残して、僕のメモ帳を指で弾いた。朱のペンで「数字より老人の手の皺を見ろ」と書いてあるのが、蛍光灯に滲む。

「……町役場の広報課、五人に三人が六十五歳超えです。DI値はゼロを切ってます」

「DI値じゃなくて、DNAだよ」

 先輩は自治労の「若年層処遇改善アンケート」を握りしめたまま、鳥のから揚げを口に放り込む。脂が指についた。まるで、東京の夜が溶けているみたいだ。


【メモ:店内BGM テレビはトカラ列島地震】

「北山村の漁師の娘は、毎年八月に盆踊りの練り込みをしてくれたんや」

 関西弁が、焼き台の上で跳ねた。源さん──本名は小林カツ、と名札に小さく書いてある──は、ダシを取る手を止めない。昆布の香りが、冷房の風に乗ってグラスを揺らす。

「源さん、三重の?」

「南志摩郡の端っこよ。人口減りすぎて、郵便局が自販機になったわ」

 先輩が苦笑いしながら、新しいビールを注文した。グラスを掴む手が、わずかに震えている。自治労の資料の隅に「五年後の退職予定」と書いてあるのが、ぼんやりと見えた。


【メモ:20:05 隣のサラリーマン、台風一過の湿気を肴に笑う】

「東京の暑さは汗、田舎の暑さは土の匂い」

 源さんが、ヒジョウの塩辛を小皿に移しながら呟く。僕はスマホを開いて、北山村のホームページを検索した。最後の更新は三年前。トップ画像の小学校、窓ガラスが割れて、ブランコの鎖が海風に鳴っている。


「……移住パンフレットには、インバウンド需要回復率が二十七%って書いてありました」

「数字で片付けんなよ」

 先輩に肘で小突かれ、スマホがカウンターを滑った。画面が割れ、蛍光灯が反射して、僕の顔が歪む。そこに、源さんがひょいと、もう一枚の紙を置いた。


【メモ:20:30 「北山村プラごみ清掃ボランティア」】

 チラシは、コピー機のトナーが薄くなって、海の写真が霞んでいる。それでも、手書きの「ごみ拾いの後はイカの塩辛焼き! 参加費無料!」という文字が、ドアの開く風にはためいた。

「去年は五人きりやった。今年は……まあ、せいぜい十人か」

 源さんは笑う。歯の欠けたところから、潮の匂いが漏れるような気がした。

「でもな、新聞記者さん。消滅って文字、漁網にかけると網が切れるで。拾うのは、人の手や」


【メモ:20:45 店内照明が絞られる】

 テレビの音量が下がり、ジャズがかかる。先輩が、最後のビールを干しながら呟いた。

「お前、数字を書く前に、手の皺を一枚拾ってこい」

 僕はメモ帳を閉じた。表紙の「消滅」という文字が、汗で滲み、少しだけ丸くなる。源さんが、皿を洗いながら、遠くを見る。

「塩辛いもんは田舎の味や。舌覚えてるうちは、まだ消えん」


【メモ:21:55 源や、クローズ五分前】

 勘定を済ませて外に出ると、有楽町のビル風が、まだ湿っていた。蝉の声は消え、代わりにタクシーのクラクションが、夜の膜を突く。僕はポケットから、ボランティアのチラシを取り出した。波の写真が、街灯に透けて、北山村の海へ続いているように見えた。

 数字ではない。拾うべきは、統計の影に光る、一握りの希望──。

 九月六日、土曜の夜は、まだ終わらない。

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