第2話
音楽室での活動時間も終わりが近づいて、先輩たちから集合の合図がかかる。
俺は片付けをしながら、チラリと春花の様子をうかがった。
彼女がいつも座っている、運動場を見下ろせる窓際の席から、ようやく春花の意識が音楽室へ戻ってくる。
「文化祭で演奏する時間割りが決定しました」
先輩たちの報告をよそ目に、もう彼女はそわそわしていた。
理由は知っている。
浦井先輩に会いにいくためだ。
会いにいくっていっても、別に付き合ってるわけでもなければ、話すわけでもない。
ただ反対車線のホームから、電車に乗って帰るのを見送るだけ。
そんなことを毎日毎日よく続けられると思う。
「というわけで、そろそろ練習も本格的に始めるからよろしく」
「はーい」
「お疲れさまでしたー」
18時の完全下校時刻までに学校から出ていないといけないから、急いで音楽室を出て行こうというのは分かる。
だけど、そんなに急いで出る必要もない。
五分もあれば十分だ。
小走りで音楽室を出て行こうとする春花の前に、俺はふと気まぐれから片腕を伸ばし、入り口の扉をふさぐ。
「ちょ、奥村くん。なに? どうかしたの?」
「あのさ、先輩の話聞いてた?」
「話って?」
「学祭の練習」
「聞いてたよ」
「練習パート、どうする?」
俺がそう尋ねると、彼女はキョトンとした顔で見上げた。
「いつもと何か変える必要ある?」
必要はないと思うよ、俺も同意見だ。
だけど聞きたいことはそういうことじゃない。
「このあと皆でファミレス行かない? 練習内容について、話し合いたいからさ」
「ゴメン。私、部活終わったら早く帰らないと、親に怒られるんだよね」
「へー。そうなんだ」
嘘だ。
だって浦井先輩のことを知るまでは、いつまでも校門前に残ってダベってたり、コンビニ寄ってだらだらしてたくせに。
「じゃ、悪いけどお先に。何か決まったら、あとでグループラインで送って」
「あっ!」
彼女は通せんぼしていた俺の腕を下からすり抜けると、廊下を走り行ってしまった。
階段への角を曲がり、すぐに姿が見えなくなる。
「なんで一回助けてもらっただけで、ほとんど話したこともない相手を好きになっちゃうかなー」
俺がそう言うと、同じ一年の知菜がニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「奥村くんには分かんないんだよ。恋ってものが」
「は? そんなもん、分かりたくもねーわ」
全く腹が立つ。何が「浦井さーん」だ。
「たまたま偶然そうだったってだけでしょ? 実は彼女がいたり、悪い人だったりしたら、どうすんの?」
俺は知菜と並んで音楽室を出る。
グラウンド横の運動部部室棟から引き上げてきた運動部の生徒で、校門前はごった返していた。
その中に問題の浦井先輩を見つけて、俺はさらに不快を募らせる。
なんで俺までこの時間にかぶるんだよ。
下校時間一緒なのは部活してるから仕方ないんだけどさ。
つーか浦井さん、同じ二年の、多分サッカー部マネージャーである女の先輩としゃべってるし。
そいつと付き合ってんじゃないの?
いや知らんけど。
「例えばさ、ここで待ち伏せして声かけるとかならさ、まだ俺だって分かるんだよ」
俺は浦井先輩のすぐ後ろを通り過ぎた。
背は俺と変わらないくらい。
175㎝あるかないかだ。
「だけどそれをしないで、反対ホームに駆け込んで見てるだけって、何がしたいの?」
「いいじゃん、それで春花が満足してるなら」
「意味分からん」
「なんでそれを、奥村くんが気にしてんの?」
「は? 知らねーよ」
「じゃあ別によくない?」
「いいよなー」
「うん。いいよ」
いや全然よくない。
俺はこれから電車の駅で、ずっと無駄に待ち続けてる世界一効率の悪い女の姿を見ることになるんだ。
もうそんな春花の姿は、イライラするほど見飽きてる。
駅へ向かう俺の足取りは重くはない。
逆に怒りで早くなってる。
今日こそ分からせてやるべきじゃね?
ハッキリ言ってやんないと。
まぁ、俺が言ったところで、どうにかなるわけでもないんだろうけど。
連休明けの衣替えが終わった直後くらいのころから、春花の様子が変わった。
ある日の昼休み、教室で部活の練習パートを相談していた俺と知菜の元に、突然やって来た春花が爆弾発言をかましてきた。
「どうしよう。私、好きな人が出来た」
顔を真っ赤にしてそう言った春花に、知菜が瞬時に飛びつく。
「えー! だれだれだれ!」
は? なんだそれ。
いまその話、必要?
朝の教室入ってきた時から、なんかいつもと違うなと思っていた。
それが何だったのかは、今でも分からない。
「あ、あのね……」
春花は恥ずかしそうにしながら、ぽつりぽつりとことの経緯を話し始める。
は? なんだそれ。
痴漢に絡まれてたのを助けてもらった?
そんな一時的なもので、簡単に誰かを好きになっちゃうものなの?
それが好きになった理由?
ちょろすぎない?
そんなものが恋だって?
「じゃ、うちの学校の二年ってことだけは、間違いないんだね」
知菜がそう言うと、彼女は赤い顔のまま力強くうなずいた。
「探したい。二年なん組で、なんていう人なのか」
春花の張り込みが始まった。
朝の登校時間、体育の授業中、全校集会。
二年の姿を見つけたとたん、知菜と二人で駅前の王子を探していた。
ノートに書いたヘタクソな似顔絵でなんて、他人に見分けられるワケないだろ。
それなのに、世間というのはこうも狭いものなのか、はたまた彼女の執念の結果なのか。
案外あっさり見つかった。
「いた! ねぇ、知菜見つけた!」
「どこどこどこ?」
そういって騒ぐ方向に、自然と俺の目も向く。
移動教室で、理科室へ向かう途中だった。
体育館から引き上げてきたらしい二年の集団の中に、「浦井先輩」がいた。
「ねぇ、体操服の名前見える? なんて書いてある?」
「は? そんなの自分で見ろよ」
「お願い、見て来て!」
「なんで?」
「ジュースおごるから!」
は? なんだそれ。
ふざけんな。
最高にイライラする。
だけど、男の集団の中にいるソイツの名前を見ようと思ったら、男の俺じゃないと近づけない。
春花に背中を押され、俺は駅前王子の名前を確認した。
王子とすれ違う瞬間、春花は顔を真っ赤にしてうつむいて、俺の背に隠れたまま、王子の横を早足で通り過ぎる。
そんなんでこの先どうやって、自分をアピールしていくつもりなんだろう。
「奥村くん! 先輩の名前分かった?」
「……。浦井。浦井だって」
「え? ホント? うらいって、漢字はどんな字?」
あー。マジでウゼー。
だけど俺は優しいから、ちゃんと教えてあげる。
「ありがとう、奥村くん! 本当に本当に感謝する!」
「アクエリ。アクエリおごって」
「アクエリ? アクエリでいいのね!」
「うん、のど乾いた」
彼女から渡された自販機から出てきたばかりのペットボトルは、まだひんやりと冷たくて、俺は彼女から初めてもらったプレゼントを、その場で開けてすぐに飲んだ。
「うれしい。本当にうれしい」
なんで名前を知っただけで、泣いたり出来るんだろう。
名前が分かったからって、意味なくね?
そう思う俺の喉を、ひんやりとした甘くて酸っぱい液体が流れて落ちてゆく。
「よかったねー! 春花!」
「うん」
そこからは一瞬だった。
部活中のトレーニングで、制服着たまま外周走らされている時、サッカー部に浦井先輩のいることが判明した。
女子マネージャーと仲良くしているのを見かけて、春花はまた泣いた。
「彼女いたらどうしようー。あの人すごい美人だよね。かわいいし私なんか絶対敵わないよー」
は? なんだそれ。
妄想で泣けるとか、意味不明過ぎる。
「大丈夫だって! まだそうと決まったわけじゃないから!」
「絶対にそうー。だってお似合いだもん、あの二人―」
「……。あのさぁ、サッカー部って、女子マネとの恋愛は禁止らしいよ」
いつまでも目の前で泣かれるのはウザいから、俺は自分の知っている範囲で答えてあげる。
「え! 本当に!」
「うん。同じクラスの浜地と秋本がサッカー部だから、そう言ってた」
それを聞いた瞬間、春花は昼休みの教室を振り返った。
「浜地くーん! 秋本くーん!」
しまった。
余計なことを言ってしまった。
二人は浜地と秋本にまとわりついて、ずっと盛り上がっている。
これから始まる夏休みの、サッカー部の練習予定を聞き出したとかで、吹部と重なる日を数えていた。
なんだそれ。
ストーカーかよ。
クソウゼーだろ。
普通そんなことされたらよ。
信じらんねー。
マジか。
それが大体、一ヶ月前くらいの話だ。
小さな駅のロータリーに着いて、バス通学の知菜と別れる。
俺は改札をくぐると、駅のホームに上がった。
反対ホームのいつもの場所に、ちょこんと座って先輩を見送るために待機している春花を見る。
最初は、俺のことを見ているのかと思ったんだ。
先に音楽室を出て、待ち伏せしてるから。
手を振ったら、振り返してくれたりするじゃん?
春花の奴、俺ばっか見てんじゃねぇよって。
気にしすぎだろって。
なんでこっち見てんだよって。
だけどいつしか彼女の視線が、俺を追いかけているわけじゃないことに気づいた。
彼女が見ていたのは、俺よりちょっと背が低いくらいの、二年の先輩だった。
それが駅前の王子でウライさんだったなんて、思いもしないじゃないか。
なんだよ。
好きな人が出来たとか。
なんだよ、全く。
ふざけんなって。
18時12分の電車がホームに流れ込む。
この時間にはいつもホームに来ているはずのウライさんが、今日は姿を見せない。
アレ?
さっき校門ですれ違ったよな?
ウライさん、どうかした?
なにかがおかしい。
俺は微妙な違和感を抱きつつも、いつもの電車に乗り込んだ。