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第1話

 放課後の音楽室に、金管楽器の音色が響く。

フルートの銀色に光る胴部管と指運びに視線を向けているふりをしながら、意識は違う方向を向いていた。

遠くから見ているだけの景色に、胸の奥が苦しくなる。

唇から伝わる振動がどこまでも広がって、あの人の耳にも届けばいいのに。


「集合―! 片付け終わったら、一旦集まってー」


 背後から聞こえたその声に、私は銀の筒から唇を離した。

校舎三階の音楽室から見下ろす校庭では、ホイッスルと共に集められたサッカー部員たちが、同じように片付けを始めている。


「春花。早くしないと、また注意されちゃうよ」

「うん」


 開け放していた窓に背を向けると、楽器を分解し中の水分を拭き取る。

私は壁に掛けられた時計を見上げた。

17時42分。

学校の完全下校時刻は18時と決められている。

それまでに校門から外に出ていないと、部活動禁止にまで追い込まれてしまうから、誰もが必死だ。

フルートをケースにしまってから、窓を閉めるという口実で、もう一度校庭をのぞき見る。

サッカー部員たちはいつものように、体育館脇に立てられたブレハブの部室棟へ移動していた。


「お疲れさまでしたー!」

「はーい。お疲れー」


 完全下校十分前を知らせる予鈴が鳴る。

その頃にはもう、私は一人校門の外へ出ていた。


「春花―! またねー」

「うん。また明日」


 同じ部活の一年生、知菜に手を振って別れを告げる。

私は真っ直ぐに顔を上げると、肩までの髪をなびかせ、駅へ向かってずんずんと脇目も振らず行進を始めた。


「よし。今日も完璧」


 学校の最寄り駅まで、歩いて八分。

その道のりを進むにつれ、私の心音は徐々に高まってゆく。

秋風の吹き始めた放課後の夕暮れ、赤く照らされる小さな駅舎の改札をくぐってからが、私の一日のクライマックスだ。

ホームへ続く階段を緊張しながら上ると、いつもの定位置であるベンチに腰を下ろす。

よかった。

今日は空いてた。


 五つの座席が連結したベンチの、左から二番目に座る。

そこが私のベストポジション。

この時間にこの場所を確保するためだけに、私は毎日学校へ通っている。

電車の到着を知らせるアナウンスが開け放された線路の上空に響き、一本、また一本とやって来る電車を見送る。

時刻表の時計が、「18:08」になっていた。

あの人が反対ホームに現れるのはもうすぐ。




 その人は同じ学校の一つ上の先輩。

五月の連休が明けた梅雨入り前の蒸し暑い時期、帰宅していた私が、知らないおじさんに絡まれていたところを助けてくれた。

スーツを着たサラリーマンっぽいその人は、ワケの分からないことを大声でわめきながら、ずっと私の後をついてきていた。

怖くて言い返すことも出来なくて、早く人の多い所へ行きたくて、駅の構内へ滑り込んだ。

改札を通っても、ついて来られたらどうしよう。

そのまま電車に乗り込まれたら、逃げ場がない。

周囲に沢山の人がいるのに、私が困っていることに誰も気づいてくれない。


 改札口の手前で、同じ制服の男子の集団を見かけた。

ネクタイの色が一つ上の学年だ。

出来ればここで、おじさんには諦めてもらいたい。

ものすごく心細くて不安で怖くって、同じ制服ってだけで、私はそこに近づいた。


「どうした?」


 全く知らないはずなのに、その人は私の異変に気づいてくれた。


「あ、あの。すみません。たすけ……」

「おじさん、この子の知り合い?」


 その先輩が声を張り上げると、おじさんはブツブツ言いながら素通りして行ってしまった。


「あ……。すみません。ありがとうございました」


 その時は二、三人の先輩同士がグループになっていて、彼らはすぐに何事もなかったように雑談を続けた。


「なんだ、アレ。きっしょ」

「最悪だよなー」

「ヤバいって」


 男の先輩同士で顔を合わせ、助けてくれた私とは視線も合わせない。

知らない一年の女子なんて、扱いとしてはこんなもんなのだろう。

それでも私は、本当に救われた気分だった。


「あ、ありがとうございました!」


 もう一度お礼を言って頭を下げると、改札を走り抜けた。

恥ずかしかった。変なおじさんに絡まれていたことも、自分じゃ対応すら出来なかったことも。

見知らぬ先輩に頼ってしまったことも、慰めてほしかったわけじゃないけど、無視されていることも。


 恐怖と恥ずかしさと惨めさと情けなさと、ドキドキする心臓と共にホームまでの階段を駆け上がった。

まだ気持ちは100%動揺しているのに、何でもないかのように装って電車を待つ列に並ぶ。

その反対車線に、助けてくれた先輩たちの姿が少し遅れて現れた。

よかった。

違う方向の人たちで。

私は自分に声をかけてくれた先輩の顔を、そこで覚えた。

癖のある明るい髪色に、日に焼けた肌。

筋肉質な体つきなのは、サッカー部だからということは、すぐに分かった。




 数日間に及ぶ張り込みを続けた結果、体操服に刺繍された名前から「浦井」さんなのは分かった。

「うらいー」とか「みのるは?」って呼ばれてるから、下の名前は「みのる」なんだと思う。

しゃべったのは改札前で助けられた、その時のたった一回だけ。

それきり。

私には自分から話しかける勇気はないから、ここで彼が反対車線のホームに現れるのを、毎日見送る。

ありがとうって気持ちと、大好きですって気持ちと共に。


 時計が「18:11」になった。浦井先輩はいつも18時12分の電車に乗って、私とは正反対の方向へ帰る。

彼が反対車線のホームに現れるのはもうすぐ。

早く来ないかな。

さっきまで部活してたのは知ってるから、もうすぐここにやってくる。

今日もかっこよかったな。

お友達とも楽しそうにしてた。

いつかまた話してみたいな。

なんて声かけていいのか分からないけど。


 浦井先輩に気づいてもらえなくてもいいから、ただ見ているのを許してほしい。

これ以上は望みません。

彼女がいてもいいです。

私が勝手に先輩のことを好きなだけなので、ここで見送ることだけはさせてください。


 夕暮れに沈む駅のベンチに座ったまま、私は今日もその時を待つ。



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