明日に繋がる夜
”母が死んだ”
冬の寒い夜に、付き合いの長い友人である南島深咲から一言のメッセ―ジが届いた。返す言葉を良く、考えた。早く、と思う心を抑えて俺は考えた。けれど、何が正解かもわからず、”いまどこ”と返した。
”家”
”いま、行っても良いかな”
”うん”
俺はいつもの帰りの電車を降りて、元いた方へと走る電車に乗り換えた。混雑する電車内でスマホを見る。あの後にはメッセージは来ていなかった。
南島の家の最寄り駅で電車を降り、近くのコンビニで何か買って行くべきか少し考えた。しかし、気持ちが急いて何も買わずに、一度行っただけの南島の家への道を俺は早足で歩いた。吐く息が白かった。
十分程で俺は南島の家の下まで着いた。インターホンを鳴らすと、マンションのオートロックが開いた。何も言葉がなかったことに無性に心が焦る。俺はエレベーターに乗り、十の階を押した。
南島の家の扉の前に立つと、俺は自分でも知らない内にどくどくと心臓が打っていることに気が付いた。それと気が付くと同時くらいに扉横のインターホンを押す。ややあって扉がぎいと開き、南島が顔を出した。そして、何故か笑顔で笑って言った。
「こんばんは」と。
つられるようにして俺も「こんばんは」と返す。「上がって」と南島が言う。俺が返事をして扉を閉める。
「鍵は?」
「かけておいて」
「うん」
かちゃ、と冷えた音が一つ響いた。
廊下を歩く南島の足は裸足だった。ぺたぺた、と何処か頼り無い音が響く。
「手、洗って来る」
「うん」
冷たい、水。そう、俺は静かに思った。
部屋に入ると、少し弱めの照明が点けられた空間で南島はぼんやりとしていた。
「あ、お茶……」
そう言って南島の目が少し泳ぎ、キッチンの上で留まった。
「いや、良いよ」
「ううん、私、飲みたいから。敷島は何、飲む?」
「南島は紅茶だろ? 俺も同じやつ」
「うん」
かちゃ、と南島がマグカップを二つ取り出して並べる。紅茶の入っている箱を開けて、ティーバッグを二つ取り出し、マグカップに入れる。保温ポットのお湯を注ぐ。湯気が二つ、昇った。俺は南島の一連の動作を見るとはなしに見ていた。否、見ていたかったのかもしれない。
マグカップに蓋をしたものを南島が二つ、テーブルに持って来た。そのまま、椅子に座る。俺も倣うように座った。俺の前に置かれた白いマグカップに片手を添えると、その熱が俺の手を温めた。暖房は入っていないのか、部屋は冷え切っていた。
こん、と南島がテーブルの上に置かれていた小さな砂時計を引っ繰り返した。以前に一度来た時、こうして南島は紅茶の抽出時間を計っていた。俺は砂時計の青い砂がさらさらと落ちて行くのを眺めた。途中で南島を見ると、南島も俺と同じように落ちて行く砂を見ていた。だが、その目は何処か遠くを見ているように俺には映った。
砂時計の砂が全て落ち切った時、南島はマグカップの蓋を開けた。俺も開ける。先程と同じように立ち昇る、二つの湯気。その湯気の行く道を辿るように、ふと南島が顔を上げた。ぼんやりとした、両目。俺は言葉を考えた。
「……大丈夫か」
考えた末に出した言葉だったが、すぐに「大丈夫なわけがない」と自分の頭の中で否定を返す。すぐに次の言葉を言おうと考え始めた時、南島がぼうっとした様子で言った。
「本当はもっと早くと思ってたんだよね」
「もっと早く?」
「うん」
「もっと早く……私と母は断絶されたものだと思ってた」
南島はマグカップを包み込むように両手で持ち、少し自分の元に寄せた。
「敷島には、昔に話したよね。あの時も、こうやって紅茶飲んでさ」
「ああ」
「あれが十年前だよね。私、二十五だったもん」
「そうだな」
南島はゆっくりとマグカップを持ち上げ、紅茶を飲んだ。俺も一口、紅茶を飲む。柑橘系の香りがしていたから、きっとアールグレイだろう。俺がマグカップをテーブルに置くと、思ったよりも大きなごとという音が部屋に響いた。
「自分の話、して良い?」
「ああ」
南島は少しだけ笑った。玄関前で見せた笑顔のように。
「私はさ、もう母のことは諦めていたの。会話を。交流を。人間同士じゃないって思うようにしていた。このマンションの住所だって、母には言っていない。それが心の安寧に繋がるから。正解だから。私は、正しい。そう思ってた。それが世間一般で言う、薄情とか、不仲とかなのかもしれないとも思ってた。でも、もうそういうものには私は左右されない。私は此処で一人で暮らして行く。母がいつか、死んでも。あの時、そういう話をしたよね」
「したな」
「あの時に思っていたことは本当のことで、それは今も変わらない。でも、親戚から母が死んだって連絡が来て。私は家にいたんだけど、電気も点けていたんだけど、頭の上から足の先へ黒い幕が下りたみたいになったんだよね。真っ暗、みたいな」
「うん」
「それで、あれ? って。電話が終わった後、徐々に幕は消えたんだけど。私が家にいるっていう事実も当たり前に変わらないし、そう、私は何も変わらないしって思った。でも、持っていたスマホで敷島にメッセージを書いてて。その後、なんで? って思って。そのなんでが、何に対してなのかも自分でも分からなくて。母が死んだことに対してなのか、黒い幕に対してなのか、敷島にメッセージを書いたことに対してなのか。あるいは、全部なのか……分からなくて。敷島が来るまで考えていたんだけど、良く分からなかった」
其処まで話して、南島は紅茶を飲み、ふっと息を吐いた。マグカップを包むように持ったまま、南島は続けた。
「私と母は、もっと早くに断絶されたものと思ってた。私が成人する頃くらいから。この人は親かもしれない、でも、私はもう関わりたくない。そう思って、仕事を決めて貯金が少し出来た時に家を出た。これでもう、深夜の大音量の音楽とか、理不尽な怒鳴り声とか、お金の無心に遭わなくて済む。それだけで安らいだ。そこから一切、連絡は取ってない。親戚が時々、母の近況を私に教えてくれた。親戚も、母が変わった人だと分かってくれていた。私は仕事を続けて、小さなアパートからこのマンションに引っ越して。前よりも静かな環境で私は私のことを考えられるようになった。さびしくはなかったと思う。友達がいた。敷島がいてくれた。親戚もいる。仕事してお金さえ稼ぎ続ければ、私はこの生活を続けて行ける。それが幸せだと……そう思ってた」
南島は言葉を切り、再び紅茶を飲んだ。南島がマグカップを置くと、先程の俺と同じように思ったよりも大きい音がしんとした部屋に響いた。マグカップの中身を見つめながら、搾り出すように南島は言った。
「なんでかな……母がもうこの世にいないってことが、良く分からない」
マグカップから手を離し、南島はテーブルの上で両手をぎゅっと握った。そして、もう一度、言った。「良く分からない」と。
俺は紅茶の湯気越しに南島を見ながら、言葉を考えた。しかし、何を言っても間違いのような気がしてしまう。心が、急く。ただ俺は、俯いて両手を握っている南島の姿を見ていると、心がどうしようもなく潰されそうになるのを感じていた。
「良く分からなくても……良いと思う」
俺が言った言葉に、緩やかに南島が顔を上げた。目が合う。
「十年前と今と、俺は南島の思いを聞いて知っている。長く一緒にいて、南島が優しい人間だということも知っている。俺が知っている部分なんて一部分で、もっと南島の中には色々なものがあると思うけれど。その南島が、母親に対して思う気持ちっていうのは俺が計り知れない複雑なものだと思う。つらい気持ちも、断絶したという思いも間違いじゃない。割り切れない気持ちも嘘じゃない。良く分からなくても良い。俺はただ、今の南島自身を大事にしてほしいと思う。ありきたりな、言葉かもしれないけど。俺は、南島を失いたくないから」
俺は考えながら言葉を話した。少し、怖かった。今の南島に何を言うべきか、言っても良いのか、それこそ分からなかったからだ。けれど、冷えた部屋の空気が俺に警鐘を鳴らす。今にも消えてしまいそうな南島に、此処にいてほしいと伝えなければと。
「南島さえ良ければ、この連休、一緒に過ごさないか」
「え、連休?」
僅かに南島の声に光のようなものが灯った。
「明日から三連休だよ」
「そっか、三連休か……会社に電話しなくちゃって思ってた。一通りのことは親戚がやってくれて。あとは遺品整理があるけど」
「うん」
「遺品整理も、行くかまだ分からないけど。親戚から連絡は来ると思う」
「うん」
「三連休か……」
ぼんやりと、南島は言った。冷め始めたのだろう、紅茶の湯気が弱くなっている。南島は紅茶を飲み、俺も紅茶を飲んだ。
「これ、アールグレイ?」
「うん、好きなの。香り」
俺の尋ねたことに答えて、南島は緩く笑った。
「無理しなくても良いからさ」
「うん?」
「時々、笑うから。笑っても、良いんだけど。無理しないでほしいんだ。俺の前で」
「……いつもみたく、敷島と話す時みたくいられたらと思って笑ってたんだ」
「そうか」
「うん。でもさ、本当はさ」
言葉が終わるよりも早く、南島の目から涙がぼろぼろと落ちた。
「分からない。良く、分からない。母のこと、私のこと。ずっとずっと心の片隅にあった。これで良いのかな、話し合いとか出来ないのかなって。でも、怖かった。もうあの人に向き合うのは怖かった。否定されるのが怖かった。愛してないと思われるのが怖かった。だったら私はもう良かった。もう、これで良いんだと」
俺は立ち上がり、南島を抱き締めた。何か。何か言いたい。南島に何かを。そう思うのに、俺は言葉が出て来なかった。俺の手に南島の体の震えが伝わって来る。いつも明るくて、優しくて、前を見ている南島が泣いている。俺にはそれをどうしてやることも出来ないのだろうか。
泣きながら南島は俺にしがみ付いた。俺は、更に南島を抱き締める。俺に出来ることは、それしかなかった。
――少しして、南島が顔を上げた。ぼうっとした顔で俺を見て、ごめん、と言った。気にしないで良いと俺が言うと、思い出したように、三連休、と南島が呟いた。
「三連休、一緒にいたい」
「うん。一緒に過ごそう」
「ありがとう」
「いや。俺の家に来ても良いし、此処で過ごしても良いし」
「此処にいたい」
「分かった。細かいことは明日、考えよう」
俺の言葉に南島は頷き、明日か、と誰にともなく言うように言った。
「冷蔵庫にあまり食べ物ないからスーパーとか行きたい、明日」
「うん、行こう。俺は料理得意じゃないけど、簡単なものなら作れるよ」
「敷島の作るごはん、食べたい」
「一緒に作るか」
「そうだね」
「うん」
南島が立ち上がろうとしたので、俺は体を離した。二人で残っていた紅茶を一息に飲み干す。お互いにテーブルの上にマグカップを置くと、二つ分の音が響いた。
「部屋、寒いかなあ」
「良いよ。暖房、嫌いなんだろ」
「うん、眠くなっちゃうからね」
「そうだったな」
ごしごしと南島が両目をこすって、うん、と言った。そして、不意に俺を見て少しだけ笑った。
「ありがとう、敷島」
「なんてことないよ」
――明日、南島が眠る前に教えてくれた「チャイ」という飲み物を一緒に作ることになった。シナモンなどのスパイスを入れて作る、煮出し式のミルクティーらしい。全部、煮込んでやる。そう南島は言って、俺におやすみと笑った。おやすみ。俺が返すと、明日ねと南島は付け足した。うん、と俺が言うと安心したように南島は布団を引き寄せた。
南島の思いを全て分かることは出来ない。ただ、南島が俺にメッセージを書いてくれて良かったと思う。俺に出来ることなど、本当にないのかもしれない。それを思いつつも、俺はずっと探して行く。出来る限り、南島の傍で。そう思い、俺も布団を引き寄せた。明日を迎える為に。