第3話 分の悪い賭け
こうして修一は勧誘を受け入れ、異世界行きを決めたのだった。
そして今、真っ白い空間で女神と向き合っている。
女神の背後には、木製の重厚そうな雰囲気を持つ巨大な両開きの扉のみが存在していた。
自らの恰好を見ると、スーツを着たまま、足元は革靴のままだった。通勤カバンは、あの契約書にサインをする際に邪魔で廊下に放り投げてしまったせいで持っていない。スマホをカバンの中に入れっぱなしにしていたのは致命的だった、と彼は後悔した。
「さて、そなたに残された道は二つ。元の世界に戻るか、加護を受けずに彼の地へ向かうか、どちらかです。特別に、そなたに選択権を与えましょう」
女神は修一を見つめ、返答を待っている。その金色の瞳から、慈悲の欠片を見つけることは出来なかった。
二択を迫られた修一だったが、今更ブラック労働下の人生に舞い戻りたくはないし、かと言って自分が能力なしで異世界でやっていけるとは、到底思えない。
なんとか打開策を見つけなければ、彼に待っているのは悲惨な未来しかないだろう。
修一は、賭けに出た。
「元の世界には、戻りたくありません。このまま、新たな世界に向かおうと思います。ですが、その、元居た世界からひとつだけで良いので、持っていきたいものがあるのです」
「余計な物品の消失は、元居た世界の均衡が乱れる原因となります。今、着用している衣服以外は許可していません」
「加護を頂けないのであれば、その代わりとして、どうかお願いいたします」
修一は、食い下がる。
「先ほどといい、ヒトの身でありながら神と交渉事とは、蛮勇な。強制送還を――」
「これは、監督不行き届きなのではありませんか?」
苦し紛れに放った一言は、女神の言葉を途切れさせるのに十分な威力を持っていた。
しかし、修一の身に感じる圧倒的畏怖の感情は途端に重みを増した。耳鳴りも始まっている。呼吸は乱れ、膝は情けないことに震えて止まらない。肌着はおろか、ワイシャツまで汗で濡れて背中に張り付いていた。
死の気配をこんなにも身近に感じたことは、修一の二十八年間の人生で初めてのことであった。自らの重心が下へ下へと引っ張られるような恐怖を必死に振り払いつつ、後に引けなくなった修一は一気に捲し立てる。相手は神にも関わらず。
「私はコーディネーターより、『特殊能力を授けてもらい、異世界へ行かないか』と口頭にて勧誘を受けています。また、契約書と思しき羊皮紙に、イレギュラーがあった場合、能力なしで異世界へ向かう旨を承諾しなければならないとは、書いていなかったはずです。もし仮に記載があったとしても、地球上の言語で書かれていないものを使用するならば、口頭での説明を必ず行うのが誠実ではありませんか? それに彼女は『嘘が吐けない』と明言し、私はそれを信じたわけですが、これ自体が虚偽だった場合……このような甘言をお許しになるのですか?」
修一の主張は、契約書に記載があったかどうか、それか妖精が不誠実な契約行為を行ったかどうか、という二つの疑義を柱に構成されていたが、これには粗があった。
そもそも、あの妖精と女神との間に明確な主従関係が存在し、かつ妖精の行いに女神は責任を持つ、という修一の推察を前提条件に成り立っているのである。
主従関係が存在しない場合、女神相手に何かを要求しても筋が通らないだろう。
『コーディネーター』を名乗った妖精が『人材の争奪戦』と表現し、契約書にサインを取ったこと。転送際に投げてよこした『まいどあり』の台詞。女神の『商談中』という発言。おそらく女神を頂点とした人材派遣のような組織構造なのではないかと、修一はあたりをつけたからこそであった。
しかしながら、はたして従者の行いに、この神が責任を持つのかどうかの点については判断材料がない。
大いなる存在であれば許しはしないだろう、という希望的観測に過ぎない。
同じく契約書の言語は地球には存在しないものである、という補足的主張も憶測だった。
前提条件が成り立つとして、契約書に記載がなければ、不備を指摘すれば良い。記載があった場合、妖精の不誠実な行いで勝負する。
そして妖精が嘘をつけた場合、それこそ美辞麗句を連ねた勧誘手法を非難すれば良い。修一が予想しているのは、ここであった。
一方で、妖精が本当に嘘がつけなかったとすると、より運の要素に頼るしかない厳しい道となる。妖精は、契約書の内容全てを読み上げなかっただけで、嘘をついたわけではないのだ。強制したわけでもなく、実際にサインを行ったのは修一の意志だ。自身の瑕疵を、それこそ一方的に指摘されてはおしまいだ。
修一が助かるには、妖精が本来すべき説明を省いた、という更なる綱渡りをするしかなかった。
妖精は『適合者はなかなか見つからない』と発言しつつ、修一の転送後すぐに別の契約対象の元に向かっている。
都合の良い考え方をすれば、妖精が時間を惜しんで手順を省略した可能性が、まだ残っている。
が、しかし、結局のところ、不誠実な行為に値するかどうかは、女神の判断次第となる。
しかもその後、異世界への持ち込み許可を得る交渉を成功させねば、目的達成とはならないのだ。
捨て身の攻撃をするしかなかった結果とはいえ、余りにも分の悪い賭けとなっていた。