08.清末パンダ発見伝
竹の話なので、話の締めとしてパンダに食べさせて終いにする。
パンダにはレッサーパンダとジャイアントパンダがいて前者はアライグマに近く、後者は熊と同じだが、どちらも竹を食べる。レッサーパンダの方は特に筍や葉を食べるが、ジャイアントパンダは竹幹もバリバリと食べる。
生息域も異なり、レッサーパンダの生息地は中国からネパールやブータン、インドの方にも広がるが、ジャイアントパンダは中国の四川・陝西・甘粛の高地にしか生息していない。
ここでは後者のジャイアントパンダを対象とし、以降はパンダと表記する。
成体のパンダは身長1.7mから1.8m前後、体重は80kgから130kg。体毛は白と黒で、目の周りと耳、手足、胸元から肩回りにかけて黒い。鼻も黒いが体毛ではない。体毛の形状には多少の個体差がある。
寿命は20歳程度だが、飼育下では25歳から35歳程度まで生きる。
食事は9割9分が竹。1日に40kg程度を食べる。竹にも色々と種類はあるが、特定の種類だけを食べるというわけではない。野生ではそれ以外に小動物や昆虫を食べることもあり、飼育下では果物や穀類も与える。食の好みには個体差がある。
一日に8~12時間程度活動するが、その半分程度を食事に充てて、後は散歩する。犬猫と同じでまとまった時間寝るということはない。
5歳頃から妊娠可能になる。発情期は春、出産するのは秋で、産むのは1,2頭だが、1頭だけを2~3年子育てする。生まれたときは100~200g程度で桃色のネズミのような見た目なのは哺乳類の赤子あるいは胎児に共通する。
野生では群れを作らず孤立して暮らすが、飼育下では恐らく効率性のためか幼少期に限って群れで飼育する。
パンダが他のクマ科から分岐したのは中新世で、一説にはヨーロッパで出現したとされる。
また現パンダの祖先と推定されるアイルラルクトスと呼ばれる種の化石の発見地はビルマ北東部から中国の江南ほぼ全域および湖北・陝西に及んでいる。歯の形状から当時はまだ雑食だったとされるが、パンダの近縁種Ailuropoda micrtaの歯の形状から200万年前までには竹食に移行した可能性がある。
古代パンダの生息域は更新世末期に著しく減少したが、まだ湖北や湖南、雲南の山岳部にも生息していた。稀に四川で見つかるパンダの骨は古代の人々が食用にしたことを示す可能性も示唆されている。とはいえ先史の四川つまり古蜀については分からないことが多い。
現地の人々には古来から知られていた可能性がある。いくつか候補にあるうち二つの名称について確認する。
例えば、爾雅の郭璞注にある獏(白豹)がパンダに該当するという説はある。
ここには「釋曰く、獏、一名を白豹という。字林曰く、熊に似ていて、蜀郡に出ずる。郭璞曰く熊なり。頭は小さく足短し。黒白の斑があり、銅鉄及び竹骨を食べることが出来る。骨節は硬く動かず、内側は髄少なし。肌は乾いている。あるいは豹の白色の別名を獏という」とある。
また陸機の毛詩にある貔は「爾雅に曰く、白狐なり。郭璞注釈す、別名は執夷で、虎豹の一種なり。邢疏大雅に曰く、その貔の皮を献ず。陸機の注釈するところ、貔は虎に似ている、或いは熊に似ているといい、別名を執夷、白狐といい、遼東の人はこれを白熊という」とある。白熊は確かにパンダの旧称とされているが遼東はいささか遠い。
他にも文献上は多くの例はあるが、基本的に決定的なものは無い。
パンダの生息域は江南が開発されるに順って減少し、清朝の移民政策により壊滅的になったという。
明確にパンダと言えるものは1869年、パンダはフランス人アルマン・ダヴィドによって宝興県の山奥で発見された。その探検記や伝記は公開されているが長いので略す。
彼が中国に赴いた経緯はwikiにある。1865年には警備兵に賄賂を贈って皇帝の庭園からシフゾウ3頭を盗み出し標本にしたという。1866年には第一回目の中国探検を行い、モンゴルを彷徨った。
二回目の旅行はチベットを目指したが、ウイグルで反乱が起きていた為、四川経由でチベットに入ることになった。
1868年5月26日に北京を出発したダヴィドは助手のワン・トマスや中国人ガイドと共に船で天津に向かい、それから上海、南京、九江、寧波を巡った。ワンの病気や天候の問題などで江東に長く滞在した。10月13日、ダヴィドは四川へと出発し、15日には武漢、29日には沙市に着いた。12月17日に重慶に到着。四川への水路は険しくて日数がかかった。中国人はキリスト教を嫌っていた為、屋根付きの椅子で外出しなければならなかった。
12月27日、ダヴィドはワンや6人の運搬役と共に徒歩で成都を目指した。運搬役の半分はダヴィドの椅子を運び、もう半分は荷物を担いだり手押し車で押した。
成都では四川西北部における使徒座代理区のパンション司教と出会い、穆坪に白罴(羆)(※つまり白いヒグマ)がいることを知らされる。1月中は成都周辺で探検を行った。1869年2月22日、成都の南西にある穆坪に向けて出発し、28日に到着。ここには1839年建立の天主堂があった。
3月11日の午後、近隣で最も高い紅山への遠足の後で一休みしているダヴィドは、地元の李氏に茶を誘われた。そのときダヴィドは李氏の部屋の壁に白黒の毛皮を見つけた。
3月23日、地元の猟師が幼いパンダの遺体を持ってきた。捕獲はしたが、運ぶのが困難で殺してしまったという。ダヴィドは高値でその遺体を買い取った。
4月1日には猟師がまたパンダを連れて来た。今度は生きたままだったが、餌のやり方がまずく死んでしまった。
8月末、ダヴィドは病気になった。10月にパリ博物館にパンダの標本を送った後、11月には探検を終了して北京への帰路に就いた。
ちょうど普仏戦争が起こり、フランスに帰国できたのは1871年6月だった。標本2体はパリ博物館に今も残っている。(※1888年のダヴィドによるパンダの報告書では4体の標本を贈ったと書いてある。伝記に無いので誤認だろう。彼はパンダ以外にも膨大な数の貴重な標本を送っている)
北京動物園はかつて楽善園と呼ばれていた。ここは明代から皇帝の庭園だった。清代にも利用され続けたが、乾隆帝末期には荒廃した。清末には農業試験場と動物園が併設され、1906年に一般開放された。清史紀事本末によれば日本から様々な珍しい鳥や動物が連れて来られたという。後、名称は1906年に萬牲園に代り、民国時代に西部公園と改称される。
パンダが初めて北京動物園に来たのはちょうどその名に改称された1955年のことである。
大衆に公開されたのはもう少し早かったようだ。
確認すると、1933年より上海博物館にパンダの剥製が展示されていた。(L Tai,The Shanghai Museum and the introduction of taxidermy and habitat dioramas into China 1874–1952,2021)
また一説には1939年、重慶の北砺博物館でパンダの剥製が展示された時、国際的な表記に基づいて猫熊という呼称を掲示したが、人々が右から左に文字を読んでいたために熊猫になったという。こちらは確認できていない。
30年代から40年代にかけてはどちらの表記もあって安定しない。
国立国会デジタルコレクションの1935年の雑誌に熊猫と称してレッサーパンダの学名が載っているが、1944年の支那哺乳動物誌にはパンダ(猫熊)と書き、ジャイアントパンダをオホパンダとしている。
1949年に上海の出版社の出した中國動物生活図説にはパンダの写真と共に現代と同様それぞれ大熊猫、小熊猫という。
パンダは発見されて以来、狩猟の対象になっていた。例えばシカゴフィールド自然史博物館の二頭のパンダの剥製は1929年にセオドア・ルーズベルトJr.を含む探検隊が得たもので、1931年に展示された(FMNH 31129)。
しかし1932年の狩猟禁止法を経て、1936年にハークネス夫人が幼いパンダの生け捕りに成功すると、あらゆるメディアが愛らしさを宣伝し、狩猟対象から除外された。
1937年にはその幼いパンダが2万ドル(※現在の40万ドル)で売られてブルックフィールド動物園で公開され、パンダの生け捕りブームが起きた。
1938年、ハークネス夫人は再びパンダ捕らえ、同公園で公開された。同年、アメリカ人探検家タンジェール・スミスが6頭のパンダを捕獲し、イングランドに輸出した。イングランドでは旅を生き残った3頭(※成体2頭に幼獣1頭)がロンドン動物園に展示され、当時12歳のエリザベス女王も会いに行ったという。この年からぬいぐるみのような子供用の玩具も作られるようになった。
1939年にはパンダを捕らえることが禁止された。それまでに合計11頭が国外に売られたという。1940年にはアニメが作られた。
1941年には宋姉妹がアメリカの支援団体への謝意としてパンダを贈り、パンダ外交の先駆けとなった。1946年にはイギリスにも贈られた。先のイングランドのパンダ3頭は戦中に全て死んでいた。その後もイギリスでは何度か贈られたが繁殖には全て失敗した。今は唯一エディンバラ公園にいる。
日本では、1972年にパンダ外交の一環としてランランとカンカンが上野動物園に来た。
1984年には高額なレンタル制度に切り替わったが、各国で人気があったためレンタルは度々行われた。