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07.メンマの誕生

 筍は少なくとも文献上は後漢の頃には食べられていた。

 後漢の馬援は交趾遠征にて冬の筍を見て「冬筍は橘や柚に勝るという禹貢の言葉を疑っていたが、それは春や夏の筍より美味である」と言った。当時の冬は旧暦の10月から12月までで、この時期の孟宗竹の筍は土に潜っているので掘り起こして調理するのだが、中国では最も美味な筍とされる。

 廣志によれば、三国魏の漢中太守王図は毎年、蜀の冬筍を献上していた。

 また晋代の孟宗の母親が筍料理を好んだ逸話が良く知られたために孟宗竹という名が定着したことは有名であるが、これも冬の筍のことを言っている。

 一方、南都賦で「春は卵、夏は筍」と言うように夏の筍もあるが、こちらは夏場に筍が採れる緑竹などを示す。


 この頃の筍料理として、斉民要術に引く詩義疏において「淡竹や苦竹(真竹)は蒸したり、煮たり、直火で焼いたり、酢漬けにする」ことを薦める。他にも同じく引用される食經には「淡竹は果肉を5,6寸採り、塩もみして一晩おく。その後、取り出して塩を除ける。一斗の糜粥で煮てから、五升分けて、一升の塩と混ぜる。粥を熱してから冷まし、筍は塩粥に一日置く。これを拭いて、淡粥の中に5日で、食べられる」という。

 そのほか食療本草には食べ過ぎると良くないとか、チョウザメや砂糖との喰い合わせが良くないとある。また竹の葉や根っこ、樹液は薬用としてときどき採用された。筍の食べ過ぎで下痢になる話は知られている。


 呉の陸雲の笑林において『漢人が呉で筍を調理している人を見て「これは何か」と問うと、呉の人は「竹である」と答えた。漢人は帰ってから竹で出来た床の簀を煮るが筍にはならず、漢人は「ああ、呉の人に欺かれた」と嘆いた』という笑い話がある。

 前述のように中原にある竹園は元来は竹矢製造の場所で、竹細工や竹簡、そして食用の筍を生産していた。周礼や詩経では朝の祭祀に出す食事の一つに筍の酢漬けを挙げるが、竹園は基本的に官営であり、民間の筍食は竹の自生する江南を中心に展開した。



 隋唐の頃には竹の庭園文化の普及により、官僚や文人たちの筍食が盛んになる。

 唐の太宗は筍が大好きだった。長安にある官営の竹園に司竹監を置いて毎年筍を献上させただけでなく、宮中では新年の祝いに百官と共に筍料理を食し、更には自ら竹を世話することを好んだという。

 唐代の料理関係書類において酉陽雜俎に「綠施筍」が見えるが、レシピは確認できない。

 他には白居易が筍の詩の中で、春の筍は飯と共に炊く。毎日食すと肉のことも忘れる、と詠んでいる。白居易も前部分で触れたように竹のある庭園を所有していた。



 宋代の筍譜には、筍乾に会稽風(江東)の作り方と秦隴風(陝西)の作り方があることが記されている。

 会稽風は「多くの小さい筍を蒸した後、塩酢で炙って乾かす。およそ筍は蒸すべきであり、味が全うする。越の地方の竹乾は美味しい。」

 秦隴風は「細長い筍が出たのを使う。地元の人々は土塩を用い、吊るして乾かす。山東道では羹に浸すのがとても美味い。」という。


 今の中国ではこうした筍乾をラーメンに入れて食べる伝統は無いが、北宋の頃に江南で書かれた中饋録には茹でた小麦粉生地に干した筍を載せる水滑面方という料理がある。

 それは「大量の小麦粉を揉んで生地にし、一斤の重さの塊を数十個作る。水の中に入れて、麺の性質が十分生じるまで待つ。それから塊を取り出して、湯に入れて煮込む。塊は広くて薄い方が良い。ゴマ油、杏仁油、干した筍の塩辛、胡瓜の醬、ナスの糟漬け、生姜、ニラの漬物、胡瓜、焼いた肉を載せるのが特に良い。」という。

 他にも蒸して絞って作る筍鮓や、孟宗竹を煮て干して保存して使うときには米のとぎ汁で戻して塩湯で湯がく曬淡筍乾といった料理が見える。


 杭州を首都とした南宋の頃には、筍を使った様々な料理やレシピが書かれた。

 山家清供には筍を使う料理レシピが7品目あり、市井に見られる料理名を記した夢粱録には20品目以上の筍料理のリストがある。

 山家清供のレシピをいくつか挙げると「山海羹」は「春にみずみずしい筍や蕨を採り、これをお湯で煮る。新鮮な魚を取って、切って塊を作る。お湯を用いて包んで蒸し、油と醬と塩、そして研いだ胡椒を加えて混ぜ、小麦粉の皮を被せて、それぞれ二つの杯で蒸す。名前を蝦魚筍蕨羹といい、人の集まるところで出す。出自は異なるが内容は同じで、高杯を用いるものも良い。名前を山海羹あるいは羹、筍羹といい、これも良い」という。

 また筍蕨餛飩は「みずみずしい筍や蕨を採り、これをお湯に浸す。油で炒めて、酒と醬と香料を加え、餛飩(ワンタン)を作って提供する。」という。

 さらに夢粱録には肉料理に麺料理、筍ご飯、羹、饅頭菓子など様々なものが見える。また旧暦12月8日には寺社にて、麩、乳、果物、筍、芋を使った紅糟で粥を作って、僧に供したり施主に贈ったという話もある。

 他にも繁勝録には筍の市場があったことが記されている。


 当時、竹の根は筍鞭あるいは鞭筍と呼ばれていて、蘇東坡の弟子黄庭堅の山谷内集には孟宗竹の鞭筍を弱火で煮て麺入りのスープを作る詩がある。

 黄庭堅の「食筍」や蘇東坡の弟の蘇轍による「食筍」をはじめ、他にも筍を食べることを主題にした詩が幾つも書かれた。蘇東坡自身も黄庭堅の「食筍」の詩に唱和して詩を書いている。(※国訳漢文大成. 続 文学部第59冊p516)



 元代の筍料理は鮓、麺、羹が中心であり宋代からの連続性を示している。居家必用にある筍の調理法は詳細であるが、菓子類は無い。明代の宋氏養生部にも筍を用いた料理が多くあるが、こちらは様々な料理の盛り合わせによく用いられたように見える。


 清代の料理書には小麦粉生地に筍を載せるスープは無くなるが、代わりに玉蘭片や筍干という筍料理が登場する。玉蘭片は冬筍を干して作る湖南の名産品で、レシピは随園食単に見える。確認すると「冬筍を炙り、少々蜂蜜を足す。塩辛いのと甘いのがある」という。日本では九州で似たような干し筍が作られている。

 筍干は食憲鴻秘のレシピにあり「新鮮な筍から皮を剥いで2つに切る。大きなものは4つに切る。二寸の長さに切って塩揉みしてから乾燥させる。十五斤の重さのものから一斤作れる」という。また筍干の調理法として「塩多めの筍干を茹でて少々待つ、あるいはしない。いずれの場合も酒醸で漬けると味が良い。硬い筍干は豆腐漿に漬けると柔らかくなる。長く漬けるのが一番である。」という。

 また調鼎集を見ると、筍は肉や魚や野菜のスープにはよく付け合わせとして載せられていたようである。



 日本人も古代から筍を食べていたが江戸時代まで孟宗竹は一般的では無いので、麻竹の筍を食べていた。冬に土から顔を出す前が美味しい孟宗竹に対して、麻竹の筍は春から秋にかけて筍を生じる種で夏場が最盛期であり、日本では伝統的には麻竹でメンマを作る。

 ラーメンに入れるメンマ即ち支那竹の記録は大正時代辺りから確認できるが、うどんに筍を入れる例はそれ以前から確認できる。メンマと呼ばれるようになったのは戦後で、今では特に華南のメンマが使用されている。

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