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06.華やかな竹文化─唐と宋─

 唐両京城坊攷は長安の寺社や邸宅の庭園を記録する。

 前部分でも触れたが寺に竹が植えられていることは多かった。北魏では貴族が庭園を含む邸宅を寺に喜捨したために庭園の一部たる竹林も寺の所有になった。唐代にもその傾向は見られるが、多くの寺社は隋の頃に建てられたものを改称しているように見える。

 寺社内の竹林として有名な例は三蔵法師が経典を書いた大慈恩寺で「寺の南は黄渠に臨み、水際の竹林は奥深く、京都で最上を為す」という。当初は隋の頃に建てられた寺で、それ以前は分からない。

 寺社だけでなく皇族や官吏たちの庭園にも竹が植えられた。大抵は「叢る」ほどであったり「幽邃(奥深い)」ほどに膨大な数が植えられた。


 一方、宋の頃に書かれた洛陽名園記には当時の洛陽の庭園の記述があるが、ここには唐代からある庭園も記述されている。

 宋の大字寺園は元々、唐代の代表的な竹愛好家の一人である詩人白居易の庭園であり「履道坊にあり、五畝の邸宅、十畝の庭園、池があり、千本の竹あり。今は張氏がその半分を得て会隱園と為す。水際の竹は尚も洛陽一である」という。

 白居易は竹についてもいくつか詩を書いたが、例えば「新栽竹」の詩には「佐邑(県尉)として意に適せず、門を閉じて秋草生ず。

何を以って野性を娛しむる、竹を種(植)えること百余り。この溪上の色を見て、山中の情を憶ひ得る。(以下略)」という。

 また「洗竹」の詩には「布裘は寒くして頸を擁し、氈履は温かくして足を承ける。獨り冰池の前に立ち、久しく看て霜竹を(きりおと)す。先ず老いて病むるを除き、次いで(ほそ)く曲がるを去る。翦葉(切り落とした葉)はなお憐れむ()し。琅玕(宝石※ここでは切った竹を示す)は十束あまり。青々にしてまた籊籊(長々)にして、頗る(おおよ)その草木と異なる。依然として有情の若く、頭を迴らせて僮僕に語る。小さき者は魚竿に截(切)り、大きな者は茅屋を編め。(ほうき)と箕を作る事勿れ、而して糞土の辱め()む」という。


 白居易の友人で、同じく洛陽に住んでいた裴度や元稹の庭園にも竹は多く植えられていた。裴度の庭園「湖園」には竹の小道があり、元稹は白居易の詩に呼応して「むかし公(白居易)は我の直ならんを憐れみ、これを秋の竹と比ぶる(以下略)」と詠んだ。


 詩聖杜甫の詩「苦竹」には「青冥としてまた自ら守り、軟弱として強いて扶持す。味苦く夏蟲は避け、叢は(ひく)くして春鳥は疑う。軒墀は曾つて重からず、翦伐はまた辭す無し。幸いにして幽人(隠者)の(いえ)近く、霜根は(いま)結在(むす)ぶ」と詠い、他には唐の二代目皇帝太宗や虞世南なども竹の詩を吟じた。


 竹好きの文士をもう一人挙げるならば王維である。彼は都から離れて輞川荘と言う荘園に隠棲した。その邸宅の一つを竹里館という。王維の「竹里館」の詩には「幽篁裡(竹椅子)に獨(独)り座し、弾琴復()た長嘯す。深林は人を知らず、明月来たりて相照らす」という。

 また荘園には斤竹嶺という地名があり、王維は「檀欒(竹茂)は空曲(高峰)を暎し、青翠(柳)は漣漪(さざ波)に漾う。暗に(ひそかに)商山路に入るを、樵人(きこり)知るべからず」と詠む。どちらも都の人々による竹の詩と異なり、郊外の竹林の幽玄な様が強調されている。

 山水画を得意とする王維は自身の荘園を輞川図として描いたが現物は遺されておらず後代に想像図が描かれたが、斤竹嶺の部分には竹の密生する絵がよく描かれている。


 唐の文人たちは自宅や寺の庭園で、あるいは山奥で竹を鑑賞して詩を吟じた。ときには前述の洗竹の詩のように加工品を作り、小舟に乗って釣りをした。筍を獲って食し、琴や竹笛の音に聴き入った。


 唐代にも唐朝名画録や歴代名画記に見られるようにいくつも竹の絵が描かれた。当時の絵画は山水画である。文献の記録からは韋偃や程脩己といった画家が竹の絵を描いたと言う。

 宋代にはさらに花鳥画が確立されたことによって、竹は更に華やかに描かれるようになる。この頃の著作物は多数現存している。

 例えば馬遠の踏歌図、著者不明の梅竹聚禽図、夏圭の雪堂客話図、梁楷の八高僧図、趙孟堅の歲寒三友図などがある。

 花鳥画には法常の鶴竹図、黄荃の雪竹文禽図がある。また蘇東坡や文同は竹のみを描いた墨竹図を描いた。



 政治的中心が士大夫に移ってもエリートの文化は継承された。古く贅沢な文化を維持できるのは基本的に富裕な者である。

 北宋代の庭園は前述の洛陽名園記に見られる。

 資治通鑑の作者として知られる司馬光の庭園「独楽園」は狭く小さかったというが、それでも池と山があり、一人で楽しむには十分であり、美しい竹を植えて暑を凌いだという。また彼は竹の詩もいくつか遺していて「種竹」という詩では「南牆の陰に竹を植(種)え、竹は皆北向きに生ず。苟は北にあり陽に非ざり、竹の性は安んぞ強いるべけんや。(以下略)」と詠んでいる。


 蘇東坡を代表とする宋の詩人たちも様々な竹の詩を書いた。

 例えば「移竹」の詩では「牆陰の竹は蒙密たり、板築は相妨げるを念ず。東園の缺るを補うを欲し、雨上がりの涼しきに欣ぶ。

三年で(あまね)く筍は生じ、一逕に風の長きを引く。(こと)に年老う翁いよいよ、竹枝の復た将に()ちるを恐れる」と詠み、「御史台竹」の詩では「今日南風が来たり、庭前の竹吹き乱れん。低昂は音会に中り、甲刃(竹の枝葉)(みだ)れて相觸る。蕭然風雪の意、折る可きも辱しむ可からず。風霽()れて竹すでに(もど)り、猗猗として青玉散す。故山今何か有る、秋雨籬菊荒れる。此君知る健なりや否や、歸りて南軒の綠を掃わん」と詠む。


 庭園の竹は花石綱と呼ばれる輸送船団によって江南から運ばれた。宋史張根伝によれば花石綱が漕舟をて独占して竹一本に50緡銭を費やして購入し、その多くが諸々の臣下の邸宅に送られたという。


 斉民必術ではわずか二種類の竹(苦竹、淡竹)についてしか触れていないが、北宋の仏僧贊寧は筍譜において数十種類の竹について説明している。ただ中国には第四部分で触れたように500種類以上の竹があり、現存の竹の品種に当て嵌めるのは困難である。


 南宋の庭園は呉興園林記に見られ、章良肱や趙氏の庭園の竹が評価されている。また北宋の蘇舜欽が江南に配流された後に築いた滄浪亭について竹窮まりなしと自評していたが、南宋の頃には章惇、韓世忠と持ち主が転々としていた。以降改修が行われつつも現存している蘇州最古の庭園とされている。


 清明上河図を始めとした庶民の姿を描く絵画には、彼らが様々な竹細工を用いていたことを知らせる。

商品を竹籠に入れて持ち運ぶ例は多く、背中に背負ったり、驢馬に抱えさせたり、天秤棒で運んだり、駕籠のようにして運んでいた。背に背負う竹籠は、日本国宝の玄奘三蔵図のものに近い。茶筅にも竹が使われた。また老学庵筆記によれば蜀では木炭の代わりに竹炭が用いられていたという。



 明の正字通によれば、宋代の宮中娯楽である宣和牌の牌は象牙で出来ていて牙牌と呼ばれていたが、その素材は銀や金でも作られていた。

清末には竹で作られることもあり、竹牌と呼ばれた。

 牌を使う娯楽の一つである麻雀のソウズが竹の茎のデザインになったのも清末であり、それまで銭さしの図柄だったという。一索も鳥ではなく、銭さし一個であり、数の分だけ銭さしの絵が増える。そうして金銭を示すピンズや貨幣単位であるマンズと共に賭博を象徴していたが、麻雀のデザインが簡略化される過程で竹に移り変わった。

 日本で麻雀が受け入れられるようになったのは100年前の1920年代で、1924年に最初のブームが起きたという。

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