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05.庭園の竹林

 竹の生物多様性についてのレポートは、中原における竹の栽培可能性を示している。自然には生えないが、人が管理することで庭園に竹林を作ることが出来た。

 生産用の竹林は前述のように商代からあり、例えば淇園の竹林は明代に園内の竹が著しく減少して廃止されるまで利用が続いた。

 こうした官営の竹園は基本的には黄河流域にある。


 例えば三国時代には魏に官営の竹園が見られる。淇園に官吏を置いていたほか、魏都賦李善注によれば曹操の拠点である鄴にある玄武苑にも竹園があったという。玄武苑はつまり赤壁の前に曹操が水軍を訓練した玄武池であり、同時期の著作である穆天子伝においては周の穆王が竹を植えたとしている。水経注によると、ここには魚梁や釣台、竹や木に叢があったが、今(※6世紀頃)は何もかも失われてしまったという。

 また文帝曹丕は芳林園という庭園を洛陽に築いた。こちらは観賞用の庭園であり、明帝の頃には山を築いて松や竹を植え、禽獣を放したという。同名の庭園を曹操が鄴に築いているが竹林は確認できない。後に両者とも少帝曹芳の諱を避けて華林園と改称された。



 竹園の管理責任者として漢代には司竹長、北魏のときに司竹都尉が置かれ、唐から元までは司竹監、明代には司竹局が置かれた。彼らの主な業務は筍を植えることと竹の育成管理、筍堀りと伐採した竹材の供給である。また宋の蘇東坡はたまたま司竹監が葦を焼くのを見かけて詩を書いている。これは狩猟を目的としたもので、このときは都巡検の官吏が兵士を引き連れ、炎に巻かれて逃げ惑う雉や兎たちを犬や鷹で追い、馬に乗って矢で射たという。


 竹の栽培方法として、まず漢代の四民月令に竹の移植時期について旧暦5月1日と指示されている。

 竹には種が無いので、移植が基本になる。

 斉民要術の種竹編には「植える場所は標高が高く平坦な地、近くに丘陵があると良い。田んぼの下では枯れる。薄い黄色をした柔らかい土に植えるのが良い。旧暦正月から二月の間に根と茎を引き抜き、葉を刈り取って、園内の東北部分に竹を植える。2尺ほどの深さに掘り、5寸厚の土で覆う。竹の性質として南西に向かう傾向があるので東北に植える。数年後に園内は竹でいっぱいになる。古い竹は育たないし繁茂しないので、南西に根を引き付ける。稲や麥の糠を肥料にする。どちらもそれぞれ肥料にすることが出来るが、二種を混ぜてはならない。水浸しになってしまうので水をやる必要はない。園内に家畜を入れてはならない。2月には淡竹の筍が収穫可能で、4月から5月にかけて苦竹の筍が収穫できる。竹細工を作るならば数年経った竹を切る」という。

 唐代の四時纂要は基本的に斉民要術を踏襲している。

 宋代の博聞録では乾燥させた馬糞を泥と混ぜて土壌を作ることを薦めており、瑣碎録では狸や猫を垣根の下に埋めると翌年筍が出ると言う。

 元代の王禎農書では5月13日の竹醉日(竹迷日)に移植するのが良いといい、また筍の採り方について「竹の密生している場所の草を刈り取り、竹の根の方向を確認するが、来年竹が茂らなくなるので根を採ってはならない。露を避け、日の出後に土を掘って筍を採る。竹の根が折れた場合は、油を塗った布で覆うように」と言う。

 そして明代の農政全書では、同時期の種樹書を引用しつつより詳しく竹の移植方法について説明している。


 華陽国志は三国時代の私営竹園について触れる。

 後に晋の江陽太守になる何隨は、自宅に竹園を持っていたが、たまたま盗人が筍を盗んでいるところに遭遇した。盗人が恐れて逃亡する中で足を怪我すると、何隨は彼に履物を与えたという。

 宋書隱逸伝にも筍泥棒の話がある。呉郡の沈道虔は筍泥棒を見つけるも筍を憐れみつつ盗人に施しとしてより大きな筍を与えた。梁書の范元琰伝にも筍泥棒の記述が見えるが、こちらも盗人を赦している。



 生産加工用の竹園とは別に、鑑賞を目的した竹の庭園もある。

 いわゆる鑑賞用の庭園自体は文献上では西周の頃からあるが、庭園で竹林が最初に見られるのは前漢の枚乗による梁王菟園賦が最初であり、前漢景帝の時代の梁王劉武の庭園について「竹や檀、そして欒の木が池水を夾む、兎園を旋る」と詠む。

 梁王の兎園は東苑また竹園とも呼ばれる。西京雜記によればいくつもの宮を設け、山や池を築き、様々な樹々に野鳥や動物があり、人々は釣りをして遊んだ。また太平御覧に引く園経には、天下から選ばれた竹や木を植え、各地の風流人が集まって賦を詠んだという。

 だが、この頃の庭園において竹の記述は少ない。次に現れるのは曹丕の芳林園(華林園)である。北魏が洛陽に都を置くと華林園の再整備が行われ、6世紀に東魏が興るまで利用された。


 南北朝時代には竹を植える庭園が数多く現れた。

 晋書の桓玄伝では、彼が帝位に就く僅か前に奢侈な風俗を改めるべく庭園から果樹や竹を掘り起こして遠方に移したという。謝安伝では、彼の楼館には林や竹が甚だ盛んで、常に内外の若者たちが往来して集い、たびたび酒や肴に百金を費やしたとある。また宋書は謝安の一族の子孫である謝荘の庭園についても触れる。


 北魏時代には河北でも華林園同様に竹を用いる庭園があり、洛陽伽藍記によれば永寧寺に竹があるほか、河間寺は前述の梁王兎園に勝る庭園だった。また皇族の多く住む王子坊の区画には花や林、池のある庭園があり、桃李や竹柏がある邸宅が軒を連ねていたという。

 北斉書には鄭述祖が山や池を好み、松や竹を植えて賓客を迎えたとあり、後周書の高賓伝によれば高賓は世宗明帝から賜った田園に竹や木を多く植えた。そして大業雜記によれば隋の煬帝の庭園である隋苑の池の周りには、柳や竹が四面に鬱茂していたという。

 流入した異民族は庭園文化を良く採用した。宮殿の破壊と共に皇帝の庭園も破壊することはあったが、知識階級は先人の遺産を継承していた。

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