04.芸術と神秘の竹─魏晋─
晋の郭璞は山海経注において、竹は六十年に一度花を生じて実を結ぶと必ず枯れるといった。
実際、竹が全面開花によって枯れるのは確かだが、寿命に関してはまだ十分なデータは取れていない。例えば日本の淡竹の開花には20世紀初頭(1902~1905年)の記録と天明八年(1788年)の開花の記録があり(坪井伊助,実験竹林造成法,1917)、そして近年開花(2010~2020年)したのである程度はっきりしているが、真竹は1960年頃に開花した記録だけあり、孟宗竹の一斉開花の記録はない。
古代中国において60年と言うのも確認したものでは無くて、60で一周する天干地支に基づくものだろう。また地表部分が枯れても地下茎の一部は生きていて完全に枯死するわけではない。
一応中国において竹の開花自体は晋書五行志や唐書、宋書などに記録されていて例えば「惠帝元康二年(292年)春、巴西で竹が開花する。花は紫色で、実は棗のようで、外皮は青く、中は紅白、味は甘い」「安帝元興三年(404年),荊州と江州で竹が棗のような実を生した」「開元十七年(729)冬十月癸未、睦州が竹の実を献上した」「開成四年(839)、襄陽山の竹が実を成した」とあるが、開花する地域はそれぞれ異なり、また中国には500種以上ある竹の品種があるため、同一の品種かは定かでない。
竹に関する詩は、初めにまず詩経の衛風と秦風、そして小雅にある。
衛風にある竹竿の詩は「籊(細)い竹竿で、淇水にて釣りをする(以下略)」の示す淇水は第一部分で触れた淇園の竹林付近の川であり、竹竿もこの地の竹を使ったと考えられる。
秦風には「二つの弓を交えて弓袋に入れ、竹の弓檠に縄で縛る」といい、小雅には「秩秩たる斯干、幽幽たる南山。竹の苞るが如く、松の茂るが如し(以下略)」という。
楚辞には漢代に追加された部分に見えるが、屈原自身は竹の詩を書かなかった。
以上、素材としての竹は見えるが、竹が主役になることはなかった。
さらに漢代にはまだ絵画に竹が描かれることはなかった(※画像石を確認する限り)。
魏晋南北朝時代には東晋の顧愷之が竹に薄く色を塗ることを魏晋勝流画賛で説明しているように竹は絵画の対象になった。唐代の図画見聞志という画論には劉宋の画家顧景秀による王献之竹図や陸探微による竹林像などが記録に残っている。現存するものとしては北周の頃に描かれた竹の絵があり、唐代になると一層良く描かれるようになる。
賦や詩にも魏晋南北朝の頃になって竹を賛美するものが出て来る。
例えば西晋の郭璞は山海経図賛の賦で「嶓冢の山の美しき竹を桃枝と号す。鬱蒼として盛んなる様、鎮静にして美しき姿。簟(※竹のござ)に以って安寝し、杖に以って危を抜けん。」と詠む。
また劉宋の沈約は簷前竹の詩で「萌出る筍が已垂し、葉を結び枝を始成す。上に生い茂り繁陰あり、下に繁茂を促節す。風は露の滴瀝を動かし、月は参差(不揃いな)の影を照らす。君子は戶牖(玄関)に生ずるを得て、華池に夾じるを願わず。」と詠む。
梁の劉孝威は枯葉竹の詩で「楊は枯れて尚一層美しく、伏した柳は尚も再生す。鳳至らずに嫌う勿れ、終に聖明を當待せん」といい、陳の賀循は得夾池脩竹の賦で「綠竹の影は参差し、曲池に浮かび葳蕤(生い茂る)。秋に逢って葉は落ちず、寒色を経て詎んぞ移らん。晩に風韻來たり、鳳集まりて春枝を動かす。客高く蹈みて欣ぶ所、未だ伶倫の吹くを待つ。」と詠む。
残されている竹の詩や賦の殆どは南朝の詩人によって作られている。漢末混乱期や東晋における文化人の江南への移動は大きな影響だっただろうか。
竹林を愛好する文化人の代表として三国時代の竹林七賢が知られている。七賢は魏の正始年間(240~249年)に河南の竹林に集まって酒を飲み交わしたといわれている。その初期の出典は5世紀に書かれた裴松之の三国志注や劉義慶の世説新語であり、三国時代の段階で黄河流域に竹を愛好する文化があったかどうかを明らかにするものではない。
竹林の詩は唐代になって完成される。その代表たる白居易や王維は自身の庭園で竹林を鑑賞して詩を吟じた。
竹への賞賛はその美術的価値を示すとともに、竹の神秘性を表現している。
郭璞は冒頭で触れた山海経の解釈や幽玄な竹の詩のほかに、仙界の暮らしを空想して遊仙詩を書き、また占いにも長じていたという。
また晋の葛洪の神仙伝にある「壺公」の話では、テレポートや変化といった不思議な力を持つ道具として竹の杖を扱っている。そして後に道教の規範となる抱朴子の論仙編にも類似した話を掲載している。ただし当時の杖は一般的に竹を使う。
異苑には竹王神という、かぐや姫のように竹から赤子が出て来る説話がある。「夜郎国の娘が川で洗濯していると大きな竹を見つけ、泣き声がするので割ってみると男の子がいたという話で、男の子は武芸に秀でたが漢の武帝に殺され、後に祀られた。」という。
他にも南斉書の劉懷珍伝には、謎の老人が夢に現れて「南山の筍を食べると病が治る」と告げた逸話が載っている。
劉宋の戴凱之は竹譜において「竹の根は六十年で枯れ、また六年で復活する」という。
六十年に一度枯死してもまた数年で再生する江南の竹林は、永遠を求める漢人の神仙思想と結びついて復活や永続性の象徴になったのだろう。