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02.江南の竹文化

 利用時期を特定できる最初の記録は安徽で発見された鄂君啓節であり、節のある竹を模した青銅の符節である。これは楚の懐王の時代(紀元前323年)のもので、陸路及び水運での関所通行税の免除を指示している。

 符節は君主により特定の権限を貸与されたことを証明するものとして用いられる。

 漢代の竹使符は、文帝の頃に初めて郡守に渡された。説文によれば長さは6寸。竹使符のほかに銅製または金製の虎符もあり、虎の形をしていて所有者は兵権を握ることができた。どちらの符も左右二つに分けて片方を任命者が持ち、もう片方を主君が持った。後漢書によれば符は符節令が保管していた。

 隋代にはいくつかの種類の獣符が作られていたようだが、唐代には竹符と虎符が廃止され、まず銀兎符が造られた後に銅魚符に代わられて、魚袋という袋に入れられるようになった。虎符が廃止されたのはトイレの話で書いたように李虎という諱を避けたためだろう。



 文献上で最も多く見られる竹細工が竹簡なのは、文献自体が竹簡として書かれたためである。三国時代に発見された戦国魏の竹書紀年が有名だが、現存するものとしては上海楚簡、睡虎地秦簡、清華簡、曾侯乙墓竹簡などがある。戦国時代には竹、木、帛が併用されていた。帛は絹で、絹は商の時代から作られるようになったが、字の修正も困難な上に高価だっただろう。木牘や竹簡は長さ20~50cmほどで、炙ったり煮ることで保存性を高めていた。竹と木を使用目的ごとに区別していたかどうかはわからないが、出土した簡牘の大半は竹簡である。

 後漢の蔡倫が麻紙を発明し、南北朝時代に公文書が竹簡から紙へと移行して唐代に大量生産が始まり、宋代には竹から紙を製造する技術が発明された。竹紙の製法は明代に書かれた天工開物にある。


 文字を書くための筆も竹で作られた。それ以前から文字に墨の下書きが行われていたというが、柄を持つ筆は竹簡が使われるようになってから使用された。

 睡虎地秦墓や信陽楚墓には古代の筆が発見されている。穂にはウサギの毛を使い、軸には質を塗った竹片を用いた。この特徴は後漢の蔡邕が筆賦にいう「竹を削って管と為し、絹を巻き漆を加えて、まっすぐ形を整える」ものである。

 芸文類聚には秦の武将蒙恬が筆を発明したという話があるが、蒙恬が筆を発展させたという見方もある。確かに漢代の出土筆を見ると、戦国時代のものと比べて少し細長くなりケースが附いた程度の変化が伺える。少なくとも持ちやすさは向上しただろう。

 とはいえそもそも蒙恬は史記では長城を築いたと云われ、風俗通義には琴を発明したと云われている。勿論、琴も春秋戦国時代からある。



 現代でも中国やベトナムで竹組みが建築現場の足場として使われていることは知られている。

 紀元前の中国において高層建築の技術は無かったが、土を突き固めて強固な土壁を作る技術があり、また宮殿用地の地盤を嵩上げして高所に宮殿を築くことが出来た。この土を突き固める器具に竹畚(もっこ)と竹筑(杵)が使用されていた。

 また高所に登るための梯子や崩れるのを防止する支えも竹で作られた。湖北銅緑山の商代銅山遺跡には竹梯子をはじめとした多くの竹製作業道具の残骸がある。


 春秋戦国時代の遺構には作業道具や生活道具は状態のより良いものが残る。信陽や九店などの遺構から竹のバスケットや竹の箱、竹笠、竹箕、竹盆、竹扇、竹枕、竹織機、また祭祀道具として穀物を載せる竹の高坏や酒器、彩度の高い竹席も発見された。

 このうち竹席は「筵」という竹製の「ござ」のようなもので、霊廟での祭祀、祝宴の席において使われていたが、唐代に椅子に座る文化が生まれると竹の椅子も作られるようになった。

 箱は筐や篋と呼ばれたが、特に衣類を入れるものは箱、書籍を入れて背に背負うものは笈と呼んだ。笥という箱には褒美の財貨が入れられた。また車で荷物を運ぶときに使う箱もあった。小さな箱は簞といい、大抵は一食分の食事を入れていた。また円形の箱は筥と呼んだという。江陵馬山楚墓や九店楚墓では四角い竹箱と円形の竹箱が見つかっている。



 第一部分で触れた竹の矢は江南ではよりポピュラーである。

 呉書の虞翻伝において、孔融が会稽の竹と箭は素晴らしいと述べている。

 墨子によれば矢の素材として、竹、荆、桃、ツゲ、ニレの木の枝を使っていた。墨子は竹矢が無ければ他の木を使うよう指示し、また論説内でよく竹矢を指定する。

 弓は木製または竹製で、矢には羽根飾りを付けた。鏃は銅か鉄で、定説通り秦の出土矢は銅製である。

 また矢の入れ物は箙といい革製だったともいわれるが、瀏城橋楚墓の漆塗竹細工は明らかに矢を入れるための箙であり、中世日本で使われた箙に似ている。

 弓矢の矢に箭という竹冠の付いた異字体があることはよく知られていて、中原では矢といい、陝西では箭といったという。

 竹の矢は古代日本でも使われていたようで、魏志倭人伝に記述がある。



 民俗文化においても竹は利用されていた。

 南北朝時代の続斉諧記によれば、楚では屈原の没日である5月5日に竹筒に米を盛り、屈原が身投げした汨羅水に放り投げる祭りが行われていたという。

 また少し後に書かれた荊楚歳時記によれば元旦に庭先で爆竹を鳴らしていた。当時の爆竹は青竹を火の中に入れて、筒内の空気の膨張によって炸裂音を鳴らすことで風邪を引かせる鬼を掃うものだった。こちらでも粽の由来において屈原の没日の儀式に触れているが、異説として米を捨てずに食べたり、筒ではなく真菰の葉で包む例が挙げられている。

 他にも乗馬の真似事として竹の棒に跨る子供の遊びは晋代から唐代まで見られる。世説新語にある殷浩と桓温の竹馬の友が特に有名である。

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