表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

01.古代中国の竹林

 竹は江南でよく産することが知られている。

 しかし竹の生物多様性についてのレポート(Nadia Bystriakova,Bamboo biodiversity,2004)を確認すると、竹の実際の分布域はより広い。

 史記貨殖伝では揚子江以南だけでなく山西や巴蜀の竹に言及し、南北朝時代の文献(庾子山集)は淮河の南(安徽)や、渭河の南(陝西)でも竹が産出されていたことを示しているが、これらはレポートと一致している。


 だが、漢代以前には中国の竹林の生育地は更に広かった可能性がある。

 例えば春秋左氏伝の文公十八年(B.C.609)には斉の懿公が申池の竹林で殺された事件があり、また同書の襄公十八年(B.C.558)には晋の軍勢が斉を攻めて臨淄城外の竹林を焼き払っている。

 ここに出て来る斉国の領域は山東省一帯とほぼ一致するが、レポートにある竹分布範囲の外に位置する。



 竹は寒すぎると生えず、温暖であれば温帯性の竹が生え、暑い地域では熱帯性の竹が生える。現代の山東省済南市の年間平均気温は11度から21度だが、温帯性の竹の生育には10度から20度程度が望ましく、その基準を満たしている。

 紀元前7世紀頃の気温について太陽活動を参考にすると小氷期(Homeric Minimum B.C.800-B.C.600)の終わりであり、地球温暖化の最中にある現代ほど暖かいわけではないが、ちょうど暖かくなり始めた頃合いだったと言える。

 少なくとも春秋で記録された時期に限れば斉国は竹を育てることのできる気温だった可能性がある。


 また竹には充分な降雨量が必要であり平均1000mm以上であるべきだが、河北はその点では望ましくない。

 中国の4000年間の降雨量の推定に関する論文(Jixiao Zhang, Xin Zhou, Shiwei Jiang, Luyao Tu and Xiaoyan Liu,Monsoon Precipitation, Economy and Wars in Ancient China,2020)を信用するならば、B.C.500頃までは現代と同程度の時期になる。

 現代の山東省の年間降雨量は500mm~800mm程度であり、水分は明らかに不足している。



 ただし先のレポートはまた栽培可能性という図で、山東省一帯および河北省南部での栽培が可能だとしている。日本ではよく放置してとんでもないことになっているが、不適当な場所での育成は自生するのとは違って枯れないように管理する必要がある。

 イングランドのような寒い国でも近代以降竹の庭園が造られたように、竹は比較的寒い地域でも育成すること自体は可能である。竹の中には淡竹や黒竹といった比較的寒さに強い品種があり、また刈り柴や木片チップを撒くことで竹の根の防寒に加えて土の凍結の防止、それによる土内の湿度の維持が出来る。


 竹の栽培管理は漢代から見える。史記河渠書によれば漢武帝の時代に「東郡で火事があり、薪柴が足らなくなったため、淇園の竹で堤防を造った」とある。唐代の通典には「漢の官吏には司竹長及び司竹丞がある。魏晋の頃には河南にある淇園に官吏を置いて竹林を保護していた。北魏の頃には司竹都尉という官吏がいて、隋の頃には司竹監が置かれた。唐代には司竹監と副監、そして丞が置かれ、竹林庭園の栽培を担当していた。」という。彼らは竹の植え付けと栽培を担当し、また唐朝においては収穫した筍を天子の食事に献上した。

 淇園の竹林は大規模だったようで、後漢書の寇恂伝には「淇園の竹を切って、百万余りの矢を造った」という。この竹林がいつ頃からあったのかは不明であるが、少なくとも宋代までは存在していた。一応、晋代の竹譜によれば殷の紂王によって竹矢のために築かれた庭園だったとある。


 淇園の竹林は淇水流域にある。また前述の斉の懿公についても申池に沐浴しにいった折にその地の竹林で殺害されたのであり、そこに水があったのは疑いない。降雨量の足りない斉国でも世話役が管理することで水路の傍の竹林を育てることが出来ただろう。



 竹の利用は商代の甲骨文字から推察される。竹の字自体も甲骨文にあり、特徴的な葉の形を示している。しかし竹冠を持つ全ての漢字が甲骨文字に原型を持つというわけではなく、大半は周代以降に見られる文字だったり、後に竹の部首が追加された文字である。

 例えば箒や筆は竹冠が後代に付与された字とされる。箒は元々は帚と書いていたが、掃き掃除するための箒の甲骨文字には「彗」が使われていて、帚の甲骨文字は少なくとも見た目の上ではススキ属の穂に見えるし、当時は掃除用語として使われていなかったように見える。彗は竹の箒を示し、彗星はほうきぼしを意味する。


 考古学的証拠には問題点がある。

 竹の加工品が発見されればよいのだが、一般的に竹簡の出土は保存状況の事情から、水没した楚墓と乾燥地域にある秦墓に限られている。そしてそれは竹矢や竹器も同様である。

 とはいえ少なくとも湖南や浙江にある先史時代の遺跡の幾つかから竹籠や竹竿のような加工品や、陶器の文様とした用いられた痕跡が確認されていることから、長江流域では遥か昔から竹が使われていた。(※湖南洪江高廟遺跡、浙江余姚螺山山遺跡)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ