巡れや廻れ
汗を吸った靴下が地面を踏みしめる度に嫌な音を立てた。ひたすら続く道の向こう、山と山との間には、朝日が半分ほど登っている。見渡す限りに緑が見え、歩道には長らく手入れされていないであろう雑草が覆い茂り、ほとんど歩けるような状態ではなかった。私はリュックサックをおろし、肩を鳴らせた。半日ほど歩き続けた私の足と肩は疲労を通り越して痛みをもたらしていた。
事の発端は十月の初めのことだった。夏休みが終わり、一週間ほどは何事もなく大学生活を送れていたのだが、ある朝私は起き上がることができなくなった。授業にも出席せずに、食欲もわかず、ただ時間の流れを認識することだけのために脳が働いている気分だった。睡眠もほとんどとれず、当然性欲なんてあるはずもなく、つまるところ私は三大欲求のすべてが消えうせていた。尿意を感じてからトイレに行くまで一時間ほどかかり、一日中ベッドに横たわって天井を眺めていた。日が出ているうちは呼吸をするのも苦しくなり、心の奥底に深い靄がかかっているような気分に襲われ涙を流し、日が暮れてからは底知れぬ不安が私の頭を駆け巡り、涙を流した。以前はあれほど熱中していたアニメも、漫画も、ラジオもネット掲示板もすべてに対する興味が消えうせ、私はスマートフォンの電源を切った。横になっている間、私は一分が一時間のようにも、一時間が一分のようにも思えた。アナログ時計が秒針を刻む音が私の吐き気を増長し、電池を抜こうと考えたがベッドから起き上がることもできない。私は脳を必死で回転させ(それでも以前の十分の一ほどの思考力だったのだが)枕もとにあったテレビのリモコンを時計に向かって投げつけた。もともとノーコンだった私の投げたリモコンは、当然のように見当違いの場所にぶつかり、鈍い音を立て壊れただけだった。
水道水以外口にしていなかった私の体は、四日目には私に空腹を訴えかけてきた。私は、家に何もないことを知っていたので、コンビニに何か買いに行こうと考えた。午前十時ごろだった。結局私が寝巻のままコンビニに向かったのは翌日の深夜三時ごろで、塩おにぎりを二つ買って帰った。おにぎりは半分だけ食べてあとは残した。
二週間後、私は症状が少し回復したことをきっかけに、スマートフォンの電源を入れた。ネットニュースや、掲示板を見ると私の知らない話題が大量の文字列として、画面いっぱいを覆っていた。しかし、ここにきて初めて気が付いたが、私は文章を読めなくなっていた。当然、文字は読めるし、文章の意味することは分かるのだが、それの重要性やそれが何を示唆しているのかが理解できなかった。私はページを閉じたが、手持無沙汰さとスマートフォンを触れるほどの元気はあったので、映画を見ることにした。文章と同様映画を見ても理解できないのは承知の上だった私は、一度見たことのある映画を選んだ。それも映像の変化が少なく、話も難解ではないものがいいと思ったので、小学生向けのアニメ映画にした。
予想した通り、子どものころとは言え、一度見たことがあるだけあって、話の内容は理解できた。そして、映画を見ている最中は、悲観的なことが頭に浮かぶ回数が確かに減っていた。それからの一週間ほどはその映画を何度も繰り返し見続け、合計で百回近く視聴した。
それが功を奏したのかはわからないが、一週間後には私はほぼ全快していた。実に三週間ぶりに服を着替え、外に出た私は真っ先に食事を食べに行った。チェーンの定食屋で、サバの味噌煮定職を注文し、三杯ものお代わりをした私は大きな満足感を覚えた。
その日の夕方、私はアパートの近くの公園に佇んでいた。心に少し残った靄は、自室にいるとまたあの症状を再発させるのではないかと不安になったからだった。私は今まで、どちらかというと一人が好きなタイプだと思っていた。いわゆる集団行動が苦手で、友達もほとんどいなかった。大学に入り、一人暮らしを始めて半年がたったが、誰かと話すのはそれこそスーパーやコンビニの店員とのテンプレートの会話とも言えないようなもので、それでもネットの掲示板ではコミュニケーションすることができるし、芸人の深夜ラジオで寂しさは紛らわされていると思っていた。しかし、今こうして公園で等身大の人を見ていると、どこか癒されている自分がいることに気が付いた。私の大学は辺鄙な場所にあるということで名が知られたところで、日が暮れ、八時にもなるころには最後の大学生のカップルがいなくなり、とうとう私一人になった。その瞬間、私は嫌な予感がした。全身に寒気が走り、胸の奥が苦しくなるようなあの感覚だ。ああ、またあの症状が現れるかもしれない。私はそれを恐れてアパートへ続く道の反対側へ歩き出したのだった。
人がいる場所に向かおうと考えた私は、電車に乗ろうと思い駅を目指し歩いた。改札前まで来て、ICカードを出そうとポケットに手を入れた私は、財布を持ってきていないことに気付いた。家を出る前は、食事だけとってすぐ帰るつもりだったので、小銭しか入っていない財布は部屋に置いたまま、先月分の奨学金の入った封筒から千円札を一枚取り出してきたのだ。私は岐路に立たされた。財布を取りにアパートへ一度帰るか、それともこのままほぼ一文無しの状態で歩き続けるかだ。答えはすでに分かっていた。私は駅を出て、スマートフォンのマップを開き、ひたすら歩きつづける道を選んだ。
私が目指した場所はマップアプリによると、およそ四十キロ先にある県庁所在地で、徒歩で十時間の時間を要するところにあった。しかし、それは一定のペース(四キロほど)でひたすら休憩もなしに歩きつづけた場合のことで、三週間ベッドに横になり続け、体重は十五キロほど落ち、筋肉も激減しているであろう私にとってはとても現実的なものではなかった。
そういうわけで、私が今このような状況に至ったというわけだ。夜も明けて、だんだんと冷静になってきた私は、所持金三百三十円。すっかり疲れ果てて、もう先に進むことも戻ることもできなくなってしまった。しばらく立ち尽くした私は、道の向こうに自販機があることに気付いた。
「ふぅ、生き返るな」
なけなしの金で買った水は、一気に三分の二ほど飲んでしまった。そういえば昨日の夜から飲まず食わずで歩きつづけていたのだった。自販機の隣にベンチがあったので、私は座ることにした。この先どうしようか。残った金は二百十円、電車やバスに乗っても大した距離は進めないだろう。一番現実的なのは、身近なだれか、例えば友人や家族に電話して迎えに来てもらう事だが、私は友人もいないし両親は飛行機に乗らないと来られないような場所に住んでいる。つまるところ八方塞がりだった。
ぶぅぅん、という大きな音で目が覚めた。トラックが走る音だ。どうやら私は知らず知らずのうちに眠ってしまっていたようだった。ベンチから体を起こし、スマートフォンを確認すると、午後三時。六時間ほど眠っていたようだった。はぁ、と大きなため息をついた時、隣に気配を感じた。
「おはようございます」
女性の高い声が聞こえた。私は驚きのあまりベンチから落ちてしまった。そこにはセーラー服を着た少女が座っていたのだ。
「私は、一言で言うと幽霊みたいなものです」
黒髪ロングの、かわいらしい女の子はそういった。見た目からすると中学生くらい、足はある。
「ゆ、ゆうれい……」
彼女はどうやら所謂電波系女子のようだった。初対面の男に向かってそんなことを言う女の子はどれだけかわいくても、あまりお近づきになりたくはない。
「はい。でも別に私は死んでいるわけではありません。最初から私はこの姿だったんです。私の役目は、亡くなった後の人の魂を浄化させること。つまりは天国への案内人といったところですかね」
今すぐ逃げ出したほうがいいと私は直感的に悟った。幽霊?天国への案内人?この子はかなり重症のようだ。下手に刺激したら何をされるかわかったものじゃない。今私がすべきことは、この子が私に危害を加える前にここを立ち去ることだ。
「そ、そうなんだね。それは大変だ。でも僕は死んでないし、君の仕事には関係ないようだから、僕は帰るよ。じゃあ、頑張ってね」
アクセントも発音もめちゃくちゃで、外国人タレントのような日本語になってしまったが、彼女の気に障るようなことは言っていないはずだ。僕はたどたどしい動きでリュックサックを背負ったまま、朝来た道を引き返した。
「ちょっと待ってくださいよ!まだ話は終わってません」
彼女はあろうことか追いかけてきて私のリュックサックをつかんだ。振り払おうとしても彼女はびくともしない。なんて力の強さだ。
「いったい何なんです!僕は死んでいないって言ってるでしょうが!」
「だから話を聞いてくださいって!」
「高橋さん、あなたは最近ひどい抑うつ状態になりましたよね」
結局私が折れて、彼女の話を聞くことになった。ベンチに座るや否や彼女は切り出してきた。
どうしてこの子はそのことを知っているんだ?教えていない名前も知っている。
「僕が寝ている間にスマホを見たの?」
いや、仮にそうだとしてもスマートフォンにはロックがかかっているはずだ。
「いいえ、見てません。それで、どうなんです?」
彼女はじっと私の目を見つめてくる。女性慣れしていない私は思わず目をそらしてしまった。
「ああ、そうだよ。ひどい鬱になって三種間ほど寝込んでたよ。だから何だっていうんだ?
君はいったい何者なんだ」
彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべていった。
「だから言ったでしょう、私は案内人だと。あなたのことはわかるんですよ。あなたは今日本来死ぬことになっていたんです。ついさっきですよ。よそ見運転をしていたトラックの死角に入っていたあなたは前輪につぶされて死んじゃう運命だったんです」
「は?」
いったい何を言っているんだ、この子は。
「さっきあなたトラックの音で目が覚めたでしょう?あの車です。だからあなたが轢かれて死んじゃう前に眠らせたんです」
「待ってくれ、仮に君の言っていることが正しいとして、どうして僕を助けたんだ。死ぬ運命にある人を助けるのが君の役目なのか?」
「いいえ、違います。私たちの仕事はあくまで亡くなった方のお手伝いです。生き死にへの介入はしません」
ますますわからなくなってきた。こういう電波系には電波系なりの理屈があるものだ。私たちには完全に理解できなくても、筋は通っているものなのだが、彼女は何を言っているのか全く分からない。
「じゃあなぜ……」
「それがですね、天国で人々の生死を司る方の生誕祭だったんです。誕生日とはいっても、地球とは時間の流れが違うので、あなたたちの世界でも八十九年に一度しか来ないんですけどね。それで生誕祭では本来亡くなる方のうち、あまりにも幸福度が低い人はそれを回避できるという恩赦が実施されるのが慣例なんです」
「つまり、僕は幸福度が低かったから死ぬ運命を避けられたってことか?」
「そういうことになりますね。今回の恩赦の対象人数は四万人くらいです。あまりにも人数が多いので、管轄外の私も加わって、本来亡くなるはずだった方々を助けているんです」
仮にそうだとしてもなぜ天国の人間がセーラー服を着ているんだ。あまりにも現実離れした話に、いつの間にか私は呆れを通り越して、その荒唐無稽な話に興味を惹かれていた。
「なるほど、僕は君に助けられたんだな」
すると、彼女は今までの事務的な笑顔をやめて、花を膨らませて得意そうな顔をした。このような表情を見ると、どこからどう見ても普通の女子学生にしか見えないのだが。
「いえいえ、私は任務を遂行しただけですから。それに、あなたにはもう一ついい話があるんですよ」
「いい話?」
「そう、いい話です。あなたがたは幸福度があまりにも低いので、せっかく助けても結局自殺や自暴自棄な生活の上なくなってしまう方が多かったのです。そのため、生死を司る方は今回から恩赦を受けた人々には、命を救うだけでなく特殊な力、つまり超能力を与えることを決定したのです」
「は?」
超能力?せっかく彼女の世界観がわかってきたのに、また理解不能な局面に突入したようだ。
「そうです。具体的に言うと、運が非常に良くなるんです。具体的にどれくらいに運がよくなるのかまではお教えできませんが、あなたの日常がより良いものになることは間違いありません」
彼女のキラキラした目で話す姿を見るとはい、というほかなかった。彼女は納得した様子で大きくうなずくと、勢いよく立ち上がった。
「では、私にはこの後も救わなければならない人がいるので、この辺で失礼します。あっ、私のことは誰にも言ってはいけませんよ。いいですね」
そういった瞬間、彼女は消えた。道を走っていったわけでもなく、天空に登って行ったわけでもなく、光に包まれたわけでもなく、気が付いたら彼女の姿が消えていた。
「……何だったんだ。いったい」
私はその後もしばらくベンチに佇んで今出来事を回想していたが、とうとう彼女の正体はわからなかった。一番それらしい説は、彼女はマルチ商法の会員で、運がよくなるなどと言って商品を売りつけることを目的にしていたということだ。彼女は私のほかにも同じような話をし、その後運がよくなったと実感した人にさらなる運を呼び寄せるなどと言って高額な商品を買わせる。しかし、私は連絡先も渡されなかったし、何より私の名前や今ここに至った状況までも知られていた。
空を見ると、太陽は大分西に傾きつつある。帰らなければならない。この先進んでも無駄だ。金もないし、何より沈みかけている太陽を見ても、症状は出ていない。今の私にこの先進む必要はないはずだ。
「はぁっ、はぁ……」
ベンチから歩きつづけて四時間、もはや私の足は使い物にならなくなっていた。昨日の夜からひたすら歩きつづけていたため、無理もなかった。足の甲はパンパンに張れ、一歩踏み出すたびに脛の筋肉が痛んだ。今日はここで野宿をするか、そう思ったとき背後からする間が走ってきた。軽トラックだった。そして、私を少し追い越したところで停車した。すると、窓が開き、顔に肉が付いた中年男性が顔を出し言った。
「兄ちゃん、良かったら乗っていくか?」
僕を助手席に乗せた軽トラックは、街灯もない道を法定速度を優に超えたスピードで進んでいく
「すみません、本当に助かりました」
助手席の足元に散らばった漫画雑誌や弁当箱の空容器を踏まないように気を付けながら私は言った。ロープや脚立、ハサミやガムテープまである。
「いいんだよ、困ったときはお互い様よ。それよりお兄ちゃん、あんたなんであんなところ歩いてたんだ?」
残暑があった十月もすでに終わり、夜はかなり冷えるというのに、男性はタンクトップ姿だった。髪にかなり白髪が混じっているところを見ると五十代後半といったところだろうか。
「実は……」
私はすべてを彼に話した。鬱の状態になったこと、特に目的もなく県庁所在地に向かって歩きつづけたこと、謎の少女にあったこと、運ガン強くなったといわれたこと。私が話している間、男性は一言も発さなかった。
一通り話し終えると、男性は顔全体を使って笑顔を使った後、大声で笑い始めた。
「なるほど、それはいいじゃねぇか。運がよくなったんだろ?俺が今車に乗せてやってるから当たってるんじゃないか。それにな、その天使だか神様だか知らねえが、命を助けられたってのも信じてみたらどうだ。そっちのほうが楽しそうでいいだろう」
ピンポーン。しばらくその音がチャイムの音だということに気が付かなかった。あの後自宅の前まで送ってもらった私は久しぶりに熟睡した。チャイムが鳴ったのは十数時間睡眠から起床して三十分ほどたった時だった。寝癖のついた頭をかきながらドアを開けると、そこには若い女性が立っていた。
「突然すみません、今日隣に引っ越してきました清川と申します。よろしくお願いいたします。引っ越しの際には騒がしくしてしまい、申し訳ありませんでした」
私が寝ている間に引っ越し作業があったようだが、熟睡していて気が付かなかった。
「これ、つまらないものですがよかったらお使いください」
茶髪のショートヘアの女性はそういいながら箱を手渡してきた。箱の重さからしてタオルか何かだろう。
「あ、いえいえ。こちらこそよろしくお願いします。ん?」
彼女の足元を見ると、小さい子供が横に立っていた。三歳くらいの男の子だろうか。
「あ、息子の裕太です。ほら、挨拶しなさい」
そう言われると裕太は挨拶をするどころか彼女の後ろに隠れてしまった。
「こんにちは、裕太君」
そう言いながら、今は朝であることを思い出した。
翌日、私は休学する旨を大学の学生課に伝えに行った。鬱により一か月以上大学を休んでしまったし、多少回復したといっても、まだ完全に復活したとは言い難い。そう伝えると、あっさり休学届の用紙をもらえた。後に担当教官との面談があるらしいが、特に問題はなさそうな様子だった。
大学のキャンパスは、ちょうど授業が終わり、次の授業に向かう学生や帰宅する学生が大勢行き来していた。
自宅に帰る途中、私は無性に風呂に入りたくなった。そういえば、この一か月ろくに風呂に入っていなかったし、一昨日帰ってきてからも軽くシャワーを浴びただけだった。電車に揺られながら、だんだんと風呂に入りたい欲望は、大きな浴槽に使って垢と疲れを落としたい欲望に代わり、私はスマートフォンで評判のいい銭湯を調べ、私の自宅の最寄り駅から三つ前の駅で降りた。
「奇遇だな、お兄ちゃん。昨日の今日じゃねぇか」
ワタナベと名乗った男は露天風呂に肩までつかりながら大声で笑った。
「一昨日ですよ。ワタナベさんに送っていただいたのは」
「どっちでもいいだろそんなもん。大して変わらねぇ」
料金を払い、タオルを受け取って、銭湯に入ると人はほとんどいなかった。本当に運がよくなったのだろうかと思いながら露天風呂に入ったら軽トラの運転手、ワタナベがいた。
「それで、お兄ちゃん幸運はやってきたか?」
本気なんか冗談なのかわからない口調で話しかけてくる。
「来ていませんよ、そんなもの。今大学に休学するって言いに行ってきたところです」
そういうとワタナベは笑っていた顔を変え、目を丸くした。
「お兄ちゃん、大学辞めちゃうの?」
「やめるんじゃなくて休学です。一年くらい休むんです」
「そうかそうか。じゃあお兄ちゃんも俺と同じプー太郎になったってことだな」
そういうと、再び大声で笑い出した。何がそんなに面白いのだろう。
「ワタナベさんは無職なんですか?」
言い終えると同時に、聞くべきではなかったかと思ったがそれは杞憂だった。ワタナベは表情を少しも崩さずに平然と語った。
つい先日工業高校を卒業した時からずっと勤め続けてきた自動車部品工場が閉鎖したこと。二十年前、帰宅したら妻と小さかった娘が消えていたこと。今は失業保険をもらいながら、日帰りの温泉旅行を楽しんでいること。一昨日私と出会ったのはその帰りだったこと。
「お兄ちゃんも暇なら俺の温泉旅行に付き合えよ」
最後にワタナベがそういったときの顔は少し寂しさが混じっているように思えた。
「いやー。やっぱりあそこの温泉はいいわ。社員旅行では草津や下呂温泉にも行ったがなぁ。あそこはいつ行っても空いてるんだ。それがいい」
私が銭湯だと思っていた場所はどうやら温泉だったようだ。そして人がほとんどいないのはいつものことらしい。
「それにしても、本当にありがとうございます。わざわざ送っていただけるなんて」
「いいってことよ。俺も暇だしよ。家は知ってるし。あそこの角曲がればいいんだよな?
」
「はい、そうです。あれ……。ちょっと止めてください!」
見慣れた景色、夕焼けに染められた町の一角に、一人の男の子を見つけた。歩道の端っこでうずくまっている子供。道を行く大人たちはだれ一人気に留めた様子にない。
「裕太君!」
私が名を呼ぶと泣きながら私に向かって走ってきた。昨日のことを覚えていたのだろう。軽トラを近くのコンビニの駐車場に停めてきたワタナベが隣できょとんとした顔をして私と裕太の顔を見比べている。
「その子、お兄ちゃんの子供か?」
「なるほど、隣に引っ越してきた女の子どもねぇ」
ワタナベは缶コーヒーを片手に納得した顔でなんどもうなずいている。
「それで、お母さんはどこにいるの?」
泣きじゃくっていた裕太はワタナベが買ってきたジュースを飲んで、ようやく落ち着いてくれた。目を赤くしながら、裕太は指をさし言った。
「ここ」
裕太がいた場所から考えて、予想した通りだった。
「とんでもねぇ母ちゃんだな。子供を外においてラブホテルに入るなんて」
ワタナベが苦虫を噛み潰したような表情で言った。気持ちは私も同じだった。裕太はまだ小さい。もし誘拐でもされたらどうするのだろう。それにもう初冬だ。日が暮れると一気に寒くなるのに、裕太はろくに防寒対策もしていない。
「どうしましょう、ワタナベさん。このまま置いて行けませんよね?」
「当たり前だ。この子一人にできるか。とりあえずあそこの喫茶店にでも入るか。窓際の席からなら入口は見えるだろ」
裕太から話を聞いた私とワタナベは唖然とした。裕太のたどたどしい話からは分かりづらいところもあったが、要約すると、裕太には父親がいなく母親と二人暮らし、食事はいつもコンビニ弁当でたまに母親の彼氏が家に泊まりに来る。裕太はその彼氏に日常的に暴力を振るわれているらしく、裕太の長袖をまくるとそこには多数の痣が確認できた。今日は母親と買い物に行く途中だったが、彼氏から電話がかかってきて急遽ホテルに入ったようだった。家で母親の帰りを待っていることも多いらしい。
「これって児童相談所とかに連絡入れたほうがいいですよね?」
「そうだな。だがまずはホテルから出てきた母親たちに直接言わなきゃ気がすまねぇ」
そう言うワタナベの顔にはいつもの朗らかな笑顔は微塵も残っていなかった。
「裕太君、お母さんたちがいなくなったのって何時くらい?」
外はもう日が暮れている。
「わかんない」
裕太はケチャップで口の周りを真っ赤にしながら言った。この子に母親を恨んでいるような様子はない。外で一人待たされていた、今ここでナポリタンを啜っている子供は時計も読めない年齢なのだ。
「裕太、パフェも食べるか?おじちゃんがおごってやるぞ」
「いいの?やったー。食べてみたかったんだ」
裕太はなぜかワタナベによくなついている。粗そうな見た目と口調に反し、面倒見のいいワタナベのような男のほうが、私のようなひ弱な男より子供になつかれやすいのだろうか。それとも裕太はワタナベを物心ついてから一度もあったことのない父親と重ねているのかもしれない。
私はいわゆる中流家庭に生まれ、会社員の父と、スーパーでパートをしている母親の間に一人っ子として育った。特段貧乏でもないが裕福でもない家庭、夫婦喧嘩は何度か見たことあるが、年に一回は家族旅行に行くような家だった。
裕太はこの後おそらく児童相談所へ行くだろう。その後この子はどんな人生を送るのだろう。この子を育ててくれる親族はいるのだろうか。もしいなかったら児童養護施設で育つだろう。親の愛情を受けずに育つこの子は何を思うだろう。私とこの子はあまりにも境遇が違いすぎた。
「あっ、おかあさん!」
私もワタナベも注意していたつもりだったが、裕太が最初にホテルから出てくる人影に気付いた。ナポリタンを食べながらも、メニューを見ながらイチゴパフェかチョコレートパフェか選びながらも、裕太は意識をずっと外に向けていたのだ。
「おい、あんた。この子のことで話がある」
声を荒げたわけではなかったが、ワタナベの低い声は映画なんかでみるやくざの怒声よりもよっぽど怒りが伝わってきた。金髪の若いホスト風の男の腕に絡みついている女は、その声で体を強張らせ、恐る恐るこちらを振り返った。
「はぁ?あんた何の用ですか」
ホスト風の男は精一杯の虚勢を張って発したが、ワタナベさんの真に迫った顔を見ると退いた。
「そっちの女に用があるんだ。あんたは帰れ」
男はへらへら笑いながら去っていった。母親は状況を呑み込めていないようで、私とワタナベの顔を交互に眺めている。どうやら私の顔は忘れているようだった。そして私の足元にいる裕太を見ると、今裕太の存在を思い出したかのような表情で大げさに驚いた。
「もしかして、裕太を預かっていてくれたんですかぁ?すみませんご迷惑おかけしてぇ」
急にバカのふりをしだした。男に媚びるしゃべり方だ。私の部屋に挨拶に来た時とは大違いだった。
「違う。お前はこんな小さい子を外において男といちゃついていたんだろう。そんな奴が母親をやる資格はない。もし何か言い訳があるのならば、今言いなさい」
ワタナベの口調は、校則違反をした生徒に説教をする教師のようなものに変わっていた。
「あんたには関係ないでしょ。裕太を返してよ。誘拐で警察に通報するよ」
「お前にこの子を育てる資格はないといっているんだ」
裕太は母親とワタナベの会話をおろおろしながら聞いている。そして、私の顔を見上げ助けを求めてきた。
「あ、あの。ワタナベさん。今ここで言ってもしょうがないので児童相談所へ行きませんか?」
「おれはこいつに言わないといけないんだ!」
ワタナベは明らかに冷静さを失っていた。
「お前みたいなやつが軽率な行動で子どもを殺すんだ!お前みたいなやつのせいで涼子はなぁ!お前みたいなやつのせいで!あの子に謝れ!」
母親はワタナベを完全に恐れている。彼女はきっと頭のおかしい不審者に絡まれた被害者だと思っているだろう。そう思うことは仕方なかった。ワタナベの台詞は途中から明らかに裕太のことではなくなっていた。あの子というのは裕太をさしてはいなかった。
(おい、警察呼んだほうがいいんじゃないか)(なに?喧嘩)(早く、警察警察)
いつの間にか周りには野次馬が集まっていた。
その後、警察が来た。裕太の母親は不審者だと喚いていたが、私とワタナベが警察官に事の経緯を説明し、裕太の腕の痣などを見せると納得してくれ、児童相談所へ行くことになった。再び私たちが説明すると、しばらくの間児童相談所で裕太を保護し、その後のことは日を改めて話し合うということになった。最後まで母親は否定していたが、おそらく裕太は助かったのだろう。
私とワタナベは軽トラに乗ったまま無言でいた。軽トラはコンビニの駐車場に停まっている。迷惑かけたお礼と言って缶コーヒーを買ってくれたのだ。半分ほど飲んだ時、ワタナベが話しかけてきた。
「さっき、俺変なこと言ってただろ?」
僕は答えなかった。
「涼子って俺の娘なんだわ。温泉で俺言ったよな。娘と嫁さんが家を出てったって。あれ嘘なんだ。俺が仕事行ってる間に嫁が娘を家において不倫相手の家に行ったんだ。幼稚園入ったばっかの年の子供一人にしてな。その間に家で火事が起こった。涼子は死んだよ。あとでわかったんだが、花火がカーテンに移ったのが原因だったらしい。前日に一緒に花火する約束してたんだけど、すっぽかしちまって、どうしてもやりたかったんだろうな」
震えた声でそうそう言いきるとワタナベは両手で顔を覆った。コンビニの前でたむろしている不良風の男たちの笑い声や夜の道を走る車の音に紛れて、一人の男の鳴き声が車の中で静かに響いていた。ただの大学生の私には彼にかける言葉が見つからなかった。そもそもそんな言葉などないのかもしれない、言葉というのは万能ではないのだ。
「お兄ちゃん、今日はいろいろすまなかったな。裕太のことで付き合わせちまったり、俺のみっともない話聞かせたりしちまって」
泣き終わったワタナベは再び私を送り届けるため、アパートの前に車を停めてくれた。
「いえ、裕太のことは僕こそ助かりました。僕一人じゃ何もできなかったでしょうし」
「……実はな。一昨日、お兄ちゃんを車に乗せた日、本当は死ぬつもりだったんだ。仕事失って俺にはもう何も残っていなかったからな。あの日温泉なんか行ってなかったんだ。涼子と住んでた家に行ったんだ。草むらになってた。最後にそれ見てアパートで死のうと思ってた。でもお兄ちゃん拾っちまったからなんか調子狂ったんだよ」
「そうだったんですか」
「ああ、それで今日裕太を母親から離すことができた。これもお兄ちゃんのおかげだ。俺と裕太はお兄ちゃんに救われた。少なくとも俺はそう思ってるよ。あんた、車の中で幸運がめぐってくるって言ってたよな。俺はそれ当たってると思うぜ」
僕は自暴自棄になってひたすら歩きつづけた。本来はあの時死ぬ予定だったのだ。それを天使に助けられて、それがめぐりめぐってこの二人を助けることに繋がったのだ。今ならそう確信できる。人生とはそういうものなのかもしれない。運がいいとは自分の中でだけで完結するものではなく、強制的に周りの人々をも巻き込んでしまうものなのだ。自分が幸せになることが周りを幸せにできるのだ。今はそう信じることにしよう。
「ワタナベさん。良かったら明日、一緒に遠くの温泉行きませんか?」
ワタナベさんは一瞬驚いた顔をした後、顔じゅうをしわくちゃにしてこれまで見たことないような笑顔を作った。