思春期に入った妹が突然尻を揉んできた件について
「妹よ……なぜ急に俺の尻を揉んだ」
静寂がリビングを満たす。ごくりと息をのんで妹の返事を待つ。
「……揉んでないよ。手が当たっただけだよ」
「いや嘘つけよ!がっつりもっちり握っただろうが!尻肉に指を食い込ませただろうが!」
まさか痴漢の常とう句で逃れようと考えるとは思わなかった。俺が声を荒げて反論するも、妹は澄ました態度を取り続けている。
「揉んだよな?」
「……なんでそんな認めてほしいの」
「事実の確認をした後追及するためだ。揉んだよな?」
俺だって信じられないのだ。最近思春期に入って、俺と距離が離れてきたな~って思ってた妹が急に尻を揉む暴挙に出るなんて。
何度も確認すると妹はイライラと地団太を踏んだ。
「あーもう鬱陶しい!何!?そんな大事な尻でもあるまいし、ちょっと触ってハイおしまいでいいじゃんこのスケベ!いつまで引っ張るつもり!?」
「スケベはお前じゃ!」
流石去年までランドセルを背負っていただけのことはある。無茶苦茶な論理だ。
高校三年生の俺とは5つも歳が離れているわけで、俺は子供を相手にしていることを忘れてはならないな。
「揉んだよな!?」
「揉ん……触ったよ!」
「なんで揉んだ!」
「蚊が止まってたの!」
「さっきから痴漢かお前は!」
自白を引き出すことに成功したが、まだ謝る気配がない。すると妹はあろうことか逆ギレをした。
「いーじゃんもう!肩パンみたいなもんでしょ?なに興奮してんの」
「怒ってるんだわ」
「どうやったら怒りを収めてくれる?私のお尻揉んだら?それでおあいこでしょ?」
「ぶん殴るぞお前」
「あっ余計興奮してんの」
「怒ってんだよ!」
妹がショーパンのお尻をフリフリしだした。コイツこそ冷静ではない。
喧嘩など、一年前まではしょっちゅうしていたが最近はめっきりしなくなった。理由は妹が中学生になってなんとなくよそよそしくなったからである。
昨日俺とコイツが交わした会話は「お風呂上がった?」「うん」「じゃあ俺入るわ」のみだった。つまり俺たちは年齢が上がるのに合わせて適切な距離を保つことに成功した兄妹なのであり、尻を揉んだだのと言って喧嘩する間柄ではないはずなのだ。
「なんで揉んだのかって聞いてんだ」
「……」
「いや、ちゃんとした理由があるとも思わんが、気まぐれで揉むほど馬鹿ではあるまい」
「……清水さんが」
「清水?」
清水というのは俺の彼女の名前である。最近出来た。嬉しい。
「清水さんが……明日会える?って家に電話してきたよ」
「え、マジ?やったーってこら!関係ない話でごまかそうとすんな!」
「ちなみにほんとだよ」
「最近スマホ壊したからなぁ……連絡方法家電しかないんだよな。伝言サンキュー」
予想外にデートの予定が入り嬉しい俺だが、それとこれとは話が別である。俺は切り替えがちゃんとできる合理的な男なのだ。
で、と前置きをして再び理由を尋ねる。
「なんで揉んだ」
「……。……お母さんが」
「今度はお母さんか」
「お兄ちゃん良い尻してるから揉んでみろって」
「本当でも嘘でも聞きたくない話だ」
「お兄ちゃん陸上してるじゃん?で今年引退でしょ。大学生になったらどんどんだらしない尻になるだろうから今のうちに揉んどけって」
「真実味を増してきて更に嫌だ」
……恐らく本当だろう。だが「妹の尻がいい状態だから揉んどけ」と言われても俺は揉まない。妹だってそうだろう。
だから何か他にも理由があるはずだ。妙に目を合わせようとしない妹に俺は少し腹が立った。
「もう、まどろっこしいぞ!一番の理由はずばり何なんだ」
「……」
「いい加減白状しなさいよお前」
「……お兄ちゃんのお尻、そんないい感触でもなかったね」
「おい!」
「……硬かったよ」
「ちょっと強情だぞお前!何がそんなに……」
なんだか妹は俯いて声量が小さくなってきた。俺ははっきりしない妹の様子と進まない話にイライラして強めに問い詰めた。
すると妹に予想外の変化が現れた。
「……硬かった…………もう嫌バカみたい」
「え……お、おいお前……」
なんと妹の目から涙がポロッと零れたのだ。突然のことに俺は面食らった。
「知らないし、理由、なんてないし」
「ちょ、ごめん泣くな」
「意味わかんない。もういや」
妹は腕で涙をこすっている。泣いてしまう自分に腹が立っているようだった。
妹が、俺に問い詰められる前から不機嫌そうにしていたこと、そこに原因があると俺は気が付いた。そしてその不機嫌が俺の尻を揉んだのだと理解した。
妹は不機嫌の原因を隠していて、それがまどろっこしい会話を生み出していたが、とうとう尻を揉むなんて間違った方法ではなく、涙になって正常に発露され始めたことを推測した。
妹は涙声で続けた。
「知らない、最悪、中学になってからなんもいいことない。みんな部活とか平気そうにやるし、勉強も、テストだって、なんでやるのか分かんないし、知らないやついっぱいクラスにいるし、友達も新しい友達作ってるし、なんか、お兄ちゃんと上手く話せなくなるし、お母さんに言ったらみんなそうなんだって、そんなわけないじゃん。そんなんだったらみんな笑ってないでしょ。私一人、いっつも泣きそうでバカみたい。お兄ちゃんは彼女作って幸せそうだし、私一人、一人ぼっちで」
「お前……」
妹を苛んでいたのは思春期の戸惑いだった。
それは尻を揉んだこととどう関係あるんだ?と思わないでもなかったが、しかしすぐに気の毒になった。思春期の不安定な感情の苦しみが冗談ではないことは俺にも強く伝わって、俺は泣き伏した妹に視線を合わせて座り込んだ。喧嘩して、コイツが泣いて、俺がそれを慰めるのがいつものセットだったことを思い出した。
「ほんと最悪。お兄ちゃん、こんなの最悪だよ。急に、私みっともないよね」
「いいよ」
「ごめん、困らしたいわけじゃないの。明日には大丈夫になるから、ごめん」
「うん、そうだな。そのために今日はがっつり泣け」
妹は昔そうしたように飛びついてくるかと思ったが、こぶしを握り締めたまま動かなかった。なので俺から頭を抱えるように抱きしめてやったら、ゆっくり背中に手をまわしてシャツをギュッと強く握ってきた。
「……清水さんが」
「清水がどうした?」
「電話してきて、お兄ちゃんいますかって、デートのお誘いで、私それ聞いて、今日私学校で、授業でわかんないことをお兄ちゃんに聞こうと、覚悟決めてて、部屋行こうって決心してたのに、清水さんが電話してきたから、なんか無理になっちゃって、お兄ちゃんだって、暇じゃないもん、今年受験だし、彼女が大事だし、そんなこと分かってるんだよ」
「うん」
「だけど去年まで私はお兄ちゃんは私のものだと思ってたんだもん。私、自分が思春期なんだってわかってるし、思春期の兄妹はそんなに仲良くないって知ってるし、でもついていけないもん。中学も。生理だって始まっちゃうし、私だけ遅くってみんなもう慣れてるし、お母さんはお兄ちゃんの尻を揉めとか言って、話になんないし、私はいつまでも子供のままがいいって思ったけど時間は止まってくれなくて、私もういやらしいこと知ってて、お兄ちゃんのお尻が気になっちゃって、清水さんがもう触ったのかもと思って、私も変になっちゃって、お兄ちゃんのお尻触っちゃった」
「……」
「子供だったらいたずらでお尻触れたけど、私もうダメだった。最低な気持ち、お兄ちゃんのお尻、エッチだって思った。お母さんのバカ。こんな方法で大人になったって思いたくなかった。いやらしい、こんないやらしいちょっかいでしかもうお兄ちゃんと話せなくなっちゃった」
そう言って妹はわんわん泣いた。俺は妹のあまりの熱量に、中学の時の自分の不安を思い出してほろっと来てしまった。
「そうだよな。中学って嫌だよな」
「うん」
「でももう後戻りはできないんだ。頑張って、乗り切らなくちゃいけない」
「うん」
「でも俺とお前はいつまでも仲良し兄妹出来るよ」
「嘘、出来っこない」
「出来るよ。今日お前が勇気出して歩み寄ってくれたもんな。後戻りじゃなくて、新しく仲良し兄妹になろうよ。中学校だって、俺と一緒なら乗り切れるよ。そうだろ?」
「……うん」
大人しくなった妹の温かい背中を俺はポンポンと叩いた。泣き止んだ妹は俺からそっと離れた。
「明日から、一緒に登校しよっか」
「バカ、学校違うじゃん」
妹はちょっと笑った。コイツも不器用なやつだよなぁと思った。
「俺ら、きっとうまくやれるよ」
妹は頷いた。たとえ上手くやれなくても、いや、多分上手くいかないことも多いだろうけど、俺たちは兄妹なんだし何とかやれる。
もし困ったらまた尻くらい揉ませてやるかと、そう思った。