テニスボール(三十と一夜の短篇第54回)
尾上敏樹は球技が苦手だった。丸い物体が蹴られたりバットやラケットで殴られたりするのを見るだけで心が張り裂けそうになる。もちろん球技を自分がやることは論外だった。世の中の学校はトランスジェンダーの生徒を取り扱えるくらいに優しく進歩していたが、ボールが蹴られたり殴られたりするのがかわいそうで仕方がないから体育を休ませてくれという敏樹の願いをききいれてくれるほど優しくはなかった。サッカーボールを蹴飛ばすよう言われると、脂汗が額に浮き出し、心臓は早鐘、足は生まれたての小鹿といった様子で今にも倒れそうになる。奇妙なことだ。彼は物体すべてに魂があるというアニミズムの信仰者ではないし、人並み外れて優しすぎるわけでもない。実際、ラグビーボールやバドミントンの羽根がビシバシぶっ叩かれたりするのは平気で見ていられるし、ボクシングだって見ていられる。世界のどこかでぶっ放されているロケット弾だって、ニュースを通じてなら、まあ見ていられる。だが、まあるいボールに危害が及ぶとなると話は別となる。彼は気分が悪くなり、いまにも倒れそうになるし、実際倒れて救急車で運ばれたこともあったが、いろいろ検査してもらっても体に異常はなく、ストレスが原因という医者が匙を投げるときに使う便利な言葉でお茶を濁される。茶柱の半欠片だって立たない切ないお茶である。病院は病気ではないというが、自分では辛くて仕方なく、自分の足が軽くポンとサッカーボールに当たった日には体じゅうの血が逆流し、胃袋のなかをバッタの大群が跳びまわっているような感じに襲われる。まるで麻薬の禁断症状だが、彼の体はなんら化学物質の侵攻を受けておらず、自己完結型のひどい目に遭っているに過ぎないのだ。
精神病院に行くのは最後の手段に取っておくとして、彼も解決策を見出さないといけない。科学に匙を投げられた人間が行き着くのはオカルトである。ちょうど電車で一時間ほど行った場所に垂井がある。垂井には金連寺という寺があり、そこは1441年、永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏のふたりの子ども、春王丸と安王丸が京都へ護送中に斬られた場所でもある。ほら、丸がふたりも斬られている。子どもの霊はきついときく。たぶん、自分はこのふたりを斬った侍の生まれ変わりなのだ。そこで金連寺にあるふたりの墓所で手を合わせ、まじ勘弁してくださいと祈ったが、猛烈な吐き気に襲われ、その日の朝飯を全部もどしてしまった。どうやら、鎌倉公方のふたりの遺児は敏樹を許すつもりはないらしい。「丸丸さま、勘弁してください! 許してください!」とひたすら祈ったが、しかし理不尽な話だ。刀はおろか竹刀だって握ったことがないのに、自分は斬ってもいないガキンチョふたりのためにヤクの切れたジャンキーみたいな目に遭うとは。ちきしょー、こーなったら逃げてやると意志だけは立派だが、実際は玉砂利の上を打ちあがった人面魚みたいにぴくぴくしていると、そこで住職に見つかった。
助かった! お祓いしてもらおう! 丸丸相手に下げていた頭をそのまま一八〇度転換して坊主に下げる。
「無茶を言われても困ります」と住職。「わたしはそういう霊感とかは強くないんです。それでもいいならお祓いをしますが、ちゃんと霊感のある人を呼んだほうがいいでしょう」
二十分後、住職に電話で呼ばれ、コノダと名乗る男が車でやってきた。住職よりも年配で、というより住職が割と若かった。コノダは作業着のジャンパーに似ているが、実は違うものを羽織っていて、霊能者が持っていそうな十字架とか水晶の数珠とかお札とか、そういったものはなにひとつ持っていない。
おいおい、このおっさん、本当に大丈夫なのか?と思ったが、助けてもらう手前、文句は言えない。
「やあ、若住職。また自殺未遂ですか?」コノダは歳が干支一回り上なせいか、フランクな口調で住職に話しかけた。
「いえ、そうではなくてですね、春王丸さまと安王丸さまに取りつかれたようなんです。こちらの少年が」
すると、コノダはちょっと腰を下ろして、敏樹と同じ高さの目線をキープしながら、マグロの買い付け人みたいな油断のない目で敏樹を見た。コノダの顔には細かい破片が顔全体に飛び散ったみたいにあばたがあり、それがひどく薄い上唇と妙に厚い下唇を囲っていた。引っ込み気味だが愛嬌のある目をしていたので、うまく売れればお茶の間の顔としてクイズ番組の名司会者になれたかもしれないが、それにはあばたが足を引っ張っただろう。4Kテレビは顔面偏差値に厳しい。しかし、コノダが売れっ子司会者になっていたら、こうして自分とも巡り会わず、丸丸さまの呪いでもっとひどい目に遭っていたかもしれない。
住職がスマホを片手にワクワクした様子で言う。「この子の除霊の様子をスマホで録画してアップしたらバズりますかね?」
「炎上するからやめときな」
コノダは霊能者っぽいことはしないまま、敏樹の左右の虚空をじっとかわるがわる眺めている。そこにいるのかもしれないと思うと、叫びたくなるが、そんな余力は先ほど朝飯と一緒に吐き出した。いざとなったら、コノダさんが霊をしばいてくれるに違いないと期待し、耐える。
「見えますか?」と、住職。
「見えないな。まだ」と、コノダ。「ただ、ひとつだけ確かなことがあるよ。この子に憑いてるのはいつもの春王丸さまと安王丸さまじゃない」
「では、どうしてこの子はうちの寺に?」
「おれがききたいくらいだよ」
おれだってききたいよ、と言いたいが、先ほども言った通り、敏樹には余裕がない。
ウーム、見えないな、とコノダはしばらく繰り返しているうちにやっと霊能者っぽいことをした。ふーっ、ホントは嫌なんだけど、と言いながら、地方の信用金庫で配っているメモ用紙一枚と鉛筆を一本、敏樹に渡して、
「これに丸描いて」
「丸?」
「そう、丸。まあるい丸」
春王丸さまと安王丸さまではない何かに取りつかれている身としては鉛筆を握るだけでも大変な苦労で、実際出来上がった○はウクライナみたいな形をしていた。
「まあ、これでもなんとかなるだろう」
コノダは敏樹から受け取ったウクライナの一筆書きを四つ折りにして、口のなかに入れ、ひどく嫌そうな顔をして飲み込んだ。
「やはり霊が?」と住職。
「いや、普通に紙を飲み込むのがエグいだけ。でも、仕方ない。これ、やらんと見えんから」
「で、見えましたか?」
「ああ、見えた。ただ、少年よ。その前にききたい。お前さん、生まれつきの傷痕みたいなものをひとつ持ってないかい?」
敏樹はうなずいた。たしかに背中の腰よりの左側にうっすらとだが、傷痕みたいなものがある。ここにきてコノダさんの霊能者化が加速する。
「そうか、そうか。じゃあ、な、少年。教えてやる。お前に憑りついているのはテニスボールだよ」
あれから敏樹はテニス部に入った。
ひとりで壁打ちをするのが楽しくて楽しくてしょうがなく、時間さえあればテニスボールをぶっ叩き続けている。ボールをぶっ叩くことに対するその貪欲な食らいつきは飛びぬけていて、この高校で初のインターハイ出場も夢じゃないレベルだということだ。
あの後、敏樹はコノダさんから入れ知恵をしてもらって、それをもとに両親をゆさぶり、自分が生まれた病院へ連れて行ってもらい、そこでホルマリンのなかに入った彼の双子の姉――テニスボールくらいの大きさで敏樹の背中にくっついていた姉とご対面した。
それ以来、ボールが殴られたり蹴られたりするのを見て、体調が悪くなることはなくなった。
それどころかボールを殴ったり蹴飛ばしたりできるようになった。
今日も元気に壁打ちを繰り返す。
「おらっ! くらえ! このクソビッチ! よくも散々苦しめてくれたな、てめー!」
仲の良い姉と弟など、フィクションの産物ですよ。