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その頃、戸部に残った暁雅は、隣から聞こえる押し殺した笑い声をどうするか悩んでいた。
「……くっくっくっく……」
「踏青……」
「ひっひっひっ……あーっはっはっはっはっは……!」
「……笑いすぎだ」
ワザとらしいまでに腹を抱えて笑う戸部尚書に、怒鳴りたい気持ちを抑えて息を吐く暁雅。
笑いすぎて目尻に涙を溜めた踏青は、茶色の髪に少し白いものが混じってきているが、彫りの深い甘い顔立ちをしていて、昔から女官に騒がれている色男だ。常に笑顔でいるため、腹の読めない『喰えない戸部尚書』として、その実力を遺憾無く発揮してくれている。
対外的には、ただの有能な部下の1人ではあるが、踏青は生まれた時から側にいた、年の離れた兄のような存在だ。主従の関係はあれど、こういう限られた空間ではこの通り、全く気兼ねない。
「はははっ……はー……いやー、申し訳ございません。陛下が甘いものがお好きだとは存じ上げず……今度は砂糖漬けでも贈らせて頂きますね」
「……頼むからやめてくれ……」
「あはははははっ」
遠慮のない言葉の応酬は、普段飾り立てた言葉を聞かされ続ける立場からすると、とても心地良い。皇族であり、『瑞兆』と言われる色彩を持って生まれた事で、常に虚構と隣り合わせのような生活をしているのだ。
時にはこうやって、踏青や沙耶と、くだらない対等な雑談を楽しむぐらいの息抜きは許してほしい。
もちろん、あまりおおっぴらに聞こえる声で続けるべき会話でないことは理解している。
当然のように、踏青が部下たちに指示を出した。
「お前たち、この書類を分担して、各省と折衝してきておくれ。私の名代として、妥協の無いように」
簡潔すぎる説明でも、全てを把握したらしい戸部の面々は、素早く立ち上がって書類を受け取ると、きびきびと礼をして出て行く。
最後の1人が丁寧に扉を閉じると、
「……これで沙耶が戻ってきても、ゆっくり出来ますね」
あからさまに人払いをした踏青の笑顔に、苦笑を返す。
「お前の名代で折衝して来いだなんて、酷い上司もいるもんだな」
「おや。それぐらいしないと、うちの優秀な官吏たちは、すぐに仕事をこなして帰ってきてしまいますよ? ……せっかく陛下が、沙耶の……彼女の為に買いに行かれた焼き菓子です。それを貰い物だなんて……ほんと、健気で言葉もありませんね」
「爆笑していたのはどこのどいつだ!」
「あはははははっ」
2人になった途端、容赦なく痛いところを突いてくる踏青。
ムスッとした表情を隠すこともしない暁雅に対し、
「ふふっ、珍しく気に入りすぎて、融通を利かせすぎた挙句に、手を出せなくなってしまったなんて……涙が出ますね」
「……笑いすぎてか?」
「それはもう。珍事ですよね、気まぐれな陛下が5年も変わらずに、彼女を気にかけているだなんて」
「……そんなんじゃない……」
深く刻んだ眉間の皺をどうすることも出来ないまま、苦悩を零す。
「ですが、私は陛下に感謝しておりますよ。とても頼りになる部下を持つことが出来たのですから。……今更、彼女を後宮の姫として腐らせるなんて勿体なさすぎる」
「そうだな。後宮を脱走した挙句、官吏登用試験に挑んだと聞いた時には、なんて無茶苦茶な女だと思ったが……。あれでよく自分の適性を心得ている」
「沙耶の為にあらゆる手を回した陛下も、英断でしたね。しれっと私を後見人に仕立て上げたり、勝手な出自をでっち上げて、絶対に本人に確認を取らせないよう周知徹底したり」
「……俺が自由に出来ることなんて、存外少ないからな……」
自嘲気味に口の端を持ち上げる暁雅に、踏青が穏やかな笑みを向けた。
「貴方は十分、民のために尽くしておられますよ。私が誇りに思う皇帝陛下です」
「……いや……」
まだ足りない。
せめて、沙耶の尽力に報いる国にしなければ、自分が許せない。
彼女を後宮に縛り付けたのは、自分なのだから。
――絶対に、いつか他の女性を皇后として迎えなければならないというのに。
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