マッチラリの少女
橋桁のランプが降りゆく雪を照らしていた。それは白色と言うよりも、パンの生地の色に近かった。
私は冷たい石畳に手を付き、起き上がる。外はもう暗くなり始めていて、人の往来が目立った。
橋の上を行く彼らは暖かい屋根の下、質素な食卓を囲むのだろう。橋の下に住む私は暖はおろか、満足に食べることすらままならない。腹の虫は鳴き疲れて死んでしまった。
私はなんとか明日を迎えるために、夕食のための食材が集まる市場へ向かうことにした。決して道の内側を通らず、建物の壁に沿って移動する。
歩くこと数分。少しばかり遠めの市場に辿り着いた。ここは3日ぶりになる。
お目当ての紫色のテントの出店を訪ねた。
「あのう。パンは余っていませんか?」
私がいつもの口上を並べると、老婆は目を擦って顔をこちらに向けた。
震える手でカウンターの影からパンの欠片を取り出し、私の小さな手のひらに乗せる。ありがとう、と感謝を伝えてからパンを口に運んだ。ひと呑みだった。
すると私の背後から、私の胴回りはある太さの腕が伸びてくる。その腕は私を抱き上げ、そして市場の隅の方へ投げた。
「またお前か! 婆さんの食べ物を盗むんじゃねえ! あの痩せ細った顔を見てなんとも思わねえのか!」
彼の大きな手が私の顔を覆った。中指にあるタコが眉間をくすぐる。漁師である彼の仕事ぶりは、その稼業に留まらず優秀であるのが分かった。
暫く地面に擦りつけられた耳は感覚が失せ、痛くもなんともなくなる。何も抵抗する気が無くなったところで彼はその手を離した。
体温とともに起き上がる気力は失せ、眠気に従って目を瞑った。時折、頬に乗っかる雪がなんとも気持ちよかった。微睡みは深まり、徐々に意識が遠のいていく。
しかし、誰かが私の頬を叩いて起こした。市場とはいえ、隅っこで横になっている女の子が声をかけられるのは極めて珍しい出来事である。
気になって目を開けると16か17くらいであろう少女が膝を曲げて、私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か? こんなところで寝ちゃいけないよ」
彼女が手を差し出してきたので、それを掴むと彼女は私を引っ張りあげた。
多少のふらつきの後、改めて彼女を見てみた。いくつもの綺麗な指輪が指にはまっていて、その手が持つ鞄も豪勢に見えた。
彼女が小金持ちだと気づいた私は咄嗟ながらに頼む。
「少しでいいので食べ物を恵んでくれませんか。それか銅貨1枚でいいんです」
それを耳にした彼女は驚きつつも私に背を向けて走り去ろうとした。
すかさず追いかけて、袖口を掴む。すると、彼女の方から話しかけてきた。
「アタシは何もあげられないよ。他の人を当たってくれないか?」
厄介払いに慣れているような対応に、私も少しばかり腹が立った。別に彼女の態度が気に食わなかったのではない。少しばかり年上の少女がそれなりの財を築いていて、私のような貧しい人々に手を差し伸べないことに気が障ったのだ。
お互いに見合っていると、市場の中心方向から騒ぎに気づいた。後ろを振り向いて、何が起きたのかを確認する。
紫のテントが倒れていた。辺りに老婆とパンが転がっている。そして数人の男がその周囲を取り囲んでいた。相当な苛つきようだ。
袖を握り締めたままの私が提案をしてみる。
「ねえ。あなた、あの男たちを追い払って、おばあちゃんのお店を直してくれない? じゃなきゃ私が美味しいパンを食べられなくなるわ!」
彼女は溜め息をつくやいなや、私を引き剥がして男たちの方へ向かっていった。そのまま挨拶を交わした彼女らが一緒になって路地裏に入っていくのを目にした。
人集りが徐々に散っていくと、先程の漁師が老婆のもとへ駆け付けていた。持ち前の力でテントを立て直すと、パンを全部拾い上げて、老婆に返した。
目先の餌と天敵よりも、少女と男の方が気になった私は、裏路地を回って彼女たちが話している背後に着いた。耳を澄ますと、『マッチ』という娯楽薬物の名前が聞こえる。
「あいよ、これは1週間分の『マッチ』だ。毎度どうもね。来週は初めからここにいるよ」
「遅いんだよ。1秒もお客を待たせちゃいけないだろうが! ったく、早速キメなきゃいけなくなっただろうが......」
代金を差し出し、『マッチ』を受け取った男はお釣りで唾を吐きかけて闇に消えていった。
そして彼女は1人になり、その場に立ち尽くすばかりなので近寄って声を掛けた。
「あなた、それを売っているの?」
背後からの声に息を巻いて振り返った彼女は、私の姿を見るなり胸を撫で下ろした。
「ええ、そうよ。この稼ぎは汚いの。だからお嬢ちゃんにはお金を渡せない」
膝を曲げて同じ視線に立った彼女は、先程とは打って変わってにこやかに微笑みかける。
しかし、彼女の努めも虚しく、私の中の疑心は大きさを増した。
「あなたは“いけないこと”をしているの?」
「そうよ」
「じゃあ私も“いけないこと”をしてもいいかしら」
彼女は徐に立ち上がり、顔を背けた。
「アタシはマッチを売らなきゃ死んでいたかもしれない。今のお嬢ちゃんも同じなの?」
女の子は静かに頷いた。
「分かったわ」
この子に指輪をあげようとして鞄を置いたら、あの子に一瞬のうちに鞄を奪い取られ、市場の方に逃げられた。
慌てて追いかけたが、人混みに隠れた小さい女の子を見つけることは出来なかった。
どうにもこうにもならなくなったのでポケットを弄ってみると、硬めの感触を味わった。
アタシが取り出したのは1箱のマッチだった。
馴染みのある触り心地は箱だけで、葉巻を取り出そうとしたら1本落としてしまった。
いつの間にか積もった雪で湿気ってしまったそれは諦めるしかない。
仕方なく箱からもう1本別のを取り出した。
「ハハ。笑ってしまうよ。アハハ......ありゃアタシだ」
乾いた笑いは民衆の足音に掻き消され、マッチの煙は闇の夜空へと見えなくなっていった。