未完成〈泡〉程式
未完成〈泡〉程式
飛び込んだ先は海じゃなく空だった。海藻のような雲を突き抜けて深く深くへと潜ってゆく。渡り鳥の群れを追い越して、偏西風をかわしながら、遠く遠くへと想いをはせる。
――あと、あともう少し。
何があるかわからない、何かがあるのかもわからない。〈未知〉を求めて手を伸ばす。
――あと少しだけ……なのに、何故?
そこにあった青は空虚な夢に変わり、すべてが泡となって散ってゆく。
待って、待ってよ。あと少し、あと少しだけなのっ――
潜り進んだ場所から落ちてゆく中、ミトナはどうしようもなくみっともない仕草で手を伸ばしもがくのだ。まるで空中で撃たれた鳥のように、プロペラが壊れたヘリコプターのように。
こぼれてゆく涙が上に行ったか下に行ったか――ついにはそれすらも思い出せなくなって、朝を迎える。
「おはよう、桐島ミトナ。今日も素晴らしい一日が始まりそうね」
自分自身にそう言って、ベッドをおりる。カーテンを開けると昨晩の渡り鳥が町の空を飛んでいたが、全てを忘れているミトナはそれすら気がつくことはなかった。
どうしようもない喪失感だけが胸に残って、理由も知らずに涙を落とす。
これは、おとぎ話に捕まった、一人の少女の物語。
「――そうほとんど忘れたあやふやな情報じゃあ、さすがの僕お手上げってもんだよ」
青いキャップ帽をかぶり、黒縁メガネの背の高いその少年は、左手で眼鏡をとるとそのままくるくると軽く回した。
「そんな!カイトだけが頼りなのに!」
ミトナは机をたたいて講義する。
カイトと呼ばれたその少年は「うーん」とうなって腕を組む。
「いくら〈夢診断士〉の僕だってもう少し情報がないと。眼鏡を使って夢をのぞこうとしてみたけど、君、本当に忘れててよくわからない泡しか残ってないし」
場所はミトナの家から歩いて五分のカフェテリア。コーヒーが売りだと聞くけれど、ミトナもカイトもホットチョコレートをチョイスしていた。自称〈夢診断士〉のカイトはミトナと同じ十七歳。その名の通り悪夢や予知夢など〈夢〉を診断し、クライアントを安心させるのが仕事というが、本当のところはどうなのか。それでも幼馴染のミトナが頼らずにはいられないのは最近見る、よくわからない夢に参ってしまっているからだった。
甘いホットチョコレートをちびちび飲みながらミトナは愚痴る。
「ほんと、どうにかしてよ。毎日毎日、朝起きたらわけもわからず泣いて沈んで、自分に『いい日になる』って言い聞かして……たまったもんじゃないわっ!」
バンッ、と勢いよく机をたたく。他のテーブルの客が何事かと目を見開いて振り向く。「ああ、修羅場か」などと聞こえたがミトナは気にしなかった。
「ねえ、お願いよ。私とカイトの仲じゃない。それでもあんた夢なんちゃら士なの?」
「夢診断士、ね。……はあ、それなら少し手荒くなるけどやってみるか……」
カイトは眼鏡をかけなおすと、残ったホットチョコレートを一気に飲んで立ち上がった。
夜、確かにミトナは眠りに落ちた。でも、ここは?
上には暗い空が広がっているわけでもなく、月が顔を出しているわけでもなった。そもそも上がどっちかわからない。ミトナは空中で――いや、水中かもしれないが――とにかく宙にプカプカと浮かんでいるのだった。息を吐けば、気泡ができてのぼっていく。けれども反対に息を吸っても水が体に入ってくることはなかった。
無限に青を見渡して、ミトナはふと呟く。
「もしかして、夢?」
「――正解」
ミトナの吐いた泡の向かう先から若い男の声がした。
「カイト!」
ミトナは何とかしてカイトの方に行こうともがいたが上手く体が動かない。
「はは、どうやらうまくいったようだ。眼鏡を使ってダイレクトに君の夢に入ってきたわけだけど――まあ、わかんないよね。とりあえず今は僕も一緒だから安心して夢を見なよ」
安心して夢を見ろと言われても……
「確認だけど、今は前に見た夢の事は覚えてる?」
え?と一瞬止まって考える。たしかいつもは、空に潜って、鳥を抜かして……私は何を言っているんだ。
「覚えているなら、その通り行動してみればいい。大丈夫、今は明晰夢、つまりミトナ自身が夢だって認識してるから、君が思えばなんだってできるよ」
なんだって――よこしまな考えが浮かんだが今は置いておこう。とりあえずミトナはいつも通り潜ってみることにした。するとなんだ、さっきと違ってするすると体が動く。
クロールの要領で手を動かす。体の動きに合わせて気泡がうねる。水圧も浮力も感じずに、深く深くに潜っていく。
ふとカイトの事を思い出して、後ろを振り返るとすぐ後ろを同じようにしてついてきていた。どこかホッとして、再び進む。
白い渡り鳥の群れが見えてきた。彼らはどこを目指しているのだろう、そんなことを考えていたら、いつの間にか追い抜かしてしまっていた。
ミトナが追い抜かした瞬間に鳥たちが泡となって消えたのをカイトは見逃さなかった。ミトナから離れないようにして顔を険しくして進む。
急にミトナが立ち止まった。いや、動かなくなったという方が正しいのかもしれない。カイトはミトナの先に何があるのかと確認したが、今までと同じように無限の青が続くばかりだ。
「どうかした?」
ミトナはまっすぐ前を見つめたまま答えた。
「――私、いつもここで目が覚めるの。あと少し、もうすぐそこに――ってところで全部全部泡になって消える。あの先に私の知りたいこと、求めて焦がれて仕方ない〈何か〉があるんだけど、いつもそれにたどり着く直前で夢から覚める……」
「行かないの?」
カイトはミトナをのぞくようにして訪ねた。が、彼女はうつむいてよく見えなかった。ミトナは静かに首を振った。
「行けないの。知りたいって気持ちと同じくらい怖い。知ってしまったら、見てしまったら、きっともう戻れない。私も世界の泡に飲まれてしまうんじゃないかと考えると、行けないの」
そこでミトナは振り返った。ひどく儚い笑顔だった。
人の夢は基本いつも曖昧だ。つながりも終わりも、泡のように不確かになっていつか見た人本人からも忘れられる。それは人間の〈終わり〉に対する恐怖心からくるものかもしれない。〈変化〉を無意識に恐れているのかもしれない。
カイトはミトナをまっすぐ見て、微笑んだ。
「 」
すべてが泡となって散っていった。