孤島の王女
早朝、ビジーはプティを連れて出掛けた。サレトスに知り合いの弁護士を紹介してもらうためだ。
パルファンは、根回しをするため、知人の家に向かった。
プリムは、朝食を、誰かの食べ残しを合わせて、すべて平らげると、霊骸鎧に変身して、空高く出掛けていった。行き先は不明である。
残されたマミラは、パン屋の仕事を始めた。ビジーの母親がサラの面倒を見ている。
ジョニーは、手持ち無沙汰となり、マミラの仕事を見ていた。
マミラが、小麦粉を集め、こねていく。
キズスが不機嫌そうな表情で職場に来た。早朝の仕事に慣れていないのか、労働に対して不満を抱いているのか、やる気が感じられない。
「キズスさん。貴方を一人前のパン職人に仕込みますからね。これからも、一生懸命働いてちょうだい」
マミラが、キズスに伝えた。昨日までのマミラとは違う、とジョニーは感じた。両眼には強い意志が宿っている。
「アアン? なんで、俺がお前の命令に従わなきゃいけねえんだ? コラてめえ」
と、キズスが凄んだ。早朝でクルトが不在なため、威勢が良い。
「うるさいっ。口を動かすなら、手を動かす! やる気がないなら、クルトさんに言いつけるわよ」
マミラが一喝すると、キズスは静かになった。クルトの名前よりも、マミラ自身の迫力にキズスは圧されたのである。
マミラは作業に戻り、没頭し始めた。追いかけるように、キズスはマミラの仕事を手伝った。
マミラは目に涙を浮かべていた。
「お父さん、お母さん、ポーリーさん。それに、死んだポーリーさんの赤ちゃん。……皆のためにパンを作るね。皆の命は、無駄にしない。泣き虫な私だけど……。絶対に、絶対に美味しいパンを作って、お客さんを幸せにするからね。見ていてね……」
と、肩の袖で、目を拭った。
売り子のシビーノとタワーが来ると、パン屋は営業した。
シビーノとタワーは、よく働いた。二人とも強面だが、愛想が良く、声がよく通る。むしろビジーやプティよりも、堂々としていて、接客が上手い。
ビジーやプティがいなくても、仕事は回っているのであった。
「このお店のパン、美味しいです」
と、女性客がタワーに声を掛けた。タワーは恥ずかしそうな表情で、頭を下げている。
「なあ、俺たちみたいな奴らでも、褒められるんだな」
と、タワーがシビーノに肘で突いた。嬉しそうな表情であった。
「ああ、生きてて良かった。働いて良かったよ」
と、シビーノが頷いた。シビーノとタワーは、仕事を通して、自信を身につけている、とジョニーは思った。
当のジョニーは、仕事がないので、店の外に出た。
言葉を発せず、無言で立っているだけだ。呼び込みなど必要ない。客が客を呼び、独自の意思をもって、行列を作っていた。
空を見上げると、天気は青く、気分が良い。
周囲を見渡せば、今日も、シグレナスの通行人は多い。
人々が石畳の上を往来すると、砂埃を舞い散った。舞い上がった塵は、近くの噴水から出される水分と混ざり合い、独特な匂いを出した。匂いは、雑踏の中に消えていった。
噴水の向こう側が、急に騒がしくなった。
「大神官様……!」
黄色い声が、客の行列から巻き起こった。噴水の影から、大神官セロンが人々を引き連れて歩いている。
「どうして大神官様がここに……?」
と、若い女たちが顔を合わせて喜んでいる。
セロンが、ジョニーの存在を認めると、端正な顔立ちを緩ませ、白い歯を見せた。
「やあ、ジョエル・リコくん。先日は世話になったな」
と、セロンがジョニーに手を差し出した。ジョニーは無視した。
「この人、大神官様とお知り合いなの?」
若い女の客が、友人に質問している。
「私も大神官様とお近づきになれるかなぁ?」
友人が期待に溢れた声を出した。
「何の用だ? 大神官ともあろう御方が、このような世俗の店に来られるとは、意外だな」
ジョニーは、皮肉な笑みを浮かべた。セロンが気に喰わない。理由はよく分からないが、セレスティナの横顔が、脳裏を横切る。
セロンは、目を伏せた。
「我が弟、ボルテックスは来ているか? この店で会合する予定なのだ」
と、声を落とした。ジョニーは、首を傾げた。
「俺は聞いていないぞ。ビジーか誰かの許可を取っているのか?」
「取ってはいない」
セロンが気まずそうに応える。
「……ジョエル・リコくん。少しややこしい問題でな、大神殿も、自警団も関与があっては困る話なのだよ。パン屋に立ち寄ったら、たまたま三人が会っただけだ」
「大神官が、自警団の親玉とパン屋で会うなんて、そんな偶然があってたまるか。……三人だと? 他にもう一人いるのか?」
ジョニーがセロンに問いかけると、セロンの隣に、女が立っていると気づいた。女は白い頭巾を被り、顔を隠している。女の後ろには、数人の男女が従いている。
頭巾の中から、声が聞こえた。
「貴方が噂のジョエル・リコ様ですね。ストジャライズが、いつかはもう一度、手合わせをしたい、と申しておりましたよ」
「ストジャライズだと? “七鋭勇”の“黄金爆拳”だぞ? 貴様、セイシュリアの人間か?」
「私はセイシュリアの王女、エレナ・ドリューです。アレックス・エイル・カーマインは私の夫です」
ドリューは、自身の頭巾を軽く上げて、目を細めて微笑んだ。ジョニーは意外だった。セイシェルの王女が、自国の大神官セロンと一緒に歩いて、訪問をしてきたのである。
「これほど高貴な身分の人だ。ここで立ち話をするには忍びない。分かるかな。本来は、この御方は、シグレナスにいてはいけないのだ……」
と、セロンは軽く咳払いをした。穏やかであるものの、無言の圧力を、ジョニーに送っているのである。
(……どうすればいい?)
と、急に降ってきた難問に、ジョニーは考えた。
セロンやボルテックスはともかく、他国の貴人を店に招き入れるのである。他国どころか、シグレナスにとっては、セイシュリアは敵国に近い。下手をすれば、世界の様相を一変させる恐れがある。
世界中の重要な問題が集約され、いきなり胸元に突きつけられたような感覚に、ジョニーは陥った。
とはいえ、ジョニーは奴隷である。これまで考え、決断する立場になかった。いつもなら、ビジーか誰かの判断を待てば、物事は解決し、次の展開に進行していった。
ビジーは不在である。
「どうする? 早く決めてくれ。我々を受け入れるか、そうでないか。他の市民に気づかれては厄介なのだよ」
だが、セロンは待ってくれない。セロンは穏やかな表情を崩さないが、明らかに苛立っている。
勝手に来て、勝手に怒るなよ、とジョニーは文句をつけたくなった。
相手がボルテックスであれば、自分勝手な都合を押しつけてきても、あのボルテックスだからしかたない、と納得できる。
だが、セロンが苛立つ様子は珍しかった。いつものセロンであれば、強引に向かってこない。
セロンの苛立ちは、責任感から来ている。隣のエレナ・ドリューに対する配慮を源泉としているのだ。
(セロンは、いちいち苦労を背負う傾向にあるな。普段の行いが悪いのかもしれん。さて、どうする? ……ビジーであれば、どうする?)
と、気持ちを切り替えた。自分がビジーになったつもりで思考を張り巡らせる。
「店の中まで案内しよう。奥の部屋で待てば良い」
と、自然と言葉が出てきた。敵国の王女を往来に放置していては、問題がある。とりあえず、店に匿い、その後にビジーが帰ってくれば、ビジーの指示を待てば良い。
ドリューのお付きが二手に分かれた。一方はジョニーたちに従いて、もう一方は店外で立っている。余計に目立つのでは、とジョニーは眉をひそめた。
店内を通過し、調理場に入る。
「ジョニーくん。お客さん? 大神官様? この人たちは?」
と、ビジーの母親が驚いた。連続して質問をしてくる。
パンの焼き具合を見ていたマミラと、パンを運ぶキズスが視線を送る。
ジョニーは、落ち着いた口調で説明した。
「客だ。この店を待ち合わせ場所にしたいらしい。もっとも、俺たちは呼んでもいないがな。……しばらく、ポーリーの部屋を借りるぞ」
今は亡きポーリーの住まいにセロンとドリューを誘導した。セロンとドリューは隣り合わせに座り、対話を始めた。
ほどなくして、ビジーの母親が水差しと杯を運んできた。
セロンが、ドリューに肩を寄せ、話を切り出した。
「カーマイン王子の裁判は、悪い方向に進んでいます……。明日の判決は、最悪の状況を想定するかもしれません」
声がかすかに震えているように、ジョニーには聞こえた。
「カーマイン……? カーマインが裁判をしているのか? カーマインは、たしか俺たちがシグレナスに戻った時点で、解放されたのではなかったのか?」
と、ジョニーは口を挟んだ。
「解放はされなかった。……カーマイン王子は帝国に逮捕されたのだ」
と、セロンは頭を振った。両肩から、無力感が漂っている。
「どうして逮捕された? ボルテックスの支配下にあるのではないか? 勝利した者が、負かした相手を自由にできる取り決めであったはずだ」
「生殺与奪権は、ボルテックスに与えられなかった。シグレナスに戻った時点で、帝国に権利を取り上げられたのだよ。カーマイン王子は、セイシュリアの軍団“七鋭勇”とともに、シグレナスの領土内に踏み入れた。カーマイン王子は、霊落子の移送をしただけと主張しているが、帝国はカーマイン王子の行為を侵攻行為と見たのだ。……このままでは、カーマインは死罪は免れないだろう」
「難しい話はよく分からんが、カーマインは裁判で死罪になりかけている。……ドリュー王女は、夫の助命に来たのだな」
と、ジョニーは理解した。
ドリューは頭巾を外し、明るい金髪を見せた。長い髪を器用に編み込み、短く見せている。夫の死が目前に迫っているにもかかわらず、表情から不安げな感じはない。高貴な家柄の人たちは、どこか余裕がある、とジョニーは思った。
「はい、つてを頼って、大神官様にお願いしに参りました。聞けば、ライトニング・ボルテックス様は、大神官様の弟君だとか。大神官様に似て、寛容で立派な方かと」
そうでもないよ、と、ジョニーは否定したくなったが黙っていた。
「ねえ、ジョニーさん。あ、ごめんなさい」
と、マミラが、部屋の中に入ってきた。マミラは、手に紙を持っている。
「なんだ?」
「お客さんが、銀札を持った来たの」
紙切れを見せられた。紙切れには、複雑な模様が描かれている。剣に双頭の蛇が巻き付いている。
「シグレナスの紋章だな。なんだこれは?」
「銀札っていうの。お金の代わりだって。皇帝陛下の命令で、銀貨の代わりに発行されたの。こんなお金、どこにも使えないわよね。私の友だちは、銀札なんて受け取ったら駄目だって怒っていたわ。……紙で作ったお金なんて、いくらでも偽造できるでしょ。もらったこの銀札が、偽札かもしれないでしょ。ねえ、ジョニーさん。どうしよう? 受け取ってもいいかな、それとも、断ってもいいかな? ビジーさんやプティさんはまだ帰っていないし、私じゃ分からない」
と、不安がるマミラに、ジョニーは首を捻った。
「こんな紙切れが金の代わりになるだと……? 皇帝の考えがよく分からん。銀貨を鋳造すれば良いだろう」
手首を振って、銀札なる紙切れを空気に泳がせた。勢いが余れば、簡単に破ける程度の強度だ。銀貨の代用品にしては、脆すぎる。
「私には、わかんない。ねえ、どうしよう。受け取る? 受け取らない?」
断れば、客の機嫌を損ねる。受け取れば、受け取ったで、偽札だった場合、店は損をする。 ジョニーは、またもや重要な決断を迫られているのだ。
(本日二回目だな。俺の意思に反して、いきなり問題が飛び込んで来やがる。さて、ビジーだったら、どう判断するだろうか……?)
だが、ジョニーの思案はすぐに中断された。
「お客さん、帰りましたよ? お釣りはいらないって」
と、シビーノが間抜けな口調で報告しに来た。
マミラが驚いた。
「えー? どうして帰しちゃったの? 偽札が出回っているっていう噂よ。この銀札が偽札だったら、どうするの?」
「でも、さっきのお客さん、いっぱいパンを買ってくれたし……。偽札だなんて、どうやって判断するんです?」
マミラとシビーノとの間で口喧嘩が始まった。
セロンが、いきなり立ち上がった。顔は紅潮していた。
「今の政権は狂っている……。あの皇帝では、駄目だ。帝国が混乱する」
と、セロンは不敬を呟いた。弱々しい声の中でも、どこか怒りが含まれていた。
なんだか弟のボルテックスに似てきたな、とジョニーは思った。
「どんなに市民が汗を流し働いても、政治が腐っていれば、すべての努力が無駄になるのだ。銀札を発行するだと? なぜこんな無意味な真似をするのだ? 市民を騙せるとお考えなのか? 私は、銀札を発明しました、と、後世の歴史に名を刻みたいのか? 経済を、景気を良くしたいのか? であれば、無駄な出費を抑えるべきだ。元老たちや富豪は、無駄遣いばかり。無駄な建物を建て、無駄な道路を開発する。税金の無駄遣いを今すぐ止めるべきだ! 世間の不満を逸らすために、“混沌の軍勢”を攻め込んだ。だが、それでも、景気は良くならなかった。今回の戦いで、一部の奴隷商人と、戦争に関わった富豪だけが潤ったのだ」
と、セロンは手振り身振りで、全身から熱い汗を出して演説をしている。観客は、ジョニーとエレナ、マミラとシビーノくらいである。
「我々は訴えなければならない。……シグレナスの指導者たちは、質実剛健であるべきだ。私腹を肥やすために、政治を玩具にしてはいけない。そんな玩具のような紙切れを、世に出してはいけない。ジョエル・リコくん。そうは思わないか?」
ジョニーは返答に窮した。政治の話題など、興味がない。
マミラが目を輝かせて、頷いている。
「大神殿は政治に関わらないと、ボルテックスに伝えていなかったか?」
と、ジョニーは腕を組んだ。セロンは考えを変えた。
「よくぞ訊いてくれた。……私は、大神官の立場にありながら、政治に無関心すぎたのだよ。権力争い、利権争いが嫌いだった。だが、前回、君たちと一緒に冒険をしていて、よく分かった。いくら霊落子を保護しても、救出しても、霊落子を弾圧する、そもそもの政治が変わらなければ、何も変わらないのだ、と。だから、私は変わる。政治を変えてみせる。どんな人でも安心して生きていける政治を、私たちの手で取り戻そう」
「それで、カーマインの話に繋がるわけなのだな」
と、演説の途中に、ジョニーは口を挟んだ。
「そうだ。絶対に、カーマイン王子を死罪にしてはいけない。カーマイン王子を無事に送り返さなければ、シグレナスとセイシュリアは、遺恨を残すであろう。最悪の場合、戦争になるかもしれない。皇帝陛下はどうお考えなのか分からないが、カーマイン王子を死罪になさるおつもりだ。しかし、死罪では戦争になる。戦争だけは、絶対に避けなければならんのだ。か弱き市民が巻き込まれる。……私は、腐敗した政治を許さない。悪を倒し、正義を示すと決めたのだ……」
と、セロンは演説を締めくくった。
ドリューは希望に溢れた瞳で、セロンを見つめた。力強く頷いている。
「素敵……」
と、マミラは手を合わせて、セロンに見惚れていた。
ジョニーは、まったく興味がなかった。
そうですか、はい、頑張ってください、としか反応できない。
セロンの演説が、どこか遠い場所で起こっている現象に感じた。
ビジーの声が近づいてきた。
「受け取ってしまってはしかたない、とりあえず預かっておけば? あとで交換してもらえるはず」
と、ビジーがシビーノに指示を与えている。
ビジーが、プティとサレトスを連れて戻ってきた。
「ただいま、ジョニーの兄貴。弁護士の先生と話したけど、有能そうな人だったよ。……大神官様が来られているんだよね」
セロンとジョニーは、ビジーにドリューを紹介した。裁判を通して、カーマインの命が危うい状況であると、説明をする。
「そうでしたか……。大変ですね。でもなんで、おいらたちのお店を集合場所にしたのかよく分からないけど」
と、ビジーはジョニーと同じ疑問を感じていた。だが、セロンは黙っていた。
ボルテックスが姿を見せない。
気づけば、夕方になっていた。
店内には客が残っておらず、マミラたちが後片付けをしている。シビーノやタワー、キズスまでが黙々と仕事をこなしていた。
「ボルテックスはもう来ないのでは? おいらたち、そろそろ帰りますよ」
と、ビジーがセロンに伝えると、ボルテックスが来店した。
「よお、おまたせぇ」
なにか酒を引っかけてきたのか、足取りが心許ない。ボルテックスの後に、クルトが従いて来ている。
マミラはクルトの存在に気づいて、目を潤ませた。クルトは、マミラを見つめ返した。クルトの鋭い目は、ジョニーに喧嘩を売っているときと違って、暖かい色が帯びていた。
ボルテックスは、酒で熱っぽくなった息を覆面の隙間から吹き出しながら、椅子に下品な音を鳴らして座った。
「おい、なんだ、この店は? 客が来たってのに、水も出ねえのか」
と、ボルテックスは机を叩き、喚いた。
ビジーは眉間に皺を寄せていた。ボルテックスを快く思っていない。以前から、いや、今現在もである。
ドリューは、不思議そうな顔をした。前評判と違って、実際のボルテックスは下品すぎる。
セロンは、頭を抱えていた。弟にいつも振り回されている。いつも気苦労が絶えない。
「ボルテックス。俺たちは好意で場所を提供してやっている。それなのに、水を寄越せ、と不平不満を垂れるのは、お門違いだろう」
ジョニーは、ボルテックスを窘めた。ボルテックスの厚かましさに腹が立つ。
「なんだ、てめぇ。会長に舐めた口をきくな」
と、クルトが凄んできた。ジョニーが相手だと、条件反射的に迎撃態勢を取ってくる。
「貴様ら自警団は、本当に面倒くさい奴らだな」
と、ジョニーは呆れ返った。営業妨害である。まとめて追い出しても、裁判で訴えられないだろう。
結局、ビジーの母親が新しい水差しと杯を持ってくるまで、ジョニーとクルトは額をこすりつけあい、にらみ合っていた。
「ライトニング・ボルテックス。お初にお目に掛かります。私は、エレナ・ドリュー……」
ボルテックスが杯の水を一気飲みしていると、ドリューが一礼をした。
「すとぉッぷ、セイシュリアの王女様。お話は聞いておりますですよ。余計な前置きは、ナシだ。早速、商取引の話をしましょうや」
と、ボルテックスは太い指を鳴らした。机に太い脚をのせ、厚い胸板をふんぞり返らせた。
ジョニーは嫌な予感がした。ボルテックスが動くと、事件が起きる。
「商取引? どういう意味ですか?」
と、ドリューは不思議がった。ボルテックスは鼻で笑う。
「あのなあ、お嬢さん。世間ってもんはな、タダじゃあ人は動かないんだぜ。見返りが必要だ。いくらなんでも人の命を一人救うんだ。金や労働力がかかるんだ。下手すりゃあ俺たちだって、死罪になるかも分からねえ。それを承知で、俺様はアンタの頼みを聞くんだからな、先に報酬の話をしたって良いだろう?」
と、ボルテックスは舌なめずりをした。ジョニーの嫌な予感は当たった。
「分かりました。ライトニング・ボルテックス。貴方は、何をお望みかしら?」
と、ドリューは淡い色で着色された唇を結んだ。
ボルテックスは覆面の覗き穴から、邪悪な笑みを浮かべた。舌で、自分の唇を舐めた。
「ドリュー王女。アンタは港町バスティアンを通って、ここシグレナスまで来たんだろう? バスティアンは、シグレナス最大の湾岸都市だ。セイシュリア、いやヴェルザンディからの船荷が届く、港なんだよな」
「……どういうお話でしょうか?」
「……うちのボルテックス商店で船荷の積み卸しをする権利をくれ。そう約束してくれるなら、アンタの旦那さんを助けてやってもいいぜ」
港の利権をよこせ、そうすればカーマインを助ける、とボルテックスはドリューに伝えたのであった。
「そんな約束、セイシュリアでは、できません。バスティアンはシグレナスの港ですから、積み卸しが誰がするかなど、シグレナスの方たちが決める話です」
と、ドリューは、厳しい口調で反論した。一国の王女である。ボルテックスを相手にして怯まない。
「分かってねえな、レディ・ドリュー。アンタたちセイシュリアとしては、ボルテックス商店以外には、積み荷を渡しませんよって宣言するだけでいいんだ。さもないと、セイシュリアからの商品は、シグレナスに流れない結果になる」
「それでは、シグレナスもセイシュリアも困ってしまいますわ」
「知らねえな。むしろ、望むところだ。シグレナスもセイシュリアも、困ってしまえば良い。俺たちには関係ないね」
と、ボルテックスは大声で笑った。下品で、自己中心的な、大きな子どものようであった。
「呆れた。貴方には、愛国心も正義心もないのですか? お金儲けしか頭にないのかしら?」
「当たり前だろう? 俺たちは食っていかなきゃならねえ。食えなきゃ、愛国心だろうと、正義心だろうと、糞の足しにもならねえだろうよ。そのためには、仕事が必要なんだよ」
「ライトニング・ボルテックス。貴方には、愛がないのですか? 貴方もアーガス教の信徒と聞きます。慈悲の心こそ、アーガスの教えなのでは?」
と、ドリューが突き刺すような口調で、ボルテックスを諭した。
アーガスの名前を出され、今度はボルテックスが動揺する番だった。
「俺は、アンタの旦那と正々堂々と決闘して、勝ったんだ。アーガスの名にかけて、な。ゴチャゴチャ文句を出されたら敵わねえよ」
ジョニーは、ボルテックスがカーマインに勝った、というより、勝たしてもらったという印象を持っていた。ボルテックスが、カーマインよりも先に倒れていた。先に倒れたら負け、とボルテックスが事前に説明していたから、実際はボルテックスの負けなのである。
「レディ・ドリュー。どうするつもりだ。判決は、明日なんだぜ?」
と、ボルテックスは、やり返した。自分の不安を押し殺すような口調である。
言葉を詰まらせるドリューに、ボルテックスは目を光らせた。
「だったらよ、もう決断しろよ。この覚書に名前を書いてもらおうか。どうする、旦那を見殺しにする気か、それとも、助ける気か? おら、決めろよ、アアン?」
と、机を激しく叩いた。部屋が揺れ、空気が緊張した。片付け作業をしていたマミラやシビーノたちが動きを止めた。
「おい、いい加減にしろ。この店で暴れたら、俺が許さん」
と、ジョニーは一歩前に出た。ボルテックスの態度を見ていて、気分が悪くなる。
クルトがジョニーの前に立ち塞がった。
「なんだと、こら……」
「また貴様か。いい加減にしろ」
ここで、クルトを殴っておけば、ボルテックスは静かになるかもしれない。
ジョニーが殴る前に、ドリューが口を開いた。
「分かりました。……誓いましょう。ボルテックス商店に、積み卸しの権利を与えます」
「へっへっへ。それは申し訳ねえな。じゃあ、この書類にササッと名前を書いてくれよ」
と、ボルテックスが、紙と筆をドリューの両手に滑り込ませた。
ドリューが覚書に名前を書いている間、セロンはボルテックスに話しかけた。
「……どうするつもりだ? 判決は明日なのだぞ」
弟ボルテックスの目に余る行為に、セロンは疲れ切っていた。
「こっちには軍師殿がいらっしゃる」
と、ボルテックスは、ビジーを仰いだ。
「おいらですか? ……おいらに用事があるから、うちの店をドリュー王女の会見場所に選んだんですね」
と、ビジーは合点が行った。ボルテックスとセロンに向ける視線には、軽蔑の念が含まれていた。
セロンは腕を組んで俯いていた。セロンの態度から、ジョニーはボルテックスの目論見をセロンはすべて知っていた、と気づいた。セロンは、いつも弟に振り回され、巻き込まれていながらも、弟が一番大切なのだ。
(腐敗した政治と戦う前に、まず弟をどうにかすべきだな)
と、ジョニーは思った。
「軍師殿、頼む……!」
ボルテックスは平身低頭、頭を下げた。
「カーマインが処刑されそうだ。な、軍師殿。頼む、人助けだ。この可哀想な王女様を救ってやってくれ。」
「人助け、なんて明らかに嘘でしょう。ボルテックス。さっきまでのやり方を見ていましたよ。貴方はお金儲けをしたいだけだ。それに、明日が判決なら、もう決まったようなものでしょう。裁判はひっくり返らないですよ。対応が遅すぎます」
「頼む、軍師殿の命令ならなんでも従う。金、女、欲しいものならなんでもくれてやる。頼む、頼むって」
床を頭で叩き、土下座では足らないとばかり、ビジーの足にまとわりついた。
「では、約束をしてくださいね」
足にしがみつくボルテックスを見て、ビジーは冷たく言い放った。
「えっ、どんな」
「もう今後は、うちの店を巻き込まないでください。うちはただのパン屋なんですからね。もし、また何かあったら、しかるべき場所に通報させてもらいますよ。今回の件だって、おいらたちには、一切、なにも得がないのですから」
「分かったよ……。もう、こんな真似はしねえよ」
慌てるボルテックスに、ビジーは両目を細めて、疑いの表情を作った。まったく信用していない。
「どうしよう?」
と、ビジーはジョニーを見た。
またもや重大な判断を委ねられている。
「知ったことか。ボルテックスの好きなようにさせろ。もう二度と来ないと約束するならな」
と、ジョニーは目配せした。ボルテックスは、面倒くさい。
「お願い、頼む、頼む……!」
と、ボルテックスが五月蠅い。
「しょうがないにゃあ……」
ビジーは、印を組んだ。
「出でよ、我が霊骸鎧……“執筆者”! 我が名は、ビジー・ブレイク」
ビジーの前に、霊骸鎧が現れた。
とんがり帽子を深くかぶり、高い襟が顔面を隠している。右手には、筆が握りしめられている。
ビジーが霊骸鎧“執筆者”と重なると、“執筆者”の隠れた顔面に二つの赤い光が、浮かんだ。
「これが軍師殿の霊骸鎧なのですか~」
と、ボルテックスは感心した。“執筆者”ビジーは御辞儀をした。奇術師のような動きで筆を掌の上に回した。
机の前に座り、一枚の紙に文章を書き始めた。
精密機械のように、見事な字を書き込んでいく。
「普段のビジーは字が汚い。だが、霊骸鎧“執筆者”に変身すれば、美しい字を書けるようになる」
と、ジョニーはボルテックスに説明した。
「字を書くだけなら、特に変身してもしなくてもいいのでは……」
とボルテックスは呟いた。この感想については、ジョニーは同意見であった。
ビジーは文書を完成させると、変身を解いて、紙をボルテックスに手渡した。
「明日、この文章を、皆の前で読み上げてください。……アーガス教でいうところの、奇跡が起きればいいですね」




