動物
ポーリーの居宅に戻ると、夜になっていた。
ビジーは、椅子に座って、ポーリーの机に両肘を立てた。手に顎をのせ、眠たげな表情をしている。ビジーの背後には、棚があり、本が並んでいる。
マミラはビジーの隣に立って、机の上を見ている。パルファンは口に指を当てて、全員の様子を窺っている。プティは呆然と天井を見上げている。
サレトスは、サラを抱き上げている。ビジーの母親はサラをあやしていた。
ビジーは全員が落ち着くまで待ち、口を開いた。
「ポーリーさんのご遺体は、安置所に預かってもらう。一週間待って、それから、寺院で火葬になる。それまでに、ポーリーさんの遺品整理とか後始末をしよう。でも、その前にポーリーさんのお友だちやご遺族にも連絡しないとね。旦那さんも見つけ出さないと。でも、旦那さんはともかく、ご遺族は、どこにいるんだろうか? 天涯孤独だって聞いていたけど……」
ジョニーには、相手の男が名乗り出てくるとは思えなかった。ポーリーが死ぬという前提を知って、子どもを作った男である。面倒事に首を突っ込むとは思えなかった。
「もしも、ポーリーさんを相続する人がいなかったら、お店は、どうなるのでしょう? あたしたち、大家さんがいないまま、お店をやり続けてもいいのかな?」
と、マミラが切り出した。表情は不安を隠し切れていない。
不幸があった手前、切り出せなかった話題ではある。だが、誰もが気になっていた。ポーリーの死を除けば、一番の重要な問題である。
「遺族がいなければ、帝国の財産になります」
と、プティが落ち着いた口調で、応えた。
「でも、実際は、帝国が管理できるはずがありません。……競売になるでしょう」
と、プティが肩を竦めた。
ビジーが指を鳴らした。
「競売? 競売って、皆で金額を見せ合って、一番高い値段を出した人が買い取る話だっけ? 魚の競りみたいな奴だね。まあ、そうなるよね。帝国だっていちいち土地とか建物とかの面倒を見られないよね。相続人のいない建物なんていくらでもあるし。だったら、さっさと市民に手放して、お金に換えたいよね。……競売は、おいらたちに、どんな影響があるのかな?」
「ポーリーさんとは違う人が、大家さんになりますね。新しい大家さんと仲良くできれば良いけど、だいたい大家さんとの人間関係が上手くいかなくて、借りている人は出て行くか、追い出されます」
と、プティが説明した。皆が息を呑んだ。
退去は、パン屋の閉業を意味する。
(プティの奴、本当に詳しいな)
と、ジョニーは驚いた。自分とは同じ奴隷の身分だが、自分は法律に詳しくない。喧嘩が得意なだけだ。反対に、プティは痩せ細っている。喧嘩には向いていない。
奴隷にも、得意不得意があるのだ。
ビジーは前髪をいじった。冷静さを保つための動作だと、ジョニーには分かった。
「新しい大家さんと仲良くできるとは限らないからね。追い出されそうになったら、どうしよう? 対策とかあるの?」
「裁判をするしかありません。ただ、その場合は、お金と時間がかかります」
「裁判かぁ。やりたくないなぁ。親父のときも裁判をしたけど、面倒だったもん」
と、ビジーは苦笑いをして、机に突っ伏した。
裁判、と聞いて、ジョニーはパルファンを見た。
パルファンの身分が奴隷かどうかを決める裁判だ。パルファンにとっては、自分のあずかり知らない場所で発生した、貰い事故のような話である。
「ですが、裁判を回避する方法があります」
と、プティが話を続けた。
「どうするんだい?」
ビジーが身を乗り出した。
「遺言です。遺言で、誰それにこの土地をあげる、と書いてあれば、その人が相続人になります」
「遺言かぁ。ポーリーさんが書いてくれていたらなぁ」
遺言。
ジョニーは、ビジーの背後にある本棚が目に入った。ジョニーは本棚を指さした。
「本棚に、ポーリーが何か書き付けを残していないか?」
「そうだね。……ポーリーさんは読書家だったんだね」
ビジーは本棚に手をやった。隣にいたマミラも手伝う。
ビジーは、素早い手つきで次々と頁を開いていく。まるで窓から吹き込む風を受けて捲られているかのように見えた。本当に読んでいるのか怪しくなるくらいの速度である。
「この本は、特に遺言らしき内容は何も書かれていない。……遺言は、頁の隅にでも書かれた走り書きでも効き目があるのかしら」
と、ビジーは一冊を棚に戻し、また次の本を取り出した。
「すごい、ご主人様。速読ができるんですね」
と、プティが驚いた。ビジーは図書館や自分の書斎にこもって、本ばかり読んでいる。ビジーがいつの間にか身につけた能力であった。
マミラの読書速度は、遅かった。一字一句、指で確認しながら読書をしている。あまり本を読む習慣のない動きだ、とジョニーは思った。
マミラが一冊を丹念に読み込んでいる一方で、ビジーは次々と読破していく。すべての本を読み終わった。
「遺言らしき本はなかった。紙切れとか走り書きとかもなかった。あとはマミラが読んでいる本だけだ。どう、マミラ? どんな内容だい?」
ビジーが優しく問いかけた。
マミラは、むせび泣いていた。
「これ、ポーリーさんの日記なんだけど……」
と、呼吸が苦しい口調で応えた。
「この日記を誰かが読んでいるとしたら、もう自分は死んでいるだろう、だって。でも、この子だけは、赤ちゃんだけは無事に産むって……」
赤ん坊と聞いて、ジョニーは鉄槌を握りしめたローザが、ポーリーの赤ん坊を連れ去った様子を思い浮かべた。
あの断末魔の叫び声が、あの痛々しい悲鳴が、耳の中に残っている。
「家族ができたって……」
マミラが、開いた頁を皆に見せた。
「あたしたちを、家族だって言ってくれている……。ずっと一人ぼっちだった……。でも、皆が来てくれたから、もう寂しくないって……」
と、日記を抱きしめた。
「あたし、パン屋を続けたい……。ポーリーさんのためにも、家族を守りたい……」
噛み殺した涙が、頬に伝う。
「そのためにも、旦那さんを探そうね。旦那さんがどう思っているかに掛かっている。話がまとまれば、パン屋を続けられるからね。……旦那さんについて、なにか書いていないのかな?」
と、ビジーが優しく質問した。マミラは、もう一度、ページを捲った。
「レイ・ブランディール。……。日記でも終わりの頃に出てくるけど。たぶん、この人だと思う」
レイ・ブランディール。
ジョニーは背中に、稲妻を打たれたような感覚に陥った。
胸がざわつく。
(なんだ、この感覚は?)
ジョニーは手を握りしめた。だが、マミラとビジーは、ジョニーの異変に気づかないまま、話を続けている。
「ずっとレイ・ブランディールの話ばかりを書いている……。でも、急に姿を消したって……」
「旦那さん……レイ・ブランディールは逮捕されたのかな? 多くの霊落子が移送される事件があったけど、あの事件に巻き込まれたのかな?」
ジョニーはサレトスを見た。サレトスは、無罪放免となったものの、逮捕された事件の当事者である。
「サレトス。……レイ・ブランディールに心当たりはないか? 霊落子は、霊落子同士の結束が強い、と聞いたが、貴様なら知っているかもしれん」
と、ジョニーはサレトスに訊いた。
「……知りません」
と、サレトスは即答した。
いくら繋がりが強いとはいえ、全員の名前をすべて把握しているとは限らない。ジョニーも、よく人物名を忘れる。久しぶりに会った知人の名前を忘れ去る状況は、よくある。
だが、サレトスの様子がおかしい。動揺を隠しているのようにも見える。
「日記には、こんな詩が書いてある。……多分、レイ・ブランディールの話だと思う」
マミラが、ポーリーの詩を読み上げた。声が涙で震えている。
君の荒い息が好き
君の青い毛並みに魅かれた
君の肉球を見たいな
無理だけど
突き出た口と鼻
鋭い牙は、宝石みたいに輝いてる
長い舌を見たら
困っちゃう
他の誰よりも、強い君
弟くんは、身体が細い
嬉しさが、尻尾に出る
「肉球……? 猫ぉ? レイ・ブランディールは猫の霊落子なのかも」
と、パルファンは嬉しそうに手を叩いた。パルファンは猫が好きかもしれない、ジョニーは疑った。
「だけど、無理って、どういう意味?」
と、パルファンが首を傾げた。ふんわりとした髪が、揺れる。
「霊落子は首から下が人間だから、肉球はないんだよ」
と、ビジーが自分の掌を見せた。肉球はない。
「それに、猫だと、突き出た口と鼻が説明できない」
肉球があって、口と鼻が突き出た生き物を、ジョニーは必死に思い浮かべた。
「狐かな? 口と鼻が、目から離れていますよね。牙がどうとか……」
と、プティは推理した。
「狐は嬉しいとき、尻尾に出るのかね。狐とか、単体で生きる動物は、あまり感情を出さない印象がある。ごめん、狐を飼っている人に知り合いがいないから、よく知らない」
ビジーの反論で、狐の説は却下された。
「他の誰よりも強い。他の誰とは、他の動物を意味するのか……?」
と、ジョニーは疑問を口にした。喧嘩や強さの話題には興味がある。
「強い動物といえば、獅子……? あるいは、虎とか。肉球あるし、あと牙が鋭い」
と、パルファンがネコ科の生き物を推してくる。本当に猫が好きなのだな、とジョニーは思った。
「獅子も虎も、猫と一緒で口と鼻が突き出ていない。それに、獅子も虎も、毛皮は青くない。青い特別な獅子とか虎とかなら、話は別だけど」
と、ビジーは頭を掻いた。
皆が思案に暮れる中、マミラが閃いた。
「犬!」
と、目を輝かせている。
「それだ。息づかいが荒く、牙があって、嬉しいとき、尻尾を振る。……レイ・ブランディールは犬の頭をした霊落子だ」
と、ビジーが手を叩いて喜んだ。
「青い犬の人を探せば良いんですね。人じゃなくて霊落子か」
と、プティが頷いた。捜索範囲が一気に限定され、喜んでいる。
だが、ジョニーには違和感があった。
「弟の身体が細いとは、どういう意味だ? それに、犬は、他の動物より強いか?」
と、違和感を言語化した。
ビジーが、ジョニーの疑問に反応した。
「レイ・ブランディールには弟がいるのかも。犬って、同時にいっぱい生まれるからね。……ねえ、サレトス。霊落子に、アポストルに兄弟の概念はあるの?」
「分かりません。二人が同時に入信すれば、ありえるかもしれませんが……。双子や兄弟のアポストルは、私は見た経験がありません」
「同じ特徴の霊落子とかは現れるの?」
「外見の特徴は一人一人、違います。似たような特徴もあるけど、微妙に違います」
「一人につき、一つの特徴……。霊骸鎧と同じだね。兄弟がいないなら、兄弟の線はないのか。……まあいいよ。青い毛並みの犬の顔をしたレイ・ブランディールを探そう」
レイ・ブランディールの考察は、終わった。
ジョニーは反対したかった。
何かがおかしい。
「でも、遺言は、どこかにあるかもしれない。遺言を探すんだ。本棚にないなら、別の場所にあるかもしれない。ポーリーさんは自分が死ぬと分かっていた。霊落子の子どもを宿していた時点で、ね。だから、遺言みたいな書き付けがあっても、おかしくない。……ポーリーさんの火葬が終わる前に、探そう」
ビジーたちは、家捜しをした。
戸棚といった家具の中身を調べた。ときには壁に耳を当て、ときには絨毯敷きをひっくり返して、隠し部屋や隠し箱がないか捜索した。
だが、何も出てこなかった。めぼしい発見物は、僅かな現金と、赤子用の服くらいであった。
「ポーリーさんの死を内緒にしたら、どう? ポーリーさんは生きていた、という設定で、このまま押し切っちゃえば」
と、パルファンが提案した。わりと悪知恵が働くな、とジョニーは苦笑した。
「でも、寺院にご遺体を届けたから、もう今更、偽装はできない」
と、ビジーは反論した。
パルファンは口を尖らせた。ビジーはパルファンの提案や考えを、すぐに否定する傾向にある。
「……ないなら、作っちゃえばいい」
と、パルファンが自分の拳を握りしめた。
ビジーの顔つきが厳しくなってきた。
「遺言を偽造するのかい? ……犯罪だよ。それに、もしも本当の相続人が出てきて、本当の遺言を持ってきたら、大変だ」
と、またもや反対した。否定する理由は、私怨があるのかな、とジョニーは思った。
「やるしかないでしょう……。誰か、字が上手い人に、ポーリーさんの筆跡を真似してもらったらどう?」
と、パルファンは眉間に皺を寄せた。ビジーの反論に、腹を立てているのだ。
「遺言を書くには、ポーリーさんの印鑑が必要だよ。筆跡なんて、誰でも真似できるから、信用されないんだ」
「印鑑なら、ここにある」
と、パルファンは、掌を開いた。中に、指輪があった。
「シグレナスでは、指輪が印鑑になるけど……。それって、本当にポーリーさんの印鑑かい? どこで見つけたの?」
と、ビジーが驚いた。
「……ポーリーさんから、死ぬ間際から預かったの」
ジョニーは、パルファンが嘘をついている、と感じた。
パルファンが死体からすぐに抜き取った様子を思い浮かべた。
ビジーが手を振って、困った表情を見せた。
「でもね、シグレナスでは遺言はただ書いているだけじゃ駄目なんだ。公証人がいないと、お役所に届けないと、遺言だって認められないからね」
「……知り合いに都合をつけてくれる人がいる。お金が必要だけど」
「賄賂を寄越せってね。……すべてバレたら、おいらたちは、犯罪者の仲間入りだね」
と、ビジーは身震いした。裏家業と付き合いがあったり、故人から遺品を抜き取ったり、ジョニーはパルファンは肝が据わっている、と感じた。
なるべく穏やかに法律を守りながら、四角四面に理詰めで物事を考えるビジーとは気が合わなくて当然である。
パルファンはビジーを睨んでいた。ビジーは目を合わさない。
すぐに意見が衝突する二人である。結婚には向いていないな、とジョニーは感じた。 そもそも、仕事仲間としても相性が悪い。
ビジーが知力を提供し、ジョニーが腕力を実行すれば、お互いの力を補って、余りある結果を残す。だが、ビジーとパルファンでは、生き方や考え方が根本的に違うため、いつも対立している。
マミラが、動いた。ビジーとパルファンの間に入って、パルファンの手を握った。パルファンの怒り顔は、柔らかくなっていった。
「お願い……」
と、パルファンがビジーの腕を指でつまんだ。爪を食い込ませ、上目遣いでおねだりをする。
ビジーは呆気にとられた顔をしていたが、顔が緩みだした。
「しょうがないなぁ……。やってみようかな」
と笑った。
戦術を変更したパルファンの勝利である。
「ジョニーの兄貴は、どう思う?」
ビジーがジョニーに問いかけた。パルファンのみならず、プティやマミラが一斉にジョニーを見る。
(何故、俺に訊く?)
視点の集中に、ジョニーは疑問を感じた。
「知ったことか。貴様の中ではもう決心がついているだろう」
と、ジョニーはそっぽを向いた。
「青い犬のレイ・ブランディールを探す。それと同時進行で、遺言を作成する。この家と店の相続人を、おいらたちとする。遺言は、弁護士に書いてもらおうか。秘密を厳守してくれる人が良いな。弁護士を探さなきゃ」
と、ビジーが話をまとめた。
「ビジー。パルファンは裁判を訴えられている。ついでの話だが、パルファンのために、弁護士をさがしてもらえないか」
「喜んで」
と、ビジーは笑顔になった。隣で、パルファンに手を握られ、ご満悦の様子である。
「でも、あまり弁護士に知り合いがいないんだ。シグレナスの弁護士で優秀な人ってそんなにいないんだよね。ろくに法律を勉強していない人でも、弁護士と名乗れば、弁護士になれるからね。せめて、公平な試験を実施して、免許制にして欲しい」
と、ビジーが困った顔をした。
「法律を知らずに、弁護士になる奴などいるのか? そういえば、俺を弁護した、ガプスとかいう弁護士がいたな。酔っ払いで、怠惰で、金にしか興味のない役立たずだった」
と、ジョニーは、弁護士ガプスの酒で赤くなった顔を思い返した。
もう一人、弁護士が優秀な弁護士がいた記憶がある。
覆面を被っていて、どんな顔をしていたか分からない。名前を思い出せなかった。
あの弁護士に仕事を任せれば良いのに……、とジョニーは思った。
「あの……」
と、サレトスが遠慮がちに手を挙げた。
「私の知り合いに弁護士がいるんですが、紹介しましょうか? アポストルですけど……」
「いいね、霊落子……アポストルの人たちは、法律関係が強いからね。あと、金融関係とか医者とか。知的職業に就いている人って、たいていアポストルだよね」
と、ビジーは頷いた。
外を見ると、夜になっていた。
「今日はもう遅いから、ポーリーさんに泊めてもらおう。いくらジョニーの兄貴がいても、女性ばかりで、赤ちゃんを連れて、夜道は歩けない。……今日は大変だったから、明日の営業は休みにしようか?」
「やります!」
と、マミラが立ち上がった。両眼は決意に燃えている。
「明日も働きます。お客さんが待っているんだから!」
ビジーたちは寝る準備を始めた。寝床は圧倒的に狭い。
扉を叩く音が聞こえる。
ジョニーが扉を開くと、女の子が立っていた。
「おまえら、いままでどこにいた……?」
独特の喋り方である。
「はらがへった。めしをくわせろ……」
涙を枯らしたプリムであった。
餌をもらえなかった犬のようだ、とジョニーは思った。




