癒し手
カレンは空中で身を翻し、両腕を広げて、針の湾曲部分をつかんだ。
カレンの体重で、巨大針が前後に揺れる。カレンは振り落とされまいと、身体を曲げ、針を支えるワイヤーに脚をかけた。
ワイヤーは揺れながら、動き出す。カレンは巨大針に掴まったまま、ワイヤーの先を見上げると、黒い天井にはレールが走っていた。巨大針は、レールに沿っている。
巨大針の進行方向に背を向けて、カレンはしがみついている。進行方向の先を見るには、カレンは首を回さなくてはいけなかった。ワイヤーにつながれた巨大な釣り針は、緩やかなカーブを描き、静かに進んでいた。
進行方向の反対側、つまり、カレンの前方には、後続の釣り針が、いくつも行列をつくっていた。
(レミィが危ない)
カレンは包帯に巻かれた……レミィの姿が頭に思い浮かんだ。レミィは、カレンの次だ。
後続の釣り針が一本、動いた。その先は、レミィの落下予想地点だと、カレンは思った。
カレンは、天井を見た。黒い天井の一カ所に、明るい四角ができている。
天井の暗い穴から、ゆっくりと光が現れた。
声が聞こえる。
(癒し手)
その光は青白く、また金色に輝いている。青と金色に移り変わる光の中心に、貝殻頭の姿が見えた。
ひし形の頭部を持ち、背中は、柔らかい素材の布に覆われていた。
落下速度は、羽毛のように緩やかだった。後続の巨大な針の上に、貝殻頭となったレミィは、つま先だけで降り立った。釣り針は、レミィの重みに反応して動き出した。
(君の心を読んだんだよ)
レミィの穏やかな声が聞こえる。レミィの穏やかな声に、カレンは、小さく困惑していた。地面から高さがあり、落ちれば死ぬ。生存領域は、巨大な針とワイヤーだけだ。
(ありがとう、危険に気づいてくれて)
レミィが釣り針を優しく蹴って、空中に浮いた。緩やかな動きで、カレンに近づいてくる。レミィの周りには、青と金色の輝きが、残り香のように漂っている。
「君も貝殻頭になれるんだね? インドラやナスティと同じように」
カレンは、レミィの重力法則を無視した動きに驚きながらも、質問した。レミィは首をひねった。
(貝殻頭……? 違うよ。“霊骸鎧”だよ)
霊骸鎧……?
初めて聞く言葉に、カレンも首をひねった。
(君の言う貝殻頭とは、彼らを意味しているんだね。僕らは、彼らを霊落子と呼んでいるよ)
レミィのつま先が、カレンの巨大針の先端にたどり着いた。
カレンは巨大針にしがみついて、レミィを見上げた。
「よく分からないけど、君たちを霊骸鎧と呼んで、貝殻頭たちを霊落子と呼べばいいんだね?」
情報の整理が追いつかない。レミィたちと「彼ら」は違う。
(ガルグからしてみれば、霊骸鎧も霊落子も同じものらしいね。……そんなことより、降りなくていいの?)
カレンは、背後から聞こえてくる機械音に気づいた。正確に言えば、巨大針の進行方向である。
カレンが振り返ると、機械が、棒状の物体を回転させていた。回転物は巨大な鎌で、通過した物を真横に切る動きをしていた。カレンは、自分の両脚が切り離される様子を想像して、身震いした。
回転する鎌の、さらに先には、柱のような機械があった。柱の両端に腕のような部品がとりつけられており、機械の腕は左右それぞれ、鉈を上下に振り下ろしている。
さらに、その奥には黒い台があり、貝殻頭たちが並んで釣り針の到着を待っていた。貝殻頭たちは、カレンほど視力が良くないらしい。まだカレンに気づいておらず、あらぬ方向を見て、動きを止めている。
分解!
蛙のような貝殻頭イーザルトルが、ガルグに伝えた言葉の真意を理解した。
巨大な釣り針といい、魚の解体をカレンは想起した。現在地は、巨大な台所のようだ。
このままでは釣られた魚のように解体されてしまう。
(僕の手を取って)
貝殻頭、いや霊骸鎧となったレミィが手を差し伸べる。
カレンは、レミィの包帯に巻かれた姿を思い返した。
「レミィ、君には僕を持てないと思うよ。……僕は君よりも重たいよ?」
と、心配した。だが、このままでは事態は好転しない。背後で機械の稼働音が聞こえる。
「ものは試しようだ」
カレンはしがみついている釣り針から右手を離し、レミィの手を握った。レミィと一緒に真っ逆様に落ちると予想していたが、外れた。
レミィの高度がわずかに下がっただけであった。
(……確かに軽くはないね。見た目は細くて軽そうだけど)
レミィの笑い声が聞こえる。余裕で、今の状況を楽しんでいる感すらある。
(少しずつ降りていこうか。そっちの手を離して)
カレンは、釣り針からもう片方の手を離し、レミィに全体重を預けた。
レミィの浮力が弱まった。徐々にピンク色の床が近づいてくる。
落ちているのではないかと、カレンは心配したが、レミィが静かにおろしてくれた。
ピンク色の床を踏む。柔らかい。
霊骸鎧“癒し手”から青い煙が立ち、煙の中から包帯のレミィが姿を現した。
レミィの声が聞こえる。
(あまり長時間は変身できないんだ)
カレンは、レミィに霊骸鎧のままでいてほしかったが、どうもレミィなりの事情があるらしい。
周囲を見渡した。
ピンク色が重なり合い、丘を造っている。丘の向こうに、動く影が見えた。
「ここから脱出しよう」
カレンはレミィの手を引いた。
貝殻頭たちは、カレンたちの到着を待っている。いつまでも来ないと、貝殻頭が不審に思うだろう。
包帯姿のレミィは、ナスティやガルグと違い、戦闘能力は期待できない。むしろ、カレンが守ってあげなくてはならない。
水中橋を思い返した。水中橋は武器を持っておらず、貝殻頭から逃げ惑うしかなかった。
霊骸鎧には、個性があって、それぞれに得意不得意があるらしい。
ピンク色に染まる丘を抜けていく。
カレンは素足だが、なま暖かいものを踏んだ。
「なんだこれ?」
足の裏を確認すると、赤くて、粘着質の液体だった。
カレンには、物体に見覚えがある。
カレンの脳裏に、映像が流れた。
突き落とされる人間に、巨大な釣り針が待ちかまえる。機械が切り刻んでいく。足下の赤い液体。
「分解」
イーザルトルの言葉を思い返した。
胃液がこみ上げてくる。
カレンは口を手で抑えた。
貝殻頭たちが、人間を集め誘拐し、この場で行っている所行を想像すると、カレンは胸をおさえ、叫びたくなった。だが、カレンは必死に我慢した。ここで冷静さを失えば、貝殻頭たちを呼び寄せてしまう。
(どうしたの?)
レミィが心配そうな声で訊いてきた。心に直接、であるが。
「……なんでもない。行こう」
レミィを怖がらせたくない。レミィは、もう気づいている。心の中を読めるようだ。だが、あえて動揺させたくない。
丘の上から視線を感じた。見上げると、武装した貝殻頭たちが矢をつがえている。
「逃げようっ!」
カレンはレミィの腕を引っ張った。
だが、レミィの腕が折れそうなほど細かったので、諦めた。その代わり、抱きあげた。カレンは胸の中のレミィに驚いた。細すぎる。このまま崩れてなくなってしまいそうだ。
カレンは走った。
レミィは軽い。利点と捉えよう。
「絶対に逃げ切るからね。安心して」
レミィを励ました。レミィは何も反応をしなかった。まるで死を受け入れているかのようだ。生に対して執着がない、とカレンは感じた。
逃げ切るとは言ったものの、カレンは自己不信に陥った。
逃げる?
どこに?
ここは、あいつらの本拠地なんだぞ?
どうやって、逃げるんだ?
カレンの逡巡をあざ笑うかのように、背後から、矢が風を切る音が聞こえた。
矢が、前方右斜め前のピンク色に突き刺さる。
矢に気を取られていると、滑る血に左足を取られた。
前のめりに体重が倒れそうになった。
このままでは、レミィが地面に叩きつけられてしまう。レミィ側に倒れまいと、体重を後ろに掛けた。脚で踏ん張るが、また血を踏んだ。
「ここ、めちゃくちゃ滑るっ!」
しかも傾斜である。カレンは体勢を保つために、走った。走らされている、とも言える。
眼前の下り坂は、ピンク色が薄まっていき、黒くなっている。
少し先には、完全に黒く、何も見えない。
「あそこに隠れよう!」
カレンは走った。黒い部分がなんなのか、分からない。断崖絶壁かもしれない。だが、ピンク色の空間にいる限り、貝殻頭の標的になってしまう。
ピンクより黒がマシだ!
周囲からピンク色が消えていき、視界が黒くなっていく。
カレンは、黒い地帯に脚を踏み込んだ。
冷たい、水の感触がした。
「黒い地帯は、水たまりだったんだ」
早速、水中橋を呼んだ。カレンはレミィを抱え、水中に飛び込んだ。
「最近、どんどん下に潜っていっているよね」
カレンは苦笑した。意識を集中すると、視界が広がった。
水中は闇に包まれていて、何も見えない。