忌み子
ショッキングな描写があります。閲覧注意です。
1
パン屋“戻りし者”が営業を再開して、数日が経過していた。
「こら、キズスさん。乱暴な持ち方したら、パンが潰れちゃうでしょう?」
厨房で、マミラがキズスを叱りつける。
キズスは、マミラを睨み返した。短く剃り上げた眉毛を寄らせ、瞳には反抗的な冷たい怒りがこもっていた。長年、不良をやっていた技術で、相手を威嚇して自分の都合に合わさせる能力だ。
だが、キズスは、威圧的な視線を感じて、すぐに大人しくなった。か弱い犬のように縮こまっている。
視線の主は、クルトだった。腕を組んで、壁にもたれかかっている。
キズスは、マミラに強気に出ても、クルトには逆らえない。クルトはマミラに惚れているので、マミラに反抗的なキズスを睨んでいる。
パン屋の厨房で、不思議な力関係が成り立っているのだった。
「クルトが、いつも来てくれているから、キズスはマミラに逆らえないね」
と、隣でビジーが悪戯小僧のように笑った。
ビジーの顔から余計な脂肪が削ぎ落ち、痩せて精悍になった。
キズスを前にしても、怖がらなくなった。マミラとクルトの影響力を利用して、むしろ、手玉に取っている。
(ビジーは、強くなった。そのうち、俺を必要としなくなるだろうな……)
サレトス救出作戦を終え、“七鋭勇”との対決を通して、ビジーは急成長した。
ジョニーはビジーと離ればなれになる感覚を覚えた。
ビジーとは長年、一緒に過ごしてきている。離れるとは想像すらしなかったが、どこか遠くに行ってしまいそうな気がしてきた。
ジョニーとビジーは厨房を離れ、売り場に入った。
売り場には客が溢れていた。接客には、タワーとシビーノが当たっていた。強面の二人だが、接客中は柔和な顔つきで、プティの指示に従っている。
ビジーの母親が、棚の陳列をしていて、サラはサレトスが面倒を見ていた。
パルファンは仕事をせずに、店の隅にある卓を、大家のポーリーと囲んで、話をしている。ポーリーのお腹は、さらに大きくなっていた。
ポーリーはビジーを呼び、二人の間に、ビジーが加わった。
ジョニーは、暇になった。
仕事を何も与えられていない。
タワーとシビーノの加入で、ビジーとパルファンも仕事がなくなった。仕事といえば、ポーリーと語り合うくらいだが、ジョニーには無駄話に加わる気がしない。
ごった返す客をかき分けて、店の外に出た。
店の外には、行列ができている。
客は話をして、自分の番を待っている。客は女が多かった。女の中に、不良たちが混ざっている。
「ここのパンって美味いよな。職場に持っていったら、現場の親分に、もっと買ってこいって命令されたよ」
「俺なんて、嫁にせがまれちゃってさぁ。なんで一つしか買ってこないのよって怒られたよ」
と、不良たちが、笑談している。嬉々とした表情から、ジョニーは不良たちが脅されて買い物をしているとは思えなかった。
ジョニーは店から離れ、身体を伸ばした。人が多く集まる場所は、苦手だ。
手を握りしめたり、開いたり、その場で足踏みをしたりした。
身体の調子が戻ってきた。
怪我による影響も、ほとんど残っていない。
日差しは心地よく、青空に浮かぶ雲の流れは緩やかであった。
(適当に、気の向くまま散歩でもするか)
と、ジョニーは考えた。シグレナスの街を歩く習慣は、久しぶりである。
「おい、リコ」
名前を呼ばれた。振り返ると、クルトが腕を組んで立っていた。険しい顔つきで、ジョニーを睨んでいる。
「リコ。面を貸せや。お前とは勝負が終わっちゃいない」
何事かと思ったが、喧嘩のお誘いであった。ジョニーは体調は万全ではないし、そもそも喧嘩をする気分ではない。それに、クルトには一度、喧嘩で勝っている。同じ相手を何度も殴っても、楽しくない。
「クルト。もうやめておけ。いくら勝負しても、貴様は俺に勝てん。無用な怪我をするだけだ。俺と喧嘩をするよりも、好きな女の隣で、楽しい時間を過ごすべきだと思うぞ」
と、ジョニーは諭した。セルトガイナーやフリーダたちとは仲間意識が、芽生え始めている。クルトの間にも生まれるかもしれない、とジョニーは期待した。仲間になるかもしれない相手と、何も理由なく喧嘩しても、ジョニーは得をしない。
「てめえ……。俺に喧嘩をせずに女の胸に逃げ込めとほざいているのか? 俺をナメているだろう」
と、クルトは怒りに肩を振るわせた。ジョニーとしては、別に侮辱している意図はなく、時間の有効活用を勧めているだけである。
「貴様は、本当に話が通じない奴だな。温情をかけてやった俺が、愚かだったようだ。いいだろう。……相手をしてやろう」
と、ジョニーは諦めた。肩を回して、首を回した。久しぶりの運動である。
(そこそこ痛い目に遭わせて、無駄な時間だと思い知らせてやる)
身体中の血液が、冷たい空気と一緒に駆け巡っていく。これまで眠っていた戦闘脳が、活発に動き出しているのだ。
ジョニーは、建物と建物の間にある裏路地を、喧嘩の場所に選んだ。
大通りの喧嘩は、通行の妨げになる。周辺住民の迷惑を考えれば、裏路地の喧嘩は最適解なのである。
クルトは、戦いの構えをした。
両腕を上げて、拳を目元の高さまで掲げて、脇を締めている。
(良い構えだ。……どこかで戦い方を学んだな)
と、ジョニーは、クルトの変化を瞬時に理解した。
戦闘能力は、構えを見ていたら分かる。
以前のクルトは、構え方が雑で、意図が分からなかった。いや、何も考えていない、とでさえジョニーは思っていた。クルトは実戦で喧嘩の経験を積んできた。よく言えば直感的で、悪く言えば、場当たり的のなし崩し的だった。
だが、今日のクルトは、構えに意図を感じる。顔面を守り、最短距離で拳を突く位置に腕を配置している。道場で習う教科書化した戦法を取り入れている。
「良いだろう。拳闘方式で、打ち合おう。拳以外は使用禁止だ」
ジョニーも、同じく構えた。拳のみとする決まりは、ジョニーにとっては不利である。腕の長さでは、クルトが勝っているのである。だが、蹴りも組みも使用可能にすると、体力の消耗が激しくなる。病み上がりのジョニーには厳しかった。
クルトは殴りかかってきた。
小回りのきいた動きで、小さい突きを連発してくる。大ぶりな攻撃で軌道が読みやすい、かつてのクルトは、そこにはいなかった。
クルトは成長したがっている!
ジョニーは楽しくなってきた。
身を屈み、ときには頭を振って、クルトの打点をすべて躱した。
クルトは動揺している。クルトの視点からすれば、木の枝や葉を殴っているような状態である、とジョニーは推測した。柔らかく躱し、また元にいた場所に戻る。
クルトの懐に飛び込んで、左脇腹に重い一撃を叩き込む。
爆発のような衝撃が、ジョニーの手から腕、肩にまでに伝わった。クルトは呻き、石畳の地面に足を滑らせ、転んだ。
腹を抱えて、苦しんでいる。白い額に、脂汗が滴らせていた。
「道場かどこかで学んできたのか? 強くなりたい心意気は買うが、所詮は、道場の内部でしか通用しない技術だ。まだまだ実戦に落とし込む余地があるようだな」
ジョニーは笑いを抑え、クルトの顔を覗き込んだ。
クルトは自身の眼を、怒りで煮えたぎらせている。
「リコ……。会長も、レダも、皆がお前を褒めていたがな。俺はお前を絶対に認めねえからな」
と、苦しみに悶えるながらも、言葉を絞り出した。
ジョニーは、そんなに嫌いですか、と困惑したが、襟を正した。
「知ったことか。俺は別に、貴様に認められたいために生きてはいない。だいたい、俺は貴様を好きでも嫌いでもない。貴様を貶めたり、傷つけたりする気はない。むしろ一緒に肩を並べて戦った仲間だと思っているのだが、どうも貴様とは認識が違うらしい。……とすれば、今回の貴様が苦しんでいる原因は、貴様の事情による、と考えるべきでだろう? 貴様の問題なのに、どうして俺を狙う?」
「うるせえ、俺は絶対に、お前に負けない。俺が負け続けるなんて、認めねえぞ。何度も、何度も挑戦してやる。お前が死ぬまで、俺はお前と戦い続ける。お前が死んだら、今度はお前の子どもと戦ってやる。……覚悟しやがれ!」
「貴様は、貴様に負けている。俺を倒せる日が来れば良いが、たとえ俺を倒しても、貴様は満足はしないだろう。曇った心を晴らさない限り、次に突っかかる相手を探すだけだ」
「どういう意味だ?」
床に倒れ込んだクルトを放置して、ジョニーは店に足を向けた。
肩を回し、雲のない、晴れた空に向かって伸びをする。
病み上がりの運動としては、悪くない。
2
店の外で、人だかりができていた。
客たちが、店の中を見て、騒いでいる。
「どうした? なにがあった?」
と、ジョニーは、客を誘導しているプティに話しかけた。
「大家さんが、ポーリーさんが、産気づいちゃったんです。ご主人様たちが、助産婦さんを呼びに行ったんですけど……」
「もう店は営業どころではなくないのだな……」
ビジーが戻ってきた。後ろに、小柄な女性が立っている。
ローザは皺だらけの顔で、白髪の混じった茶髪を後ろに束ねていた。歩き方がせわしく、いらついた表情をしている。
「あたしが、産婆のローザだ。ほらほら、どきな」
枯れ木のように細く、筋張った腕を振って、群衆を追い払った。ローラは全体的な見た目や動きは若々しいが、実年齢は、かなりの高めなのだとジョニーには分かった。
「ポーリーさんは、お家にいます。お店とお家が繋がっているんです」
と、プティがローザを案内をした。ジョニーも従いていく。
厨房の向こうに部屋があった。部屋は、店の事務室で、さらに奥には住居になっていた。
黒髪のポーリーが、寝台の上で呻いていた。大汗が黒髪にまとわりついて、身をよじらせている。ジョニーには、先ほどのクルトと様子を重ね合う感じがした。
マミラが汗を拭き、パルファンがポーリーの手を握って、声を掛けている。ビジーの母親は慌ただしく動いている。サレトスはサラのお守りに忙しい。
ローザがマミラたちをおしのけ、目を閉じて、ポーリーの脈を測った。
目を見開いた。
「女の人は、ありったけのお湯を沸かして! 男の人は全員、外に出ていって!」
と、しわがれた声で、叫んだ。指示をしている中、ジョニーを睨んだ。
まるで恨みでもあるかのような眼力である。
「あんたが、旦那かい?」
「ちがう。知らない間に父親にされてたまるか」
「旦那は? この子の旦那は今、どこにいるんだい?」
「知ったことか」
ジョニーの無関心ぶりに、ローザは下唇を噛み、神経症的に叫んだ。
「さっさと、旦那をお呼び! 探して、ここまで連れてきな! 仕事か酒か女か知らないけどね、アンタの嫁が一大事なんだ。ここで駆けつけなかったら、一生、詰られるってぇ伝えるんだよ?」
ビジーとパルファンが顔を見合わせた。
「ポーリーさんの旦那さんって、見た記憶がないんだけど。話題にもならなかったし。死んじゃったのか、別れたのか分からない。ずっと独身だと思っていた」
と、パルファンが呟いた。パルファンの見解によれば、ポーリーは私生児の母になる。
ビジーは頭を掻いた。
「色々と事情があるのかもしれない。おいらたちで探すだけ探してみるけど、今日中は無理かもね」
ジョニーはビジーたちと一緒にポーリーが行きそうな場所を回った。
聞き込みをしたが、特に有益な情報はなかった。
数軒は回った時点で、ビジーは、無意味だと判断した。徒労に終わったのである。
店に戻ると、あたりは暗くなっていた。
客たちの姿は、もうない。
タワーとシビーノが、台車に誰かを乗せていた。布で巻かれ、中が見えない。
台車の周りで、マミラが顔を腫らして泣いている。パルファンは打ちのめされたような表情で立っていた。ビジーの母親は、目頭を抑えて泣いている。サレトスは覆面のせいで表情が読み取れない。
キズスの姿はなかった。クルトの不在中に脱走したのである。
「どうした? なにがあった?」
ただならぬ雰囲気に、ジョニーは、パルファンに質問した。
「ポーリーさんが、死んじゃった。赤ちゃんを産んで……」
長い黒髪が布の隙間から零れた。パルファンの回答に、ビジーたちは息を呑んで、驚いた。冷たい氷が張ったかのような空気が漂った。
「赤ん坊は無事だったのか?」
と、ジョニーが質問をしたが、パルファンは首を激しく振った。瞳を潤ませている。
ジョニーは遺体の納まった台車の中を見た。布に巻かれているポーリーの隣に、小さな包みがあった。
「どうして……?」
と、プティは悲しげな声を出した。誰もが、知人の急な不幸に混乱している。
ビジーが、力なく下を向いた。
「お産は大変なんだ。母子ともに死の危険が伴っている。……医学技術がもっと発展していればいいのだけど、難しいね……。だけど、悲しんでいる暇はない。葬儀が先だ。早くポーリーさんを、寺院に連れて行ってあげよう……」
ビジーたちが、ポーリーと子どもの亡骸をのせた台車を押した。
ジョニーも手伝った。
マミラは大泣きしているにも関わらず、すれ違う人たちが、何食わぬ顔をしている。誰かの死は、無関係な人間にとっては、日常生活の片隅に起こった、些末な出来事にすぎない。
途中で坂になった。
「赤ちゃんは、人としてのカタチをしていなかった……」
と、味のないパンでも口に含んだかのような口調で、パルファンが、口を開いた。
「赤ちゃんの父親は……」
と、パルファンがサレトスに視線を送った。気まずそうな顔をしている。
「霊落子だったのよ……」
「なんだって?」
と、ビジーが驚いた。プティもつられて驚く。
ジョニーには理解できなかった。周囲は納得しているが、自分だけが事情を飲み込めずにいた。
「霊落子と人間の間に子どもは生まれない。子どもは、必ず死産するし、母親も死ぬ。たとえ、母親が霊落子であっても、人間であっても、だよ。だから、霊落子との結婚は、禁忌なんだ。根本的に違う生き物なのかもしれないね」
と、ビジーが解説する。自分のために解説してくれた、とジョニーは感じた。
「古い世代だと、霊落子との結婚は、家の恥だと教わった人が多いね。おいらの父親なんて、そういう人だったね」
「だから、ポーリーは誰が父親だと誰にも教えられなかったのか」
と、ジョニーは納得した。
自分と子どもが必ず死ぬと知っていて、赤子を腹に育てていた。
いつも平然と暮らしていたポーリーの心には、どんな葛藤があったのか、ジョニーには想像ができなかった。
坂を越えると、石造りの門に囲まれた、寺院があった。
寺院は、柱に覆われた建物で、中には神官と巫女が数人、顔を寄せ合って、話をしている。
背後から、しわがれた声が聞こえた。
「待たせたね。準備はできているよ」
と、産婆のローザが、片手に鉄製の槌を持って、立っていた。
だが、何よりもジョニーの目を引きつけた物体は、ローザが身につけている仮面だった。
仮面は、巨大な角と牙を兼ね備えた怪物の顔面を象っていた。怒り狂っているかのように見える。
仮面のローザは大股に台車に駆け寄り、小さな包みを取り上げた。
「何をする……?」
咄嗟の出来事で、ジョニーは止められなかった。
ビジーたちは黙っている。目を閉じ、顔を背けている。
ローザが包みをとると、包みの一部がはだけた。
ジョニーには、中から奇妙な物体が見えた。牛や豚といった家畜の内臓を裏返したような形状をしている。生肉のようにも見える。
生肉と違って、脈動し、体温を感じる。
包みから露出した部分に、眼球のような白い物体が二つあった。
何かを求めているかのように、激しく動いている。
ジョニーと目があうと、動きを止めた。ジョニーを静かに見つめている。
(こいつは、生きている……? 意思を持っている? 俺に何かを伝えようとしているのか?)
ジョニーの困惑に、ローザは口を開いた。
「今から、この“忌み子”を始末するよ……。アンタたちは、何も見ていない。聞こえていない。何もかも忘れるんだ。いいね?」
しわがれた声に、強い意志を感じた。
ビジーたちは目を閉じ、顔を背けたまま、賛同の声を出した。
ローザは赤子と鉄槌を持って、寺院の庭に入った。小さな壁に囲まれ、ちょうど人が一人隠れる場所があった。出入り口からは、中を見られない位置にある。
ローザの姿が見えなくなると、なにか悲鳴が聞こえた。
小動物の断末魔に似ている。痛々しい響きに、無念さと、生に対する渇望が含まれていた。ジョニーは片目をつぶって、自分の心に奇妙な痛みが走っている現象に気づいた。
周りを見ると、ビジーたちは耳を抑えている。
もう一度、聞こえた。音量は、先ほどよりも小さかった。
それから、悲鳴は二度と聞こえなくなった。




