死の淵
1
鬱蒼とした森林の隙間から、切り裂くような日光が差し込む。
青空が眩しい。
本来であれば、目覚めがよく跳ね起きるところである。
だが、今朝は都合が違った。
激痛で、起き上がれないのである。
全身が痛みを発して、行動を拒絶している。
熱い。
身体が火を発しているかのようだ。特に左脇腹が、焼けた短刀で何度も切り刻まれているような痛みに晒されていた。
頭が痛い。
断続的な吐き気に、ジョニーは身をよじらせた。
視界が狭く、顔が重い。
腕を上げようにも、動かない。動かすと痛みが走る。
「撤退しましょう。ガルグが来れば、俺たちは勝てません」
と、クルトの声が聞こえる。声は絶望に満ちていた。
「はあん? 今更逃げ帰るのかよ? まだ霊落子どもを逃がし切れていねえよ。今帰ったら、もらえる報酬が少なくなっちまうだろ?」
断固と否定する返事が聞こえた。ボルテックスの声だ。
「どうすれば……?」
クルトの声は、消え入った。
「まあ、様子を見ろや。帝国の連中が、ふかしただけかもしれねえだろ?」
ボルテックスとクルトのやりとりが、まるで夢の中で聞く会話のようだった。
ジョニーは目を閉じた。
このまま、眠っていたい。
激痛が嵐のように吹きすさぶ中、ジョニーは自身の意識を感じなくさせていった。
ジョニーの感覚が、落ちていく。
周りは黒いもやのかかった世界であった。
そうだ、このまま下に落ちていこう。
先には、痛みがない世界が待っている。
ジョニーは、自分の身体を、もやの世界に沈めていった。
「兄貴ッ!」
ビジーの声が、頭に響く。
かすかに目を開くと、ビジーの顔が覗き込んできた。
「よかった、目を覚ましたんだね。……このまま、起きないのかと思ったよ」
涙を溜めている。
ジョニーは返事ができなかった。泥と血の味が混じって、言葉を発しようにも、声が出ない。口が、開かない。
ジョニーは、身体の痛みで、のけぞった。身体を動かして、痛みを誤魔化した。
ビジーのせいで、苦痛の世界に舞い戻ってきたのである。
「せめて、おいらたちだけでも先に帰らせてください。ジョニーの兄貴には、治療が必要です」
ビジーの懇願する声が、遠くから聞こえる。
「帰らせてくれたら、なんでもします。……なんだったら、お金は払います」
「おい、てめぇ。逃げる気か?」
と、セルトガイナーが凄んだ声で、返事をした。
「俺たちを、帝国の連中に密告する気か?」
クルトが、割り込んだ。言いがかりをつけて、ビジーを黙らせた。
「埋めちまいましょうよ、こいつら」
セルトガイナーが底意地の悪い声を出した。
「そんなつもりは、ありません。ただ、兄貴の命を救いたいだけです」
と、ビジーは言い淀んだ口調で反論した。
「だったら、野垂れ死にさせてしまえ、そんな奴」
と、セルトガイナーの高笑いが聞こえた。数人の笑い声が続く。
痛みと怒りで、ジョニーは身体を震わせた。
本来であれば、抗議の鉄拳をお見舞いするところである。
だが、ジョニーは意識を失った。
2
揺れている。
身体が固定され、空中に浮いている、と気づいた。
「あ、起きた?」
と、ビジーの声が頭から聞こえる。
「ナスティが担架を作ってくれたんだ」
ビジーが声を掛けてくれる。声に涙が混じっている。
ジョニーは、ビジーの隣に誰かいると気づいた。
暖かい気配だった。
(ナスティ……)
奇妙な名前をした、頭巾で顔を隠した少女である。
ナスティが震えている。力仕事は得意でない、とジョニーは分かった。
進行方向の前方、つまり、ジョニーの足下には、セロンの背中が見えた。
「大丈夫だよ、ゆっくりお休み」
ビジーが優しい手つきでジョニーの額に手をやった。
弾力のある、分厚い手で触られても嬉しくない。
金槌で頭を殴られているようだ。
折れた右足は、木の枝で固定されている。
左脇腹の銃創が、熱く燃えている。
全身が熱い。ジョニーは身震いした。
だが、寒くもある。
ジョニーの内部で、生と死を掛けた裁判が繰り広げられているようだ。
お前は死ぬべき存在だ、いいや、苦しみながら生き続けるが良い。
裁判官が木槌を叩く。
叩いている対象は、ジョニーの頭だ。鉄槌を何度も喰らっている苦しみに、ジョニーは悶えた。
「兄貴がまた苦しみだしました。セロン、どうにかなりませんか?」
と、ビジーの声が聞こえる。絞り出すような声で、ビジーが先に死ぬかもしれない、とジョニーは思った。
進行方向の前方から、声が聞こえてきた。
「ボルテックスよ。夕暮れだ。そろそろ、野営の準備をしよう」
セロンであった。
シグレナスの大神官が、奴隷の自分を運搬している、とジョニーは驚いた。
「んああ? まだ歩き足りねぇな」
と、ボルテックスが返事をした。自分は馬車に乗っているのである。
「いい加減にしろ。そなたの行動は目に余る」
と、セロンの口調が厳しくなった。ビジーは怯えたように息を呑んだ。
セロンの威厳に、空気が張り詰めた。
ボルテックスを始め、自警団たちはまるで悪事が露呈した悪童のように、凍りついた。
「怒るなよ、兄貴。ちょっとした冗談だよ、冗談」
と、ボルテックスが笑って誤魔化した。本気で怒った兄を恐れている。
セロンは、ジョニーを乗せた担架を静かに降ろし、ジョニーに声を掛けてきた。
「リコ、そなたを巻き込んで申し訳なかった。そなたはそなたの仕事をしただけなのに」
眉間に皺を寄せて、頭を下げた。
「……ご飯の準備をするよ。待っていてね」
と、ビジーが優しく言葉を掛けた。
体調が悪いので、食事は嬉しくもなかった。ただ、ビジーが同行している状況が、唯一の救いであった。
食事を待っている間、ボルテックスとセロンが話をしている。
「あの太っちょ、馬鹿な奴だ。霊骸鎧を育てないで、一般人の兵士を育てると決めたようだ」
一方的にボルテックスが、帝の悪口をセロンにぶつけていた。
「銀券を知っているか? 貨幣の代わりになる金を配っているらしい」
断片的にしか会話が聞き取れない。
長い間、眠っていたような気がする。
「兄貴、起きて」
と、ビジーが汁に小麦粉を浮かばせた鉢を持ってきた。
「さあ、食べるんだ」
匙を口に押しつけてくる。
だが、口を開けない。
汁の熱気が、ジョニーの唇を焼いた。ジョニーは顔を逸らして、食事を拒否した。
「……頼む、兄貴。食べて。元気になって……」
ビジーは鼻をすすった。泣いている。
「おいらを置いてかないで……。一人にしないで……」
小麦粉の塊が、ジョニーの唇に当たった。ジョニーは口を開けきれず、塊を頬に垂らした。
下品な笑い声が、爆発したかのように遠くから聞こえた。
自警団たちが笑っている。
ビジーは意味不明の声で泣き叫んだ。
「いやだ、いやだ、兄貴が死んじゃう。どうしよう……。どうすればいいんだ?」
と、無力な子どものように狼狽している。
ジョニーは申し訳なく思った。自分の実力不足を嘆いた。
だが、このままだと痛みや苦しみが、生命の灯火を吹き飛ばしていく未来は、ジョニーは感じていた。
(俺は、こんな場所で死ぬのか)
ろくでもない人生だった。喧嘩に明け暮れ、何も生み出さない。
生まれてきた理由が、あったはず……。
どこに置き忘れていったのだろうか?
いや、もともと何の意味もない人生だったのか?
ジョニーが死の淵で自問自答していると、スパークが驚いた声をあげた。
「お前、何をするつもりだ……? それは馬の餌だぞ? 鍋で煮込んで、どうする気だ?」
何者かが、不審な行動を取っている。
「あいつに喰わせる気だろう? あんな奴には、最期の食い物は、馬の餌でふさわしいんだよ」
と、フリーダが、冷酷な言葉を吐き捨てた。
ジョニーには、その人物が誰か見えなかった。
ただ、暖かい霊力を身に包んだ人物だと分かった。
(誰だ、貴様は……?)
どこの誰よりも強く、慈愛に満ちた霊力の持ち主である。
近づくにつれ、ジョニーは、苦しみが消えていく気がしてきた。
人物は、ビジーに何か指示をした。
「兄貴、頭を上げるよ」
ビジーに頭を持ち上げられた。
担架と頭の隙間に、柔らかい女の太ももが入り込んだ。
(ナスティ……)
と、ジョニーは理解した。
ナスティは匙で、鉢から食事をすくい取った。息を小さく何度も吹き付けて、食事を冷ました。
ジョニーの唇に運んだ。
ほどよい温度で、ジョニーの口内に滑り込んだ。
優しい口当たりで、少し塩味があった。
ジョニーが飲み込むと、体内から輝く力が湧いてきた。
「やった、食べた。兄貴がご飯を食べたよ! ……ありがとう、ナスティ!」
ビジーが大喜びしている。
ナスティがまた匙を運んでくる。ジョニーは親鳥から餌を与えられたひな鳥のように、食事をすすった。
「なんなんだ……? 何で馬の餌を食えるんだ?」
と、スパークが誰かに訊いていた。
ボルテックスが覗き込み、息を呑んだ。
「これは、米だ……。米を湯でたものだ」
「米?」
自警団たちが声を合わせた。
「米を食べる奴なんているのか?」
と、スパークが驚く。
ボルテックスが代わりに返事をした。
「お前ら、ヴェルザンディの人間だろう? ……ヴェルザンディの商人が、米を焼いて食っていた様子を見た記憶がある。シグレナスには米を食う習慣はないからな」
ジョニーは、煮た米を何度も食べた。体内に取り込まれた米が、光となって全身に行き渡っているような映像が見えた。
身体が温かい……。
食べ終わった後でも、ナスティはジョニーから離れなかった。
何度もジョニーの額に手を触れ、優しく髪を撫でた。
ナスティの手つきは、心地よい。
(なんだ、これは……?)
ジョニーは、光り輝く水槽にいた。
水槽は、光り輝く水を、無限に湧き出させていた。水槽は果てしなく広がっていく。
(痛みが取れてくる……)
身体の痛みだけではない。心の痛みまで溶けていく。
これまで苦しかった生き方が優しく癒やされているようであった。
両眼から熱い涙がこみ上げてきた。
(ずっと、このままでいたい……)
自分が探していた居場所に来たような感覚である。
だが、ジョニーは現実に引き戻された。
ジョニーの鼻に、雨粒が落ちたのである。




