名前
1
“聖母”が話を始めた。
教訓や説話であった。どれもが霊落子中心の話題であり、ジョニーにとって興味の対象外となった。
目を閉じて、余計な体力の消耗を避ける。人の話を聞いても、頭に入ってこない性質である。
隣のビジーに肘で突っつかれたが、無視した。
“聖母”の訓話は終わり、歌が聞こえた。霊落子たちの歌だった。
ラウ ウフ サルンガ インザルギーン
ラウ ウフ ガウロン インザルギーン
月破れ 星砕け 舞い降りる 我ら神
沈む城 地に骸 火が止まぬ 終焉の日
取り戻せ 奪い去れ 忌む家畜 我ら魂
絶望を 受け入れよ 希望なく 覚醒の日
歌声は地の底から響く地鳴りのようであった。不気味な歌詞と一体となった歌声に、ジョニーは足下から冷えを感じた。
歌が終わると、“聖母”を称える歌が始まった。比較的楽しげな曲である。壁際の霊落子たちが楽器を鳴らしている。
楽しげでも、どこか珍妙な律動である。演奏中、“聖母”の前に、子どもの霊落子が行列を作った。
子供の霊落子たちは、順番に“聖母”の足に口づけをしていく。
小柄な霊落子の番になった。“聖母”の足下に飛びつき、口づけをすませる。他の子どもたちと違って、すぐには出て行かなかった。蟷螂に似た顔を、“
聖母”の太ももに乗せている。
蟷螂顔の霊落子は、ジョニーを指さし、“聖母”に何かを伝えた。
顔半分が植物の根で覆われているにもかかわらず、“聖母”はジョニーの方向を振り向いた。
「ジョエル・リコ……」
“聖母”が手招きをした。声は大きくなかった。霊落子たちが雑談している中、澄んだ声で、直接、心に響いてくる。
(俺はジョニーだ。ジョエル・リコではない)
ジョニーは反論したかった。だが、口にはできなかった。
自分の意思に関係なく、ジョニーは立ち上がった。ビジーが不審がったが、ジョニーはなんら弁解をしなかった。いや、できなかった。夜のかがり火に群がる虫のように、光を放つ
“聖母”に引き寄せられていった。
“聖母”の座る舞台の前に立ち、巨大な椅子に座っている“聖母”を見上げた。“聖母”の背後には、二人の人物がいると気づいた。それぞれ頭巾を被って顔を隠し、一人は背が高く
、もう一人は小柄であった。
ジョニーは不気味さを感じた。
深くは詮索できなかった。いや、あえてしなかった。
ジョニーは恐怖の感情を抑えつけた。ジョニーの中では、恐怖は存在しない。
“聖母”は顔の上半分から植物の根のような管をいくつも生やし、天井につなげている。植物の根は、柔らかく、脈動していた。むしろ、蛸や烏賊といった軟体動物の触手に似ている
。触手は、各自の意思をもつかのように蠢き、“聖母”の動きに柔軟に対応している。
この世にあらざる存在を前にして、ジョニーは唾を飲み込んだ。
苦みのある唾だ。
(俺は恐怖している……? いいや、俺は恐怖を捨てた。俺に恐怖があるはずがない。これは、心の迷いだ……)
ジョニーは必死に自分の恐怖を否定した。だが、自分の内部から湧き起こってくる謎の感覚に、ジョニーは飲み込まれつつあった。
並んでいる霊落子たちが道を開けた。ジョニーは“聖母”から呼び出されたのである。“聖母”の意思は、何事にも優先される、とジョニーは理解した。
ジョニーは、舞台の階段を一歩ずつ登った。まるで、誰かに操られていくようだった。
登るたびに、腰が、頭が下がっていく。
舞台の上に立つと、ジョニーは完全に跪いていた。自分の行動が理解できない。
これまで、相手が自警団だろうと、帝だろうと、誰の下につく気はなかった。ジョニーは自分を貫いていた。
(俺は夢でも見ているのか? 俺が誰かに頭を下げるなど、ありえない!)
ジョニーは心の中で叫び、立ち上がろうとした。
だが、強い力で地面に押さえつけられる。何者かが背後にいる。だが、後ろには誰もいない。人智を超えた何かが、見えない存在が、エネルギー体が、ジョニーを床に這いつくばら
せているのである。
抵抗できない。ジョニーの全身から汗が噴き出た。
身体の鍛錬をしていて、筋肉が限界に達したときのように起き上がれない。いや、鍛錬と違って、疲労がない分、異様さが余計に増している。
蟷螂顔の霊落子が、ジョニーと同じ高さまで自分の顔を並べた。緑色の複眼を横からジョニーに見て、口づけをする仕草をしている。
ジョニーにお手本を見せているのだ。
霊落子に対して差別意識のないつもりではいたものの、昆虫の顔が自分を教育している状況の前では、冷静でいられなかった。
だが、蟷螂顔の霊落子に対応している場合ではなかった。
ジョニーの震える首から、汗が滴る。
白い足の甲が眼に入った。
“聖母”の足は、骨が浮き上がった、大理石のような肌をしていた。
ジョニーは、ボルテックスや霊落子たちと同じく、唇をつけたい感覚に陥った。だが、口づけをしてしまえば、自分が自分でなくなる気もする。
霊落子と市民がシグレナス市民広場で衝突しあったとき、助けた霊落子に足下を口づけされた記憶が甦った。
(まさか、あのときの霊落子が……)
隣の蟷螂を見て、納得した。
自分の意思とは関係なく、ジョニーの顔に足の甲が近づく。いや、ジョニーが近づいているのだ。
(ボルテックスが素直に口づけをしたのだ。俺がしても構わないだろう……)
と、ジョニーは意味不明の言い訳をした。自分でも口づけをしたい衝動を抑えきれない。
足の甲は冷たかった。
唇に電気が走る。感電による痛みが、全身に伝わった。
ジョニーの視界には、光が広がった。
光の力は強大で、ジョニーは自分自身の全身が破裂したかと思った。
光が波紋のように広がっていく。光が過ぎ去った空間は、暗闇になった。
暗闇の周辺には壁がなく、無限に続いているように思えた。だが、ジョニーは、現在地が白い壁に覆われている、と知っていた。
目が馴れてきた、というより、現在地からは知覚できない白い壁が光源だと理解した。なぜ理解したのか分からないが、ジョニーは知っている。
ジョニーは裸だった。
(俺は、夢でも見ているのか……)
胸の赤い宝石を見下ろした。
頼る存在もなく、ただ歩いていると、女の姿が見えた。
髪は長く、銀色の光沢を放っている。両手で胸を隠し、静かに微笑んでいる。
「誰だ?」
ジョニーは刺すように質問した。警戒の含んだ声から、だが、ジョニーは、この女が誰かを知っている。
「ここは、どこだ? どうして、俺たちはここにいるのだ?」
女は一歩近づいて、ジョニーに自分の身体を押しつけた。ジョニーの背中に手を回す。
「“聖母”、貴様はここで何をしている?」
女の柔らかい肌に、ジョニーは動揺した。女は微笑みを見せた。
両の瞳は、硝子のように透明で、硝子の中には、砂時計のような形をした瞳孔があった。
瞳孔は左右の瞳で、それぞれ違っていた。片方は、金で、もう片方は銀だった。
“聖母”は想像以上に若かった。自分よりも少し年上である。
「“聖母”だなんて呼ばないで。私の名前はマグダレーナ。マグダレーナと呼んで。……ジョエル・リコ。貴方は私たちアポストルに選ばれました。さあ、私とともにいらっしゃい。
どこまでも続く、永遠の愛をお見せしましょう」
マグダレーナは両眼を伏せ、唇をジョニーに近づけた。
「よせ、やめろ」
ジョニーは叫んだ。抵抗しようにも、強い力の前では、なすすべがない。
ジョニーは恐怖した。
自分が、自分でなくなってしまう。
2
ジョニーは目隠しをされていた。
慌てて目隠しを外すと、見知らぬ道路に立っていた。外は暗くて、吹いた風がジョニーの顔を涼しく撫でた。
汗をかいていた。胸の動悸が止まらない。
マグダレーナも霊落子も姿がない。
押さえつけられた力はなくなった。夢でも見ていたかのように、ジョニーは周囲を窺った。
セルトガイナーが肩を回している。サイクリークスは衣服から埃を払っていた。スパークが踊ると、フリーダに叩かれた。ボルテックスとクルトは話をしている。
「大丈夫? ジョニーの兄貴? うなされていたようだけど」
ビジーが心配そうな声で話しかけてきた。
ジョニーは額の汗を拭った。
「ビジー。俺は“聖母”に呼ばれてから、記憶がない。誰が俺に目隠しをした?」
「ジョニーの兄貴が自分でやっていたよ。“聖母”から離れて、まるで操り人形みたいに、おいらの隣に座ったよ。ジョニーの兄貴は、明らかに変だった。……お行儀良く座っていた
からね」
頭巾で顔を隠した霊落子たちが同伴していて、目隠しを返すと、クルトが話しかけてきた。
「リコ、“聖母”と何をしていた? “聖母”は人間嫌いで有名だ。“聖母”に呼ばれる奴など、初めて見た」
名前を間違えられている。
ジョニーは蟷螂の顔をした子どもの霊落子を思い浮かべた。
「さあな、俺には、霊落子の知り合いがいるからな。奴らのつながりかもしれん」
マグダレーナ。
“聖母”の名前を知って、どこか嬉しい自分がいる。
「リコ、お前に何かを伝えていたようだな」
クルトがさらに問い詰める。クルトの背後に、覆面のボルテックスが腕を組んでいる。クルトはボルテックスに質問をさせられているのだ。
「なんだかよく分からんが、光に包まれた。何が起こったかは、記憶にない」
ジョニーは嘘をついた。
(マグダレーナ)
ジョニーは“聖母”の名前を心の中で唱えた。自分だけが知っている。クルトたちは知らない、ジョニーにとって特権であった。優越感で、胸が熱くなってきた。
ジョニーは話題を変えた。
「それよりもクルト。貴様、さっきから俺の名前を間違えているぞ。……俺は、ジョニーだ。“ジョエル・リコ”ではない」
「俺は、レダから“ジョエル・リコ”と聞いた」
クルトが面倒な表情で、レダ・フリーダを横目で見た。
「あたしは、スパークから“ジョエル・リコ”と聞いたんだ。おい、そこのオメェ、なにか画でも描いたのかい?」
フリーダが、かすれ声でビジーを非難した。
ジョニーはビジーに視線を移した。
ビジーが顔を振って否定した。
「おいらが、兄貴の名前を間違えるはずがないでしょ? 隣の人にはちゃんと伝えたよ」
と、ビジーは、助けを求める表情で色白なサイクリークスを見た。
「俺には“ジョニー”と聞こえた。そのままガイに伝えた」
と、サイクリークスが応えた。目にかかった前髪を、神経質に触っている。
赤い髪のセルトガイナーがバツの悪い表情をした。
「俺は、ジョエルと聞こえた。サイの言う通りに伝えた。周りの雰囲気が騒がしかったもんよ」
セルトガイナーは逞しい身体をしているが、知恵が回らない印象をジョニーは受けた。
「貴様が原因か、セルトガイナー。……リコとは、何なのだ?」
ジョニーには怒る気は失せた。怒る理由もない。
「……リコは知らん」
ジョニーの疑問に、セルトガイナーは顔を背けた。
「リコは俺だ」
膨れ上がった髪型のスパークが入ってきた。。
「ジョエルって、名前だけしかないのも変だよな? 名字を聞き逃していたら、俺のせいになるかもしれん。だから、名字が必要かな、と思って、“リコ”と付け加えておいた。ちな
みに、リコとは、最近死んだ飼い猫の名前だからな」
「貴様、死んだ猫の名前を、他人に付けるな」
セルトガイナーよりも、スパークの思考回路が危険だ、とジョニーは思った。ジョニーが文句を伝えると、スパークが騒ぎ出した。
「うるせえ、間違えたものは間違えたんだよ。文句があるなら、今からもう一度“聖母”のところまで行って、変えてもらえばいいだろう。……あいてっ」
スパークはボルテックスに頭を殴られた。このスパークは殴られやすい体質らしい。
「馬鹿野郎。どこの誰が“聖母”に、名前が違っていました、と訂正しに行く奴がいるか? 俺に恥をかかせる気か、スパーク。おい、リコ。もう面倒だからよ、お前さんはジョエル
・リコだ。……これからはジョエル・リコで通せ。おい、お前ら。こいつは“ジョエル・リコ”だ。いいな?」
ボルテックスの意見を、クルトたちは賛同した。
「知ったことか。……好きにするが良い」
ジョニーは面倒になった。知能が低い集団だと理解できて、得したと言えば得したのかもしれない。
ボルテックスは天を見上げた。覆面の穴から出た両眼で、星と月の位置を把握している。
「アーガス! 下らない話をする暇はないぞ。次の場所に行く。予定が押している」
「今は夜だぞ?」
ジョニーは眉をひそめた。
「夜だからこそ、都合が良いんだよ。忍び込むのさ。シグレナス大神殿に、な」
と、ボルテックスが応えた。買い物にでも行くかのような態度である。
「なぜ大神殿に用がある? また別の神にでも拝みに行くのか?」
「違う。大神殿には、帝国のお宝が隠されているんだ。お宝を頂戴しに行くのよ」
ボルテックスは右手の人差し指を曲げて、鍵を作る仕草をした。
「自警団というよりも、盗賊団だな……」
と、ジョニーは呆れた。従いていく相手を間違えたのかもしれない。




