怒り
ジョニーは、闘技場にたどり着いた。
闘技場は、巨大な円形の建造物で、石の外壁で囲まれていた。外壁は、いくつもの壁板がはめ込まれてできていた。それぞれの壁板は中央が空洞であった。空洞はアーチ型の穴で、ジョニーには外壁が壁なのかアーチなのか分からなくなってきた。
闘技場の前で、丸坊主の男と、若い男が話し合っている。丸坊主は、片眼に眼帯を掛けていている。闘技場の関係者だと分かった。
「剣闘士になりたいだぁ?」
丸坊主が、声を張り上げた。若者が困った表情をする。
「だめだめ、剣闘士になるには、推薦人が必要なんだよ」
と、唾を飛ばした。若者は、顔の唾を手で拭った。
「剣闘士や闘技場は、興行で金を稼いでいるんだ。観客の観戦料がメシのタネってわけ。剣闘士ってのは人気商売だからさ、人気のない奴を試合に出せないんだよ。試合の前に、新人がどれだけ強いか広告をうたなきゃいけねえ。アンタも聞いた記憶があるだろう? 期待の大型新人、シグレナスの闘技場に殴り込み、とかな。アンタが有名人でもない限り、広告料が必要なわけ。つまり、アンタを押し上げてくれる金持ちが必要なんだよ。金を貯めた奴が個人で入ってくる場合もいるけどね、基本、金持ちが自分の奴隷や友だちを連れてきて、剣闘士にするのが普通なんだよ。なに? 金がない? だったら、帰るんだな」
若者が肩を下げて、立ち去った。
「剣闘士になるにも、金が掛かるのか……。しかも、剣闘士は、単純に強ければよいわけではなく、人気商売なのだな」
ジョニーは、剣闘士志望の若者とは別方向に向かって、闘技場から離れた。若者と同じく、闘技場に行けば剣闘士になれると思っていた。
「俺に人気が出る気がしない」
ジョニーは自分を省みた。
ビジーたちのパン屋“戻りし者”が開業されて、数日が経った。
ビジーたちは相変わらず朝早くパン屋に出かけて、夕方に帰ってくる。
この数日間、ジョニーなりに手伝う気はあったといえば、あった。
店の前に立っていると、客に避けられる。ジョニーの周辺には、空間ができた。接客どころではなかった。
「表に出してはいけない」
と、ビジーたちに店内に連れ込まれる。小銭を受け取って水を渡す仕事をしようにも、客が近寄ってこない。小銭を数える仕事を任されても、途中で面倒になって止めた。
パンを焼く仕事は、シグレナス全体が火事になる恐れがあったので、任されなかった。
パン屋ですら人が寄ってこないのだから、大観衆が見守る闘技場で、自分が人気者になる未来は想像できなかった。街を歩けば、一般人どころか、街の不良にすら避けられている始末だ。
ジョニーは、青空を見上げた。
白い雲が青い空に鎮座している。
「俺には、居場所がない。雲ですらあるというのに」
期待をして闘技場に来たものの、不発に終わった。
パン屋に行く気はない。
ジョニーは、図書館に向かった。
いるはずもないセレスティナの影を追った。たとえいたとしても、相手にされるはずもない。それは分かっている。だが、ジョニーには行く場所がない。
図書館を向かうには、シグレナス市民広場を横断しなくてはならない。
今日の市民広場は、異様だった。
切り裂かれるような緊張に包まれている。
二つの集団が、向かい合って、何かを叫び合っている。
一方は市民の集まりだった。対するは、頭巾をかぶった集団、霊落子たちである。どちらも、横一列になっている。
主導者と思しき霊落子が、一歩前に踏み込んだ。
「皇帝陛下に申し上げる! 無実の罪で逮捕された、我らの同胞を解放してください!」
と、男の声を張り上げた。声は老人である。よく見れば、足腰が柳のように細い。
「解放してください!」
後ろの霊落子たちも同じ言葉を続ける。女や子どもの声も混ざっている。
シグレナス市民の一人が高笑いをした。
「お前らの仲間は、悪事を働いて逮捕されたんだ。犯罪者が逮捕されて当然だろう? シグレナスは法治国家なんだよ。たとえ皇帝陛下といえども、法律には従わなくちゃあいけない」
霊落子の訴えを無意味であるかのような響きがあった。
「そうだ! そうだ!」
他の市民たちが賛同の声をあげた。
「我々アポストルは、犯罪を犯していません。皆さんと同じ、物を買い、物を売っただけです。差別反対! ここは自由と平等の国シグレナスです!」
霊落子たちが悲痛な叫びを上げる。
だが、市民の一人が、霊落子の気持ちを踏みにじるように主導者に食ってかかった。市民の顔は、嫌悪と怒りに満ちていた。
「やい、霊落子ども。てめえらみたいな化け物に、人間様と同じ権利があると思うなよ!」
市民の一人が、老齢の主導者を突き飛ばした。細い足が折れるのではないかとジョニーは思った。
「やめてください、私たちがなにをしたのですか?」
他の霊落子が集まって、老年の主導者をかばった。頭巾をかぶっているので顔は見えないが、抗議の声から、怯えが伝わってくる。
「おお? やる気か? やれるものなら、やってみろ! この豚野郎ども! おおい、皆、こいつらが俺たちと喧嘩したいんだとよ。……やっちまえ」
市民たちと、霊落子たちが衝突した。いや、市民たちが霊落子に襲いかかった。
シグレナス市民広場は、恐慌と暴行の渦に支配された。
渦の中心は、霊落子たちだ。残酷で凶悪な顔つきの市民たちが暴徒となって、霊落子たち渦の中心に集まっていく。
殺意が砂嵐のように吹いている中、ジョニーには、霊落子と市民、どちらの意見が正しいか分からなかった。
だが、ジョニーは腹が立っていた。
弱者が一方的にやられている様子が気にくわない。
霊落子には、知り合いがいる。
市民に、肩をぶつけられた。顔を見ると、加虐心にかられて、倒れた霊落子の頭を蹴った。
男の一人が、倒れた霊落子に覆い被さって、殴り続けている。ジョニーは後ろを通り過ぎるふりをして、男の腹を蹴り上げた。腹を蹴られた男は口から分泌物をまき散らし、地面に転げ回った。
霊落子の手を握って、起こす。手の感触から、ジョニーは相手が女だと気づいた。
女の霊落子に襲いかかる市民の横顔を殴りつけた。市民は魂を失ったように、倒れた。
「なにをする。お前は、霊落子に味方するのか?」
周りの市民が、驚きの声をあげる。だが、ジョニーは怒っていた。抑えきれない怒りの前に、市民たちは怯え出した。
「知ったことか。貴様らを殴りたいから、殴った。それだけだ。これ以上、俺を怒らせたいなら、死よりも痛い目に遭わせてやるぞ」
嘘ではなかった。最近、暴れる機会が減り、ジョニーには鬱憤が溜まっていたのである。
近寄る市民の首を脇で絞め、片足で他の市民を蹴り上げる。
(今の俺は、八つ当たりをしている。霊落子を助けているふりをしているにすぎない。この怒りは、火のような怒りは、ずっとずっと俺の内部で燻っていたのだ。セレスティナに会えない、ただの怒りだ)
自分の怒りが無意味だと分かっている。それに、セレスティナにジョニーと会う義務などない。
分かっている。
だが、怒りを抑えきれない。自分の不甲斐なさに対する怒りだと分かっていても、ジョニーは自分の怒りを操れなかった。
ジョニーは市民を無差別に殴り、蹴った。
市民たちが無限に湧いてくる。
殴り倒していくと、疲れてきた。疲れが怒りを麻痺させ、怒りによる行動に価値を感じなくなってきた。
ジョニーの周りに、近寄る者はいなくなった。
(自殺願望者は、いないようだな。引き揚げどきだ……!)
ジョニーは、女の手を握って、走り出した。
市民を全滅させても、ジョニーには何の得もない。
階段を駆け上がる。
ジョニーの迫力に、市民たちは誰もが素知らぬ態度をした。無関係を装っているのである。
図書館にたどり着くと、木の陰に女の霊落子を隠した。
ジョニーは建物の壁を背にして、顔を出し図書館の様子を窺った。
出入り口から、数人の利用者が出てきた。騒ぎを聞きつけて、それぞれの感想をお互いに呟いている。
野次馬の中には、車椅子の“涎おじさん”が混ざっていた。
ジョニーは、助けた霊落子に向き直って、話しかけた。
「もうここには、危険がないだろう。……貴様、名は?」
だが、女はジョニーの問いかけには応えなかった。
「イニステやサレトスは無事だろうか……?」
と、ジョニーは知り合いの安否を心配した。だが、無意味な行動だとすぐに気持ちを切り替えた。
足の指が冷たい。
なにか水滴が指先に落ちたのだろうか?
見下ろすと、霊落子が、膝を地面につけていた。
ジョニーの指に口づけをしている。
「よせ、やめろ。俺は見返りのために助けたわけでない。……貴様ら霊落子なりに感謝を表現したのかもしれんが、俺は嬉しくない」
ジョニーは慌てた。自分の耳が熱くなっている。霊落子といえども、距離感のなさに、さすがのジョニーも動揺した。
霊落子の女が、首を傾ける。頭巾で顔が分からないが、挙動で年齢の低さが分かる。
「騒ぎが収まるまで、大人しくしていろ」
ジョニーは、図書館の壁に背をつけて、目を閉じた。耳の熱はすぐに下がり、身体が眠気を利用して、休息を要求してきた。
久しぶりに暴れて、気分がよい。
「何かあったら、報せろ。近寄る奴がいれば、どこの誰であろうと、殴り飛ばしてやる」
と、心地よい疲れに、ジョニーは目を閉じた。
どれほど時間が経ったのだろうか。
起きて、伸びをした。
周囲を見渡すと、霊落子の姿はなかった。
夕方まで、時間がある。
ジョニーは図書館を下りて、広場に戻った。
市民たちも霊落子たちも撤収していて、広場には、人影はなかった。
散乱したゴミが、風に転がされている。
破れた衣服や、血だまりがあった。何かを引きずった、血の痕がある。
「皆は無事か……?」
不吉な予感がする。パン屋とは無関係の暴動であったが、何か違和感がある。
ジョニーはビジーたちの“戻りし者”に向かった。
昼が過ぎて、普段であれば、楽しげな空気で店じまいをしているのだが、今日の雰囲気は違う。広場での騒動と同じ張り詰めた緊張を感じる。
立て看板が、二つに割られていた。
客は寄りつかず、遠巻きで我関せずの態度を貫いていた。
店内から、赤子サラの泣き声が聞こえる。
「何があった……?」
ジョニーは、店内に入った。
皿が割れ、台はすべて引き倒されていた。床に捨てられた売り物のパンは、人間の足跡がついていた。
プティが頬を腫らし、床に腰をつけて呆然としていた。
マミラが、壁を背にして、すすり泣いている。
ビジーの母親がサラをあやしている。
ビジーが一人、割れた皿を黙々と集めていた。
「ビジー、何があった?」
片付けをするビジーに話しかけた。ビジーは憔悴しきった顔をしている。
「サレトスが自警団に連れ去られちゃった。サレトスは闇市から小麦粉を仕入れていたんだ。闇市は、食糧を農場から買い占めていて、サレトスも買い占めをする人たちの仲間だったらしい。帝国は買い占めを取り締まっていたから、当然、サレトスは逮捕されたよ」
ビジーの説明に、ジョニーは頭が痛くなった。
だが、思い当たる節があった。何度も買い占めの話は聞いていた。あまりに話が上手くいきすぎていた。ビジーが話を続ける。
「さっき、変な人たちが来て、たぶん、自警団だと思うけど、いきなり暴れ出したんだ。この店は、霊落子が出入りしているとか、叫びだして……。お客さんが寄りつかなくなっちゃった」
「ビジー。貴様、何もせずに見ていたのか?」
ジョニーは問い詰めた。ビジーに責任はなく、愚問だと思ってはいたが、聞かずにはいられなかった。
ビジーは目に涙を溢れさせている。悔しさに負けまいと奥歯を噛みしめていた。
顔を殴られたプティも、マミラも、言葉を発さなかった。
「よう。屑ども。元気かぁ?」
出入り口から、しゃがれた声が聞こえた。
声の主は、歪んだ唇のキズスであった。
ビジーは肩を揺らして、恐怖でおののいた。プティは信じられない存在であるかのように、キズスを見た。
マミラは顔を隠して怯えている。サラは泣き続けている。
ジョニーは地面を蹴って、キズスの襟首を掴み上げた。
「貴様か……! 貴様がやったのか?」
怒るジョニーに対して、キズスは冷静だった。
「俺はな、お前をずっと見張っていたんだよ。後をつけて、お前の家を調べさせてもらったぜ。するとよ、お前らの家から、霊落子の女が出入りしやがっていたんだよな。霊落子の女をつけたら、闇市で買い付けをしていたってわけよ」
キズスは、粘り気のある唇を曲げて、意地悪な笑顔を見せた。
「店を開くために借金がたんまりあるそうだなぁ……? もうこれだけ評判が落ちたら、店は続けられねえぞ。どうやって借金を返すんだ? ああ? 借金のカタに女を寄越してもらおうか。おお、もちろん、若い女だ! 男が喜ぶ店を紹介してやるからな! ……働き次第で、すぐに借金を返させてやるよ」
キズスが笑った。知性のない、下品な笑い方であった。
ジョニーは、周囲を見回した。
パルファンの姿が、先から見えない。
「貴様……!」
ジョニーは、キズスを壁に叩きつけた。
キズスは、軽く呻いた。顔には恐怖でひきつっている。だが、思い出したかのように、恐怖を克服した。
「俺を殴りたいのか? おお、だったら、殴れよ。殴ったら、俺は自警団だからよ、逮捕してやる。お前は、霊落子の味方をしたんだ。いわば、シグレナスの敵だ。世の中の仕組みも分からねぇガキがよぉ。いいか、喧嘩ってのはな、頭でやるもんなんだよ」
キズスは、自分の指で自分のこめかみを叩いた。
「このまま貴様を八つ裂きにして、海に沈めてやる」
ジョニーは、自分の意思を表明した。ジョニーなりに怒りを抑え込んでいるつもりだが、上手くいっていない。
「駄目だよ。兄貴が逮捕されちゃう……!」
ビジーが、苦しげな声を出す。哀れな響きがあった。
サラの泣き声が強くなった。
キズスは勝ち誇った笑いをした。サラの泣き声と合唱するかのようであった。
だが、笑いは長く続かなかった。
「アンタは……!」
キズスの勝ち誇った顔が、怯えのような色味を帯びた。
「クルト……? ヨーゼフ・クルト……?」
ジョニーは、キズスの視線の先を追った。出入り口に、大柄な男の姿が見えた。
男は、頭巾を被っていた。




