無為
人混みの中を歩く。
シグレナスの雑踏は、尿と汗に腐った残飯のような臭いがする。
「どうして、ジョニーの兄貴は、僕と一緒に歩いているんだい?」
隣のビジーが訊いてくる。不思議な顔をしている。
「知ったことか。俺が歩いている方向に、貴様がいるだけだ」
ジョニーは顔を背けた。ジョニーの目的地は、ビジーと同じく図書館なのである。言われてみれば、ビジーと一緒に歩く状況は、子どもだった頃以来だ。
「ジョニーの兄貴、なにか良いことあった? 顔が嬉しそうだよ。珍しいね」
ジョニーは自分の頬を触れた。自分の知らない感情が、自分の知らない間に発露していた。
朝の図書館には、行列ができていた。
身なりのよい男が多かった。朝のうちから働かず、図書館に入れるほど裕福な家庭の人間ばかりだ。
中には奴隷の姿が見える。賢そうな顔つきをしていた。
主人に調べ物を任されたのだろう、ジョニーは理解した。
ジョニーとビジーの前には、木と木を組み合わせてできた車椅子があった。
車椅子には、太った中年が乗っている。首を傾げ、何か独り言を口すさんでいる。
言葉は聞き取れず、呪文のように意味不明で、空気に向かって対話をしているかのようだった。
ビジーが、耳打ちをしてくる。
「この人は、涎おじさん。図書館の常連さん。いつも涎を垂らしている」
ジョニーは興味を遮断した。図書館の登場人物に縁を感じなかった。
開館すると、行列が館内に飲み込まれていく。
ジョニーは踵を返した。ビジーが慌てる。
「入らないの? 本を読みに来たんだよね?」
「……図書館に用はない。俺は本に興味がない」
「何がしたいの?」
疑問符で表情を作っているビジーから離れた。
図書館の周囲をうろつき、セレスティナが授業をしていた場所にたどり着いた。
切り株が残っているだけで、普段、誰も通らない、利用もしない空間であった。
(朝は授業をやらないのか……)
セレスティナに関する情報が手に入って、心が満たされていく感覚がする。
ジョニーは昼までに時間を潰すと決意した。
行き先などなく、目的もなく歩く。
ジョニーは時間潰しが得意だった。喧嘩を仕掛けてくる相手を探すのである。
だが、今日に限っては、ジョニーは喧嘩をする気はなかった。むしろ、セレスティナの顔を思い浮かべると、喧嘩など無駄で、どうでもよくなってくる。
喧嘩をしないとなると、今度は暇になった。行き交う人々の中で、ジョニーは強い孤独を感じた。
(俺はこのまま何もせず、ただ時間を無為に過ごすのか?)
道路の端に、裸の老人が倒れていた。身動きもせず、眠っているかのようにも見える。都会の心理から、誰も見向きもしない。
(いいや、気にするな。何も考えるな。何も感じるな)
ジョニーは首を振った。恐怖や不安は敵である。セレスティナを思い浮かべて、気を紛らわせた。
昼になった。
シグレナス市民広場に入る。
広場の一角には、人だかりができていた。
中心には、帝国の広報官が書字板を読み上げている。
「昨夜未明、霊落子の集会を取り締まった。帝国が禁止している食糧の買い占めをしたためである」
広報官が報告を終えると、歓声があがった。
「いいぞ、皇帝陛下!」
誰かが手を叩く。
「でかした、太っちょ皇帝!」
「霊落子どもを懲らしめろ!」
「無能者は羨ましいな。たまに良い仕事をしただけで褒められるのだから」
誰かの冗談で、群衆が笑った。
「霊落子どもを狩り出すぞ! あいつらは俺たちの儲けを掠め取る、太ぇ奴らだ」
「一匹たりとも逃がすな。奴らの隠れ潜む家には火を点けろ! いやいや、隠れ家とはドブかもしれんがな」
「奴らの首を吊れ! 奴らは鼠や豚に等しい。鼠や豚を殺して、誰が悲しむのか?」
霊落子を殺せ。
黒い殺気が渦巻く中、ジョニーはイニステやサレトスを思い浮かべた。協力者の存在が身近に感じると、群衆たちの気持ちが理解できなかった。
人間と同じ言語を話し、よく似た生活習慣を持つ。ただ顔が人間的でないだけで、迫害の対象になっている。
「霊落子の連中も、ここまで言われてやり返そうとは考えないのか?」
遠くから、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。人間の感情など気にもしない、無機質な音に聞こえる。
市民たちが渋々な顔をして、仕事に戻っていく。霊落子を吊れ、と乱暴に騒いでいても、就業時間は守るのである。
ジョニーは階段を駆け上がった。期待で胸がいっぱいだ。
昼を過ぎれば、セレスティナを見られる。
木の陰に、アヒコたち謎の集団が姿を隠していた。アヒコたちの目的は不明で、ジョニーは知りたくもなかった。
子どもたちが集まり、セレスティナの登場を待っている。
「お姉さん先生、まだかなぁ」
「お姉さん先生、よく遅刻するよね」
ジョニーは子どもたち、あるいはアヒコたちと一緒にセレスティナを待っていた。
だが、セレスティナが姿を見せない。
代わりに、見知らぬ女が現れた。身なりから、どこかの奴隷だと分かった。
「先生は、今日、皇帝陛下に呼ばれました。今日は夜まで来れないので、授業はありません。皆さん、お帰りください」
子どもたちが不満の声をあげた。授業がないと分かると、足早に帰っていく。
「お姉さん先生、皇帝陛下のお嫁になるのかなぁ?」
「馬鹿、皇帝陛下はご結婚されているんだ。一度結婚したら、他の人とは結婚できないんだぞ」
子どもたちが、セレスティナの噂をする。
「ねえ、お姉さん先生は、どんな用事があって、呼ばれたのかなぁ?」
ジョニーにとっては衝撃の質問であった。喧嘩で殴られる状況はよくある。どんな攻撃でも耐えてきた。だが、子どもの純粋な質問に、ジョニーは膝をついて、動けなくなった。
ジョニーを残し、青空教室は無人の地となった。
意味もなく、草木の数を数えた。
(セレスティナは、今、何をしているのだろう? 皇帝とどんな時間を過ごしているのだろう? それに引き換え、俺は、何をしている?)
ジョニーは大声で叫びたくなった。叫べば、気が狂ったと思われるので止めたが、何か行動をしたかった。だが、行動をしようにも、何をして良いのか分からない。
照る太陽に身を任せ、ジョニーの時間は無駄に過ぎていった。
夕方になった。
落日が、ジョニーの気持ちを切り替えさせた。
ビジーを迎えに行く。
図書館の入り口で、車椅子の“涎おじさん”とすれ違った。ジョニーは、特別な感情は特に湧かなかった。
ビジーが図書館から出てくる。
「あれ、ジョニーの兄貴。機嫌が悪いね。どうしたの? 顔が怖いよ」
ジョニーは足を止めた。
また、顔に出てしまっている。
(女が来なかっただけで、どうして俺は怒っているのだ……?)
ジョニーは自分の怒りに動揺した。朝から夕まで、頭の中は、セレスティナの話題でいっぱいである。
住宅街に戻る。
(俺は、何をしたいのだ? このままで良いのか?)
ジョニーは足下が揺れる感覚に陥った。
「ジョニーの兄貴、大丈夫? 体調が悪いの?」
「ビジー。俺には、もう一人俺がいて、もう一人の俺が俺自身を見ているようだ。俺を見ているもう一人の俺は、俺を情けない奴だと馬鹿にしているのだ。お前は何をしたいのか、と俺を責める。それなのに、俺は何も答えられないのだ」
「……よく分からないけど、大変そうだね」
ビジーは困っていた顔をした。ジョニーも自分で何を言っているかよく分からなかった。
高級な住宅街で、道路の左右には高い壁で覆われている。壁から大木が姿を覗かせていた。金持ちは、自分の庭に巨大な木を植えたがる理由がジョニーには理解できなかった。
道路の中央に、男たちが屯していた。ジョニーを確認すると、鋭い眼差しを向けてきた。
一人が声を掛けてきた。
「おい、ガキてめえ。探したぞこら」
ドスのきいた声である。ジョニーには聞き覚えがあった。
唇の片側が歪んでいる。昨日、浴場で殴り倒した自警団のキズスであった。
「……ジョニーの兄貴。知り合いかい?」
ビジーが横目で質問してくる。声には、恐怖が入り混じっている。
「さあな。記憶にない。ところで、ビジー。貴様は昨日潰した蠅の名前に興味はあるか?」
ジョニーは自分で自分の口をおさえて、笑いを噛み殺した。我ながら、面白い冗談である。
「てめぇ、舐めたクチをきいてると、叩き殺してやるぞ」
しゃがれ声のキズスは顔を真っ赤にして、唾を飛ばした。
キズスは仕返しに来たのである。自分から世間に迷惑を掛けておいて、自分が痛い目に遭うと、誰かを攻撃したくなる。自己反省しない存在を目の当たりにして、ジョニーは面倒な気持ちになった。
「今日の俺は、機嫌が悪い。力の加減はできないぞ。……この前と違ってな」
ジョニーは静かに自分の状態を説明した。面倒ではあるが、大暴れできると思うと期待が胸に広がる。
キズスは唾を飲み込んだ。全身から汗を噴き出させている。ジョニーの発言は脅しではなく、事実なのだと分かっているのだ。
キズスは視線を落とし、動揺を悟られまいとした。
「今日は、俺が戦うんじゃない。いいか、強い人たちを連れてきたんだ。……サイクリークスさん、セルトガイナーさん、よろしくお願いします」
キズスの後ろに、白く痩せた若者と、黒く日焼けした、赤い髪の男が立っていた。
ジョニーは異常を感じ取った。
二人とも、ただ者ではない。だが、恐怖は感じなかった。恐怖よりも、戦力の数学的な分析が働いた。
「先に帰れ。ビジー。貴様は、戦いに向いていない」
と、ビジーを逃がした。巻き添えになったり、人質に取られたりしては、邪魔になる。
男たちがビジーを追いかける挙動を見せた。ジョニーは、自分自身の身体を動かして、ビジーの逃走経路に蓋をした。
キズスが、白い若者を指さした。
「この人は、サイクリークスさんだ。謝るなら、今のうちだ。……霊骸鎧に、変身できるんだぞ」
白いサイクリークスは、髪が長い。伸ばした黒髪の隙間から、細くて鋭い目をしていた。
痩せているがよく見れば、筋肉質な肩をしている。
手で印を組み、霊力を開放した。緑色の煙が立ち上がる。
「“蔦走り”のご登場だ! どうだ、ガキ。てめぇがどんなにいきがってようと、霊骸鎧に敵うまい!」
と、キズスが声を張り上げた。まるで自分が霊骸鎧に変身したかのような気になっている。
緑色の煙から、緑色の霊骸鎧が現れた。腕や胴体に、身体の要所要所に蔦を思わせる装飾品を絡ませている。
右の手首から蔦を綱のように発射させた。蔦が、ジョニーの腕まで伸びる。
「生憎だな。俺も霊骸鎧に変身できるぞ」
ジョニーは絡まる蔦から逃れ、“影の騎士”に変身した。
黒い煙が晴れると、ジョニーは“蔦走り”サイクリークスとの距離を詰め、正面切って殴り合った。
ジョニーは“蔦走り”の攻撃をすべてくぐり抜けて、お返しに、自分の拳を“蔦走り”の顔面と胸にめり込ませる。
“蔦走り”が苦痛に揺れて、逃げ出す。ジョニーは霊骸鎧の中で笑った。
逃走経路を読み切って、壁際に追い詰める。
“蔦走り”は壁を蹴った。ジョニーは落下地点を予測していたが、“蔦走り”は降りてこなかった。壁を垂直にして立っている。足が壁に吸い付いているかのようだ。
“蔦走り”は壁を自由に走り回った。
(まるで壁に絡まった蔦だな。これが“蔦走り”の能力なのか)
と、ジョニーは理解した。
赤い髪の男が、間に飛び込んでくる。
「力では負けるか。サイ、俺を使え! 黒い霊骸鎧よ、知っているか? 俺はセルトガイナー。“火散”のセルトガイナーだ!」
黒く日焼けしたセルトガイナーは、空中で印を組み、赤い煙を全身から放出した。
だが、煙の中から人影は現れなかった。代わりに、黒くて小さな物体が降ってきた。“蔦走り”が蔦を伸ばし、物体を手に収めた。
ジョニーは危険を感じ取った。後方に飛び、距離を測る。
“蔦走り”が手にした、以前セルトガイナーだった存在は、拳銃になっていた。
“蔦走り”は拳銃となった“火散”を構えて、ジョニーに銃口を向けた。
(……武器に変身する型の霊骸鎧だと?)
ジョニーは驚きながらも、能力を開放した。
相手に自分を見失わせる能力……一瞬だけだが十分である。
上空に向かって跳躍した。
巨木に掴まって、葉の中に潜伏した。
直後、小さな爆発音が連続した。棒で、薄い鉄板を思いっきり叩いたかのような音だ。
(連射ができる自動小銃とは、厄介だ。真正面でやり合えば、負ける)
ジョニーは太い枝を折って、武器にしつつ、分析した。
「どこに逃げやがった! 出てきやがれ!」
キズスがわめき散らす。
(だったら、お望み通り出てきてやろう!)
“蔦走り”が背後を見せた瞬間、ジョニーは木を蹴った。回転させた身体から、霊力を集中させた枝で、“蔦走り”の首筋を打った。
ジョニーの得意技“落花流水剣”を直撃された“蔦走り”は吹き飛ばされるように倒れた。
舞い上がる緑色の煙から、白い肌のサイクリークスが地面に投げ出された。
サイクリークスはジョニーの技によって、気を失っている。
主を失った拳銃、“火散”が、横回転して、ジョニーの足下に滑り込んだ。
ジョニーは“火散”を踏んだ。ジョニーが自分の変身を解くと、拳銃は赤い男セルトガイナーに戻っていく。
セルトガイナーはジョニーに頬を踏まれ、怒りの目を燃やしていた。
キズスの他にも数人男たちがいたが、キズスを含め、すでにいなくなっている。
「おいナントカカントカー、喧嘩を続けるか? さっきも言ったとおり、俺は手加減をしなかった。貴様はこのままで良いかもしれんが、貴様の相棒が命を失ってしまうかもしれんぞ?」
ジョニーは笑いをこらえて、諭した。セルトガイナーの表情が、怒りから恐怖に変わっていく。
ジョニーがセルトガイナーの顔から足を離すと、セルトガイナーはサイクリークスを抱えて、無人の通りを歩いて行った。
「なかなか強い奴らだった。奇襲をされていたら、負けていたかもしれんな……」
ジョニーは意気揚々と帰途に就いた。
命のやりとりは、ジョニーの心を激しく揺さぶった。ジョニーには焼け付くような揺さぶりが心地良かった。
だが、心地よさが消えていく。
辺りは暗い住宅街で、通りは人気は少ない。
暖かい季節なのに、冷たい風が吹いた気がした。
季節外れの冷気に、気分の昂揚は分解されていく。
冷たさがジョニーの心は砕け散り、消えていった。
「俺は何をしたいのだ……?」
答はなかった。
ただ、セレスティナの顔が思い浮かぶだけであった。




