少女
1
金持ちの住む家には、どこか遊び心がある。
黒い門には、虎の顔を模した鉛製の錠前が掛けられ、壁には、蔦が、青くはびこっている。普通の家であれば、蔦など駆除するが、この家の家主は、通行人の目を楽しませるため、わざと蔦を育てている感が、ジョニーにはあった。
虎と蔓の家は、ジョニーにとって住所に近づいている、と思わせる、いわば目印であった。
目の前に広がる景色は、いつも通りの閑静な住宅街だった。だが、静けさの性質が普段とは違う。
空気を吸い込むと、血の味がする。
異常事態である。血が空気に乗ってくるとは考えられない。
「血の味など、精神的な作用だ」
と、ジョニーは解釈した。
だが、精神的な作用は、すぐに具体化した。
“混沌の軍勢”の死体が、散乱していた。チュニックを着たシグレナス市民の死体も、混ざっている。傍には弓や剣が折れて、死体から血が流れ集まり、雨水のように川を作って、道路脇の排水溝に向かっていた。
「ついにシグレナスも反撃に出たか」
ジョニーは血を避けて歩いた。
金持ちの中には、用心棒を雇っている者もいる。用心棒を雇っていなくても、奴隷に棍棒でも持たせれば、そのまま衛兵になる。ここで、小規模ながらも、なんらかの武力衝突があったとジョニーは考えた。
T字路に行き当たる。地面には、血の痕が引きずられていた。血痕が誘導しているかのように、T字路の右側に折れ曲がっている。
ジョニーは壁の影に隠れた。
「待ち伏せか……? この先を通らなければ、家には帰れない。血の道が俺の帰り道とは、皮肉である」
敵が待ち受けている可能性がある。
警戒しているジョニーの肩に、くすぐったい毛が触れた。
見ると、ゆるふわ髪の女の子パルファンだった。
ジョニーの隣に腰を落とし、猫のような丸い瞳をして、上目遣いで視線を送ってくる。首を傾げて、何かを訴えている。
ジョニーは横やりを入れられた気がして、苛立った。
「俺がなにか珍しい動物にでも見えるのか? ……敵の姿が見えないからといって、まだ安全ではない。俺の隣は、敵に見つかる。……俺の後に付け」
ジョニーが冷たく言い放つと、パルファンは申し訳なさそうな表情をした。
悲しげな背中で、ジョニーの命令に従った。
(女は煩わしい。何を考えているのか分からん。……だが、言い過ぎたかもしれん)
と、ジョニーは反省した。
ジョニーは壁から顔を出して、様子を窺った。
血痕の終着地点には、チュニック……大きめのTシャツに腰部分をベルトで締めた衣服……を着た男が、うつ伏せになっていた。
シグレナスの人間だ。
死因は、背中に刺さった矢である。出血をして、絶命している。
自分たちをおびき寄せる罠かもしれない。
ジョニーは周囲や上空を見渡した。
だが、敵の姿は見えない。敵の気配を感じない。
「勇者様、あれ!」
プティが叫んだ。指を指した先は、死体となった男よりもさらに向こうに倒れている、“混沌の軍勢”の二人だった。
ただの死体とは違い、お互いの胸に刃物を刺し合って息絶えている。
「同士討ち……? なぜ……?」
プティは瞬きした。
2
白い壁の邸宅を見つけた。高い壁の角には、巨大な木が見える。緑豊かに茂った巨木は、壁によって胴体を外部の目から隠されていた。
ジョニーの住む家まで、あと三軒隣である。
白い家は、普段ならば閉ざされているはずの門が壊されていた。
門の前で“混沌の軍勢”が二人、互いにつかみ合って、野生動物のような声をあげて、威嚇していた。
喧嘩をしている。
壁を背にした少女が、自分の口をおさえて、二人の“混沌の軍勢”を目の前に、狼狽えている。
「貴様らは、隠れておけ」
ジョニーは振り返らず、プティたちに指示をした。
ジョニーは、気配を殺し、忍び足で“混沌の軍勢”に近寄った。
壊れた門から邸宅の中が見える。観葉植物は倒され、屋敷から煙が上がっていた。
「そこの者……! そこの者……!」
小さい声で、誰かが呼んでいる。
門が倒れ、折れ曲がった金属部分に、巨体の人物が下敷きになられていた。
人物の隣に寄り添っている初老の男が、ジョニーに向かって囁いていた。
「こちらの御方を助けるのに、手伝ってもらえないか? 私は、シグレナスの法務官、アーサー・イドルトだ。……頼む!」
イドルトの隣におられる、上半身だけ出た巨体の人物は、抜け出そうと這っておられたが、出られない。イドルトがお手を引っ張るが、体重と門の重さで微動だにしない。門を動かすには、人手がいる。
下敷きになっている御方を、ジョニーは知っていた。
ジョニーだけでなく、シグレナスの人間であれば、誰もが知っている。
銀貨をはじめ、シグレナスに流通している硬貨には、剣に絡みついた竜……シグレナスの国旗が刻まれている。硬貨を裏返すと、人物の肖像が彫り込まれている。
硬貨の裏に竜顔を彫られ、門の下敷きになられている御方こそ、シグレナス帝国第九六代皇帝、ゾルダー・ボルデン帝でおわせられた。
だが、ジョニーは助けなかった。
「待て。救出の前に、敵を排除する」
口元に指を置いて、イドルトを黙らせた。仲間割れしている“混沌の軍勢”を指さして、首を切り落とす仕草をした。
“混沌の軍勢”を見ると、二人とも髪型に違いがある。頭頂部と後ろ髪を残して髪を剃っている点では共通しているが、伸ばした髪をどうするかで個性が分かれていた。
片方の“混沌の軍勢”は三つ編みにしており、もう一方は、髪の結び目に丸い宝石をつけていた。
三つ編みの男が宝石をつけた男の胸に片手曲刀で斬りつけた。
宝石の男は背中を見せて、逃げた。足がもつれ、倒れる。三つ編みが、宝石の腰にまたがって、曲がった短刀を、背に何度も突き立てた。
相手が動かなくなったと確認すると、生き残った三つ編みは、天に向かって遠吠えをした。
狼を思わせるような咆吼は、勝利の響きに聞こえた。
刃先を舐め、向かった相手は、少女だった。
少女は壁際に追いやられた。
腰が引けている。細くて白い手には、武器を持っていた。だが、武器といっても物干し竿で、殺傷力が感じられない。
ジョニーは、三つ編みの背後から忍び足で近づき、右腕を首に滑り込ませた。
片腕だけで首を締める。
暴れる三つ編みを捕まえたまま、後ろに下がる。三つ編みを少女から引き離し、安全な距離を確保したら、三つ編みの背中に飛びのった。おんぶをしてもらう子どもと同じ要領である。自分の両脚で相手の足を絡め取った。
ジョニーが左腕で後頭部を押すと、二人分の体重で、三つ編みは、顔から倒れていった。
ジョニーは、三つ編みの顔面を石畳に叩きつけた。
ジョニーは残った左腕もつかって、三つ編みの首を完全に固定する。あとは締め上げるだけだ。
青い顔が赤くなり、三つ編みは死にかけの羽虫のように手足を動かして、錠前となったジョニーを外そうとしていた。だが、ほどなくして、動かなくなった。
砂時計の内部で落ちる最後の一滴のように、ジョニーの腕から脱落して、地面に崩れ落ちた。
三つ編みの“混沌の軍勢”を見おろすと、ジョニーは蕩けるような感覚で胸を酔わせた。
ジョニーは、自分の口元を手で隠した。笑いがこみ上げてくる。
(喧嘩はいい、喧嘩は、俺を神にしてくれる! こいつが生きるか死ぬかは、全て俺の気持ち次第だからだ。俺は、こいつにとっての神なのだ)
周囲に自分の気持ちを知られては、狂っていると思われる。ジョニーは不機嫌そうな表情で笑いを噛み殺した。
陶酔感と、陶酔感を隠したい気持ちがせめぎ合っている中、ジョニーは視線を感じた。
視線の持ち主は、少女だった。
少女の長い髪は、クリームに蜜が流れているような金色で、肌は透き通るような白く、身は細く、青くて丈の長いドレスを着ている。
少女の青い双眸は、水分で煌めいた。宝石のようにも、夜空に輝く無数の星々に似た輝きを放っていた。
小さな唇が僅かに震えている。
ジョニーは、風に吹かれた感覚に陥った。
物理的には、風など吹いていない。だが、風は吹いていた。風の発生源が、少女の全身から放出されている。
風は、柔らかくて、暖かい。
(なんだ、この感覚は……?)
ジョニーは動揺した。これまでに感じた記憶もない感覚である。
殺戮と略奪の、血なまぐさい世界とは真逆の感触であった。
体内から暖かくなっていく。
喧嘩でしか得られない独特の陶酔感は、新しい感覚によって駆逐され、消えていた。
代わりに、夜空に浮かんで、優しく揺られているような感覚に満たされていく。
自分がいた世界は消えた。
まったく別の世界にやってきたようだ。
星空に浮かぶ世界だ。
この世界には、少女とたった二人しかいない。
星々に包まれて、ジョニーは少女を見つめていた。
少女も、ジョニーを見ていた。少女の瞳には、涙が浮かんでいた。悲しんでいるかのようにも、笑っているかのようにも見える。
星空の世界こそ、真の世界だ。
これまでの世界が間違っていた。
ジョニーの身分は奴隷だった。
家事や雑務はしなかった。向いていないし、やる気もない。
街を当て処なく歩けば喧嘩をし、ただ街の景色を眺めて過ごしていた。
常に尖っていた。
誰を相手にするにも、勝者であろうとしていた。
喧嘩でしか、自分を見いだせなかった。
だが、新しい感覚の中で、これまでの自分がどうでもよくなってきた。
神になる?
なんの価値があるのだろうか?
「何をしている! 早くお助け申し上げろ!」
イドルトの叫び声で、ジョニーは現実世界に引き戻された。
少女がジョニーに背を向けて、駆けていく。
少女と後ろ姿から、ジョニーは何も感情が読み取れない。
長い間、少女と見つめ合っていたような気がする。
「なんだ、これは……?」
ジョニーの目に、涙がたまっている。
ジョニーは自分の涙を拭いた。悲しい冷たさと嬉しい熱さのある涙であった。
喧嘩に明け暮れて生きてきた。
泣いた記憶などなかった。
「ああ、セレスティナ殿……。そなたは賢い」
少女セレスティナは、帝の上にある鉄の門に物干し竿を引っかけた。テコの原理で、倒れた門を動かそうとする。
帝が、お顔をほころばせになった。帝が、少女セレスティナに絶大な信頼をおかけになっている、とジョニーは理解した。
ジョニーは、胸の中で音が鳴ったような気がした。不安な感情が、押し寄せてくる。
足下を見た。石畳の一部がひび割れている。
(石畳と同じく、俺の中で、ひびが入ったのか? ……だが、それがどうだと言うのだ?)
奴隷女が、権力者と心を通じ合わせている。シグレナスではよく見かける風景だ。
(それが、俺に何の関係がある?)
ジョニーは混乱していた。自分の心が分からない。
イドルトがジョニーを横目に、セレスティナを手伝った。
だが、倒れた門は持ち上がらず、物干し竿が折れた。
「そこの者! 早くしろ! 奴らは集まってくる!」
イドルトがジョニーに向かって鋭く叫んだ。物干し竿が折れた責任を誤魔化しただけなのだろう、とジョニーは理解した。
ジョニーは、イドルトに近づくと、冷たい表情をあえて作った。
「法務官のアーサー・イドルトと言ったな。イドルトよ、皇帝陛下を助けて欲しいか?」
「そなた、何を申しておる? 無論だ」
「俺は、ジョニーだ。ブレイク家で、奴隷をやっている。主人に代わって逮捕された。成り行きで牢から出たのだが……こいつら野蛮人を皆殺しにしても、俺はまた牢屋行きになるだろう。……俺を無罪にしろ。無罪にすると約束したら、助けてやる。……俺の主人は殺しをするほど度胸もない。無実だから安心しろ」
ジョニーは声を低くして、自分の要求を伝えた。絶対に下に見られてはいけない。
「この方を、どなたと心得る? シグレナス帝国の皇帝陛下なるぞ」
イドルトの興奮した口調に、ジョニーは、さらに冷静になった。取引は、冷静にかつ淡々とこなしていくべきなのである。
「知っている。知っているからこそ、頼んでいるのだ。……さっさと無罪にしろ。あるいは、裁判や逮捕をもみ消しても構わん」
「先ほどから、何を申しておる? 逮捕だの、無罪だの……? 今は緊急事態であるぞ? 早く陛下をお助けせんか」
イドルトが喚き散らした。薄くなった前髪に、細い血管が浮き出る。
「法務官。筆を用意せよ。この者の要求を聞いてやれ」
と、帝が宣った。落ち着いた口調で、ジョニーは意外だった。
人の上に立つ御方は、いかなる緊急事態でも、市民の前では取り乱さず、平静とされておられるものだ、とジョニーは思った。
「シグレナス帝国、第九六代皇帝ゾルダー・ボルデンとして命ずる。シグレナス帝国法務官、アーサー・イドルトよ。このジョニーなる者の恩赦を確約せよ!」
帝の威厳がこもった玉音が、青い空に木霊した。鳥たちは飛び立ち、重苦しい空気が晴れやかになった。
法務官アーサー・イドルトは、懐から取り出した、表面に蝋燭を塗られている書字板に、帝の宣旨を書き写した。
イドルトは事務的な口調で、ジョニーに伝えた。
「ブレイク家の奴隷、ジョニーよ。皇帝陛下のお言葉は、文書として発行され、後日、そなたの家に届くであろう。そのとき、そなたは無罪放免となる。事務処理に時間が掛かる場合がある。日数を待つが良い」
どこか怒気を含んでいる。ジョニーは、イドルトが事務を遅らせる意図がある、と気づいた。
「迅速な事務処理を要求する」
ジョニーは、目を閉じて返事をした。
「事務処理は適切に、かつ迅速に行われるであろう。……私の機嫌が良ければ、な」
と、イドルトは最後の発言を小声で追加した。帝がお耳になされては、困る内容である。
「必ず届くであろう。……お互い生き残っていれば、な」
と、ジョニーは、小声でやり返した。
3
ジョニーは印を組み、“影の騎士”に変身した。
セレスティナがジョニーの姿を見て、目を瞠り、驚いている。ジョニーはセレスティナが霊骸鎧を見た経験がないのか、と思った。
ジョニーは片腕で、倒れた門を楽々と持ち上げた。
いつの間にか集まっていたプティたちと力を合わせて、帝を救出した。
帝はおみ足にお怪我をなされ、お歩きになられなかった。プティとイドルトが、帝を支えるが、二人の腕力では、帝のふくよかな玉体を支えきれなかった。
ジョニーが変身したまま、帝を抱え、屋敷の玄関まで入った。
帝を連れ、ジョニーは変身を解いた。
「しばらくは、ここに身を隠す」
暗い屋敷の中から、貴族の子どもたちの顔が見えた。不安げな表情をしている。
「お姉さん先生!」
女の子が一人、集団から飛び出て、セレスティナに抱きついた。
「良かったぁ、生きていて。お姉さん先生が、殺されるかと思ったぁ」
女の子が泣いている。セレスティナは目に涙を浮かべて、女の子の頭を撫でていた。
帝は、お優しい眼差しでセレスティナをご覧になっていた。
ジョニーは、連れの様子を見回した。帝とセレスティナばかり集中していたので、誰か消えていないか確認したくなった。
プティは外の様子を窺っている。
マミラとパルファンは、帝を前にして縮こまっていた。普段の生活では、一般市民が帝に近づく状況などありえないからだ。
頭巾を被ったサレトスからは、表情が読み取れない。帝から距離をとっているようにジョニーには感じた。
イドルトが爪を噛みながら、不機嫌な声を出した。
「レイトリクスたちは、まだか? 救援に向かってきても良いはずだ。何をこれほど遅れているのか。蛮族どもなど、我らシグレナスの霊骸鎧があれば、たやすく殲滅できるというのに」
マルクス・レイトリクス。
世事に疎いジョニーでも、その名前を知っている。
シグレナスで内乱や他国との軍事衝突が起こるたびに、レイトリクスの勇名がシグレナスの街に鳴り響いた。
シグレナス史上最強と名高い霊骸鎧、“水晶騎士”に変身する不敗の戦士である。
(“水晶騎士”とは、頼もしい……。“混沌の軍勢”など、すぐに殲滅してくれるにちがいない。……だが、問題は、俺の変身時間だ。あと三十秒も持たない。援軍が来るまで、もつかどうかだ……)
ジョニーは自身の霊力を分析した。
「勇者様、敵が来ました……!」
プティは、悲鳴に似た声色で報告をした。ひそめた眉には、絶望の色が澱んでいる。ジョニーは、馬の蹄石畳を打つ震動を感じた。敵の数は、一人や二人ではない。




