星降りの女神
「勇者様……」
バロンが耳元で囁く。
目を開くと、そこは“魔王城”の廊下だった。外から赤い夕暮れが差し込み、城の中で影を落としていた。
カレン軍団の表情が不安げな色に染まっている。
「奥の部屋に行かれたのですか……?」
バロンが聞いてくる。立入禁止の場所で叱られるのか、カレンは不安になった。
「行きました。“アーガスの書”とか変な本がいっぱいあって、変な人が変な本を書いていて、とにかく変な場所でした」
と、何事でもない素振りで返事をした。
アーガスと聞いて、バロンの眉が、かすかに動いた。カレンは、表情の変化を見逃さなかった。
「バロン。“アーガスの書”をご存じですよね。……僕も読んだ、いや観ましたけど、どんな内容なのか頭に入らなくて。あの本は、なんなのでしょう?」
カレンの質問に、バロンは少し考え、口を開いた。
「“アーガスの書”は、過去の宗教家が書いたとされる予言の書です。世界の終末が描かれています」
カレンは、バロンが言葉を選んでいるように感じた。
「……世界の終末ですって? 世界は結局、どうなるのですか?」
と、カレンは質問を繰り返したが、バロンは視線を落とし、答えない。
カレンの頭が煮えたぎったように熱くなった。バロンの態度に対して怒っているのではない。
頭の中で整理できず、理解が追いつかないのだ。
(将来、僕が黒い霊骸鎧と戦う? それで世界が終わっちゃうの?)
この“魔王城”では、不可解な情報が多すぎる。
バロンは軽く咳払いをした。カレンの逡巡は打ち破られた。
「お食事の時間です」
謁見室に連れて行かれる。
先頭のバロンに従いていく。カレンの後をカレン軍団が並ぶ。
重厚な扉が開かれると、穏やかで芳しい空気が、カレンの鼻をくすぐった。
高い天井に、目を奪われた。二人の男女が向き合っている絵が描かれていた。男の肌は黒く、女の肌は白かった。
部屋の奥側には、金属製の玉座があった。無人の玉座は、龍を思わせるような形状をしている。
謁見室の中央に温かみのある絨毯が敷かれていた。
絨毯の上に机が置かれ、さらには、きめ細かい刺繍をこらされたテーブルカバーを被せられていた。柔らかいソファーが周りを囲んでいる。ソファーのそばに、長身の老人と女性が立っていた。
「こちらは、軍法官のゼルファーです。こちらの女性は内務官のアリーサザナ」
と、バロンが紹介した。ゼルファーは黒い法衣をまとっていて、厳格な表情をしている。
白いドレスに身を包んだアリーサザナは、カレンに微笑みかけた。白髪と顔の皺のせいで、母親よりもずっと年上に見える。アリーサザナの耳元に揺れるイヤリングが、青い輝きを見せていた。
(二人ともバロンに負けないほど立派な人たちだ)
カレンは、ソファーに深々と座った。柔らかい羽毛に包まれた感覚に、カレンは吸い込まれそうになった。だがバロンたち三人は、カレンの両脇で立ったままだ。
(あれ、誰も座らないの?)
振り返ってカレン軍団を見ると、全員が壁際に立ち、命令を待っている。
玉座の裏側から扉が開く音が聞こえた。
「国王陛下」
バロンたちは、お辞儀をした。
国王と呼ばれた人物は、玉座の裏側を回り込み、悠然とした動きで現れた。
長い黒髪を両肩に垂らし、赤を基調とした上着には金色の複雑な刺繍が施されている。
口元に鋭い髭を蓄えた若い男……アウムハゥストラ・インドラであった。普段は頭に奇妙な布を巻いているので、カレンには一瞬誰だか分からなかった。
気になる人物の姿が見えない。カレンは身を乗り出して、インドラの背後を探した。
背の高いインドラは、カレンを見下ろした。
「ガルグは、死んだ……」
インドラはカレンの疑問を察したのか、低い声で説明した。
カレンは驚いた。“魔王城”に来てから、最大の衝撃である。
「し、死んだ……? どうして?」
インドラは、カレンの疑問を無視して、ソファーに腰掛ける。バロンたちも倣った。
食事が運ばれてくる。
(あんなに強かった人が、こうもあっさり死ぬものなのか……変な人だったけど……)
また知り合いが減った。
カレンは寂しくなった。知り合いの死は、少なからず心に穴が開いたような感覚になる。
カレンは虚空のように皿を眺めた。丸い皿に野菜や穀物が盛り付けられている。
だが、ガルグの死を聞いたら、食事を楽しめる雰囲気でなくなった。
インドラが威厳をもって、ゆっくりと片手を挙げた。
「食事の前に、神に感謝しよう。今、我々が食事をいただけるのは、すべて神のおかげである」
「神……?」
カレンは突然の登場人物に驚いた。
(神とは誰なんだろう? 感謝って、何をすればいいのだろう?)
インドラは、頭の上に、両手で何かが降りかかってくるような仕草をした。それぞれの手を、頭から肩に落とした。
(あれが、『神に感謝する』か)
ゼルファーとアリーサザナに目を移す。両手の指を段違いに組み合わせて、目を閉じている。組み合わせた両手を胸元から鼻の位置まで上げた。二人は呟いた。
「アーガス」
(アーガス? この人たちも、あの“アーガスの書”を読んでいる! あの訳の分からない本を)
バロンは何かを呟き、豆のように小さい物体を、足下に投げ捨てた。
(みんな、好き勝手に自分のやり方を貫いているんだけど? 自由にやりすぎ。しかも、動きが変。そもそも神という人は、変な仕草を強要してくる人なのかな?)
カレンは混乱した。目眩がする。だが、すぐに気を取り直した。
頭に何かが降りかかる仕草をして、胸元に手を合わせて、投げ捨てる動作をした。
全員のやり方を、すべて混ぜたのだ。
誰もカレンの挙動を見ていない。それぞれが目を閉じて、霊力を内部で暖かく揺れていた。
(霊骸鎧に変身できる人、二人だけ……、つまり、僕とインドラだけだ。それなのに、霊骸鎧に変身できない、バロンたちも霊力を操っている……)
カレンに、とある疑問が生まれた。
(霊力は誰でもある。霊骸鎧が霊力によって動いている。変身できる人と、できない人の違いは何なのだろう?)
インドラたちの目が開く。インドラたちから霊力が解放され、カレンは暖かい光に包まれた。
カレンは穏やかな気分になった。ガルグが死んだ衝撃が嘘のように消えた。
立派なクロスの上で、お椀に料理が盛られている。
(これがヴェルザンディ式なのね)
生まれて初めて見る料理ばかりだ。食べ方が分からない。インドラの様子を見る。
インドラが、穀物のはいった皿に匙をつけて自分の皿に盛った。他の老人たちも、それぞれの食べたい料理を、自分の皿に運んだ。
食べる規則は理解した。自分の皿に運ぶ。
だが、カレンが一番食べたい品物は、平べったく焼かれたパンだった。
(パンだ。シグレナスでは滅多に食べられないご馳走だ。……勝手に手をつけて良いのだろうか? なにか僕の知らない決まりでもあって、それに違反したら、どうしよう……。怒られるかな?)
パンを凝視していると、アリーサザナが皿からパンを拾い上げ、一部を千切って渡してくれた。
「はい、どうぞ。お上がりなさい」
アリーサザナが笑顔を見せた。この女性は、今でも美しいが、若い頃はもっと綺麗だったにちがいない。カレンは恥ずかしくて、目線を下げた。
頬張ると、弾力のある歯ごたえから、小麦粉の柔らかい甘みが口に広がった。
「ここを自分の家だと思って。何も遠慮しなくていいのよ」
アリーサザナの優しい口調に、カレンは思わず頭を掻いた。
アリーサザナは家庭菜園の話をした。家庭菜園から牛の話、孫の話題になった。
ゼルファーは適当に相づちをうち、聞いているのか聞いていないかのような反応をしている。バロンは手を叩いて笑っている。
ゼルファーは仕事の話をした。誰か部下の悪口らしいが、カレンには、その誰かが分からなかった。バロンは笑って、ゼルファーの肩をさすり、機嫌をとった。
カレンはインドラを見た。真剣な眼差しで老人たちの会話を聞いている。口を挟む素振りも見せず、かといって大食をするわけでもなかった。
もともと無口で内向的な性格だったが、インドラは国王なのである。威厳を保つために、食事中の会話に参加しないのである。
大人たちの事情など、カレンは気にならなかった。食事に集中した。
故郷でバッタを焼いて食べていたカレンにとっては、信じられないほど美味しい食事であった。
辛味の効いた米にカレンは額から流れる汗を拭った。
差し出された生野菜で辛味を和らる。杯に注がれた果汁を喉に流し込む。
特に、鶏肉の羹が、気に入った。辛みと甘みが同時に来る。
どんな方法で味付けをしているのか、カレンには想像できなかった。
夢中になって食す。
バッタ?
蜘蛛?
そんなものは忘れた!
(このまま美味しい時間が終わらなければいいのに……)
カレンの願いは、むなしく満腹になった。匙を皿に放り投げ、一斉に視線を集めた。
カレンは幸せな気分になった反面、申し訳ない気持ちになった。ただで食事を恵んでもらう状況は、物乞いのようだ。
「こんな美味しいものをご馳走していただいて、なんてお礼をしていいのか。どうでしょう、踊りでも歌でも、何かしたほうがいいですか?」
カレンの発言に、ゼルファーとアリーサザナは顔を見合わせた。まるで子どもたちが秘密の合図したかのように、、頷きあった。
「“星降りの女神”を呼んでいただきたい」
ゼルファーが興奮を隠しきれない様子で訴えた。
ゼルファーが“星降りの女神”を知っている。カレンは驚いた。
「呼んでもいいですけど……。どうするんです? 僕は“星降りの女神”がどんな霊骸鎧なのか、まだ知りません」
「……流れ星が見たい。星を動かしてもらいたい。“星降りの女神”は、唯一宇宙に干渉できる霊骸鎧です」
「“星降りの女神”って、星を操るのですか? ……それに、宇宙? 宇宙って何ですか?」
カレンは困惑した。星を操る霊骸鎧なんて、初めてだ。アリーサザナがカレンの手を優しく触った。
「宇宙とは、お空の向こうにあるの。星は宇宙にあるの。……みんなで外に出ましょう。高い塔に登って、お空が見える場所。ねえ、いいでしょう? 国王陛下」
アリーサザナが、インドラに提案した。
「好きにするが良い……」
インドラは低い声で返事をした。
(投げやりな言葉選びが、どこかの誰かに似ているな)
と、カレンは思った。
謁見室を離れ、カレンたちは螺旋階段を登った。
登り切った先は、尖塔の頂上であった。尖塔には雨よけの屋根がついているだけで、全方角を見渡せた。
夜空を見上げると、輝く星で埋め尽くされていた。
尖塔の下、つまりヴェルザンディの城下町を見下ろすと、家々の灯りが星のように夜の街を明るくさせていた。
“星降りの女神”の召喚は難しい。
霊力の印が複雑で、何度もやり直しをした。
「出でよ、“星降りの女神”」
“星降りの女神”が、あらゆる色の光に包まれて、現れた。光の色は六色すべてであった。
あまりにも輝いているので、カレンは目を隠した。
“星降りの女神”は女性の形をとった。
全身から光を発し、カレンは直視できない。他の霊骸鎧と同じく、“星降りの女神”が足下にひれ伏す。
「汝の名前は、アナスタシア・ヴィルサイティウス!」
目を閉じながら、“星降りの女神”の頭頂部に手をやる。
「カレン・エイル・サザードとして命じる! 星を動かせ」
“星降りの女神”は尖塔の欄干をすり抜け、空中に浮かんだ。
“星降りの女神”は、回りだした。舞っているようにも見える。
アリーサザナが声を出した。天を指さす。
一つの星が流れた。他の星々も、追いかけるように流れていく。いつの間にか、多量の星が雨のように降り注いでいた。
鼻をすする音が聞こえた。音のなる方向を見ると、アリーサザナが涙を拭っている。
ゼルファーはその場で崩れ落ち、号泣している。
バロンは優しい笑顔を見せていた。目が涙で光っている。
一人、インドラだけは興味のない表情をしていた。
城下町に並ぶ家々から、ヴェルザンディの国民たちが顔を出した。夜空を煌めかせる流星群に、顔を合わせ、珍しい現象に歓喜している。
実際に見ていないが、カレンには子どもたちや、昔、子どもだった者たちの明るい笑顔が見えた。
カレンの身体が震える。頭を鈍器で殴られたような感覚だ。両肩から力が抜け落ちていく。
(“星降りの女神”、僕の力では支えきれないほどの力を持っている)
カレンは焦った。こんな霊骸鎧は初めてだ。だが、星を操る能力を持っているのだから、当然である。




