【異 形 な る 存 在】
続きです。
1
ゲントおじさんは小舟を海岸沿いに進めた。
切り立った断崖から、白い鳥たちが飛び立っていく。青い空に向かって飛ぶ鳥の群れが、青い大海原に影をつくっていた。
カレンはゲントおじさんのタイミングに合わせて櫂を手に漕いだ。波は穏やかで、日差しが強い。カレンは額から流れる汗を拭く暇もない。
小舟から砂浜に立ち寄った。小屋が見える。
「今日はここに泊まる。一泊して、明日の早朝に出かけるぞ。そうすれば、待ち合わせ場所と時間に間に合う。……カレン、水を汲んできてくれ」
桶を渡される。ゲントおじさんが山を指さした。先には、岩場から小さな滝が流れている。
桶を両腕で高く持ち上げ、滝の水を受けとめた。
「そういえば、仕事を紹介するって言ってたけど、事前に何も伝えなくても大丈夫なのかな? いきなり行って追い返されたりしないかな?」
カレンに疑問が湧いてきた。滝の水が溜まるたびに、内部の不安が溜まっていく。
近くでゲントおじさんが、木を切り倒している。
カレンは疑問をぶつけた。ゲントおじさんが早口で応えた。
「大丈夫だ。お前を連れて行くだけで話が伝わる。だから、心配するな」
目をあわさない。
「へぇ、そうなんですか」
言葉では納得はしたものの、どこかおかしい。ゲントおじさんが慌てている。
(断ることができるぞ。カレン。ここで)
声が聞こえる。斧を借りて、薪集めを手伝う。
(帰った方がいいかな?)
木を打ちながら、カレンは「声」に聞き返した。斧の扱いは得意だ。腰を入れて、真横より少し斜めに斧を振る。
(お前が心配ならな)
「声」が返事をする。
(オズマが心配だ。だから、やる。引き返さない)
カレンは決意を揺るがせなかった。
地面が揺れる。最初、木が倒れたせいかと思った。足下に桶を置いているが、貯まった水面が揺れ始めた。
地震だろうか?
違う。
カレンは、この感覚を知っている。
空を見る。白い雲が広がる、青い空だ。
一瞬だけ、空がオレンジ色に染まった。
空は青さを取り戻したが、遅れて轟音が響く。
大地が激しく揺れた。
上空から音が鳴る。
雷鳴かと思った。どうも違うみたいだ。
木と木と間から、空を浮かぶ、その存在が見えた。
【異形なる存在】。
人々は、そう呼んだ。
この世とは思えない物体が、空を飛んでいる。カレンには、巨大な鯨に見えた。カレンは鯨の絵を見たので、鯨を知っている。普通の鯨とは違って、尾にはヒレがなく、かわりにイカやタコのような触手が生えていた。
鯨の巨大な口から、オレンジ色の煙を噴いている。
ゲントおじさんが、地面にひれ伏した。
「神様、神様。お許しください、我ら罪深き人間の子らを、神の国に連れて参られぬようお願い奉ります。……」
不気味な呪文を唱え始めた。ゲントおじさんの異様な行為にカレンは動揺した。
ゲントおじさんが横目で、カレンを睨んだ。
「お前も頭を下げろ!」
カレンもゲントおじさんにならって地面にひれ伏した。
カレンは目をつぶってやりすごした。
大人はときどき意味不明の行動をするものだ、とカレンは自分を納得させた。
【異形なる存在】が真上を通過すると、呼応するように地面が響いた。悲鳴のような地響きは、女のように高くもあり、男のように低くもあった。
「なんだろう……この感じ」
カレンにとって、【異形なる存在】は、これが初めてではない。
生まれてからこれまで、何度も目撃している。母親のリリアンから「目をあわせてはダメ」と注意されていたが、母親に隠れてよく観察をしていた。
今日は初めて違う感覚に陥った。
熱い。
異様な暑苦しさを感じた。煙突のない小屋でする焚き火のような、行き場のない熱気。
熱気が放出されている。その熱風は、まるで人の感情である。声にはならない声。
地響きと共鳴している。一つの曲を奏でている。
目を閉じると、人間の骸が見える。人間だけではない、獣の死骸、枯れた木々、死んだ魚。かつては生命を持っていた者たちが混ざりあって、一個の物体を形成している。物体は坂だ。天まで続く巨大な道だった。
坂道の上を見た。
髪の長い女が立っていた。
髪の色は、金色に見える。いや、銀髪にも見える。
女がカレンの存在に気づいたのか、振り返る。
目が合った。
「どうか行ってくださったな」
カレンは現実に戻された。ゲントおじさんは立ち上がり、埃を払っていた。両脚は震えている。蛇の横行から命拾いした小動物のようだ。とカレンは思った。
次の日になった。
2
「着いたぞ」
ゲントおじさんが海岸に小舟を近づけさせた。
木造で頑丈そうな巨大な船が三隻、停泊していた。
側面から、大量の櫂が飛び出ている。毛虫のようだ、とカレンは思った。大量の人間と物資を一度に輸送できるだろう。カレンは、商品が所狭しと敷き詰められた二人乗りの小舟と見比べた。
カレンが桟橋に縄で小舟を停泊させた。ゲントおじさんが丘を登る。
「ここが街……?」
丘を越えると、建造物の集合にぶつかった。
建造物は、家だった。家には屋根も壁もなく、骨組みがそのままになっている。かつて住人だった者の姿はなく、現在は草木の占領下にあった。
骨の家の一つに、草木が刈り取られている場所があった。男たちが焚き火を囲っている。何かを話している。男の一人がカレンたちに気づいた。ゲントおじさんが、手を振って挨拶をした。
カレンに「そこで待っていろ」と命令し、焚き火を囲っている男たちの輪に入った。
カレンを見ながら、何か小声で会話をしている。
ゲントおじさんが銀貨を数枚受け取り、頭を下げた。
小走りにカレンの元に戻ってくる。
「ゲントおじさん、あの人たちは誰?」
「お前に仕事を紹介してくれる方たちだ。愛想良くやれよ」
早口に説明すると、懐に財布をしまった。
「じゃあな。達者でな。元気に働けよ」
カレンの肩を叩く。
「帰っちゃうの?」
カレンの質問を無視するかのように、小走りに去っていった。
丘から見おろすと、ゲントおじさんは小舟で海岸から出ていった。
「君がカレン君だね。こちらにどうぞ」
背後から、焚き火の男たちに声を掛けられた。
「はい、僕がカレン・サザードです。シグレナスの皇帝になる予定です。どうぞ宜しくお願いいたします」
カレンは頭を下げた。男たちが顔を見合わせて、笑った。
「なかなか面白い子だ」
「将来、有望だな」
「よっ。未来の皇帝陛下!」
カレンは褒められて、少し恥ずかしくなった。
船に案内された。丘を降りていく。
カレンは、男たちに従いていった。数人がカレンの背後に回った。取り囲まれている。囲む対象が焚き火から自分に移ったと考えると、カレンは多少楽しくなった。後ろ姿から、前の男の顔が見えた。
どうも人相が悪い。
中には、フードを被って顔を隠している者もいる。
桟橋に着いた。
この巨大な帆船で、新しい生活が始まろうとしている。
男の一人が、カレンに手を差し出した。日焼けして岩のように堅そうな指をしている。
「荷物を預かってあげる。航海の邪魔になるからね」
「それは親切にどうも」
カレンが銛と魚カゴとバッタの入った虫カゴを、男に渡した。
「腕を出してくれないか?」
男の注文が続く。カレンには、男の意図が理解できない。もう一度聞き直したが、男は「両腕だよ」と、笑顔を絶やさなかった。
カレンは男の顔を見た。左の眉毛に傷跡がある。刃物を受けた痕だ。
両腕を出す必要性が、理解不能である。
だが、これも都会の人間ならではの儀式なのかもしれない。
あまり、人を疑うものではない。
「はい、どうぞ」
カレンは男に向かって両腕を突き出した。
シグレナスの皇帝たる者、民心を裏切ってはならないのだ。
「目を閉じて」
カレンは言われるまま、目を閉じた。
なにかの音と、衝撃を両方の手首に感じた。目を開くと、手首を穴の空いた板で固定されていた。二枚の板を、金具で張り合わされている。
手錠!
さすがのカレンも異常事態だと分かった。
「これはちょっと趣向が変わっておりますな」
カレンは手錠を眺めた。金具を外せば、簡単にとれるが、はめられた側の手の届かない位置にある。
「なかなかの機能的なデザインをしていますね」
カレンは感想を述べた。
「大きな船だからな。落ちないように両手首を縛りつけるんだ」
傷の男が説明する。周りの大人たちも笑った。
「あれ、みなさんには不要なんですか? ……船から落ちちゃったら大変だ」
カレンの皮肉に、大人たちは凍りついた。カレンは首に衝撃を受けた。「てめぇ、奴隷の分際で何をほざいてやがる!」
節くれ立った、指の骨っぽさが、カレンの首に食い込んでいく。
カレンは脚をバタつかせたが、なんの抵抗にもならない。
フードを被った男が、手で制した。
「トニー……。出航の時間だ。最近、この近海に海賊が出るという。予定はなるべく早めた方がいい」
人の声ではある。金属が擦り合うような響きである。トニー、とは今カレンの首を絞めている奴の名前だろう。
トニーが手を離すと、カレンは桟橋に着地した。乱れた呼吸を整える。
「さっさと行け!」
トニーが蹴る仕草をした。蹴られない位置を保って、カレンは船の中に歩いていった。
「……この僕が奴隷だって。ゲントおじさんめ。騙したなー。今度、会ったら、とっちめてやる!」
続きます。