黄金の杯
1
「……ナスティに会うんだ」
照りつく日差しの中、カレンは呟いた。
カレンは筏の上にいた。
筏の外に丸太があった。丸太は、浮子である。筏の上に橋渡した二対の木材に、縄でくくりつけていた。
浮子のおかげで、横転の心配はない。
ただ、櫂から伝わる水の抵抗が重く、筏の進行は遅かった。
カレンは、腕から痺れに似た疲れを、全身で感じた。
川は広く、波が来るので、もはや海である。
以前であれば、筏は得意中の得意だった。オズマから「お前の筏には、何か仕掛けがあるのか?」と指摘されるほどであった。
「アポストルの村に行ってから、僕の身体は弱くなったような気がする」
カレンは、いつしか貝殻頭を貝殻頭と呼ばなくなった。貝殻頭たちは、自分たちをアポストル、と名乗っていた。彼らと時間を過ごして、彼らの考えが、カレンの身体に浸透してきたのかもしれない。
身体が弱っている。以前と比べて、筋力が落ちた。
ジョムディラに食べさせられた豆と芋に、なにか細工があったのだろうか?
村で貰った飲み水がいけなかったのか?
まさか、あとで追いかけて僕たちを殺しにくるのでは?
暗い想像が、暗い想像を生む。カレンは気分が悪くなってきた。
カレンは頭を振り払った。
あのジョムディラが、毒を盛るような所行をするはずがない。する理由がない。
村のアポストルたちは、“魔王城”を必要以上に警戒、いや畏怖していた。“魔王”とアポストルは、カレンたち人間に、危害を加えない約束かなにかを交わしている。
「村に来る前と比べて、今はお腹は痛くない。だから、まだマシだ。休みすぎて身体が鈍っただけだ」
と、カレンは結論づけた。
目的地、向こうの川岸を見た。
南国の樹木が覆い繁り、体力の低下が原因なのか、カレンには遠く、密林が到着を拒否しているような印象を受けた。
後ろのトニーと漕ぐ方向を分担している。
カレンは自分が漕いでいるのか、櫂に振り回されているのか分からなくなってきた。
目的地は見えているのに、カレンは迷子になったようだ。
燃えさかる太陽が、カレンの全身に流れる汗を焦がす。カレンの唇は、水分を失い、水上の砂漠となった。
揺れる波は、まるで砂だ。水ではなく、砂をかき分けているようだった。
川の中央を越え、残りの距離も短くなった。向こう岸まで、もう少しだ。
筏が進まなくなった。頼りのトニーも、動きが悪くなった。トニーばかりに負担を掛けさせていた。
目の前が暗くなる。
闇の中で、このまま力尽きて、白骨となって砂漠に置き去りになるかもしれない。
カレンは涙を浮かべた。
「……ナスティに会いたい。ナスティに会えないまま死ぬなんて、絶対に嫌だ」
ナスティの顔が思い浮かぶ。
自分を一流の軍人だと思い込んでいる、ちょっと変わった女の子……。
一生懸命で、献身的で、まっすぐな女の子……。
笑顔が素敵な女の子……。
ナスティが優しく微笑んでいる映像が見えた。おへその奥から、カレンの目の前まで近づいたかと思うと、消えた。
カレンの胸から、くすぐったい感触が立ち上がってくる。
「ナスティに会うんだ……」
力が湧いてくる。
もう一度、自分が楽しくなる希望の言葉を呟いた。
「ナスティに会うんだ……」
自分を奮い立たせた。
呪文のように、繰り返し唱えた。
カレンはこれまで、母親の機嫌をとる、といった風に誰かの顔色を窺って生きてきた。誰かのために生きてきた。
今回の冒険は、オズマの治療から始まった話だ。
海底都市で戦ったときも、そうだった。
ガルグたちに嫌われないよう、お酒を持っていったら、海底都市に連れて行かれた。
【異形なる存在】征伐でも、ガルグに頭を下げられ、ナスティを心配させないために参加しただけだ。
漕ぎ手を失った筏のように、いつも流されている。
(でも、今回は違う。生まれて初めて自分のやりたいことを決められたような気がする)
カレンは漕いだ。筏の速度が上がる。
(ナスティに会う、ナスティに会う……)
岸まで、あともう少しだ。もし、オズマに「仕掛けは?」と聞かれたら、「ナスティに会いたい気持ち」と答えるだろう。
だが、カレンの視界が横倒しになった。左肩を水面に打ったかと思うと、泡と水の世界に投げ出された。
最初、誰かに攻撃を食らったのかと思った。
縄が水中に漂って、顔にかかった。カレンは縄を顔から引き離し、理解した。
縄が緩んで、筏の浮子が外れたのだ。バランスを崩した筏は、転覆した。
積んでいた荷物が、水中に飲み込まれていく。ジョムディラの豆と芋の料理が、水に溶けて崩れ去った。
荷物を拾い上げようと潜ろうとしたが、手足が自由に動かない。体力が残っていないのだ。
自分は今、溺れている。海育ちの人間として、初めての体験だった。
カレンは、後頭部に強い衝撃を受けた。
薄れる意識の中、カレンの頭を殴った犯人は、外れた浮子だと分かった。
2
「早く、ナスティに会いたいな」
身体が凍える。目の前の焚き火で手を暖めた。
焚き火を挟んだ向こうに、トニーが、茹でた豆と芋を両手で食べている。
「俺の考えなんですけど……俺が勝手に思っているだけかもしれないけど。ナスティさんは、もう……」
トニーの分析に、カレンは立ち上がり、言葉を詰まらせた。
「君の言いたいことは分かる。ただ、ガルグに確認したいだけだ」
胸から涙が込み上げてきた。
だが、トニーの返事は冷静だった。
「……リコさん、ガルグさんに会って、それからどうするんですか?」
カレンは固まった。寒さもあったが、回答に困る質問だったからだ。
カレンは視線を落とした。
寒い。
焚き火があるのに、身体が一向に暖まらない。
「……分からない。ナスティに会ってみないと……」
考えてもいなかった。
でも、もしナスティが、城にいなかったら? ナスティがいたとしても、僕は何をすればいいのだろう?
トニーが、カレンの逡巡を打ち破る提案をした。
「だったら、あっしと世界を冒険しましょう。リコさんとなら、地の果てまで従いていきます。きっと楽しい旅になりますって」
トニーが手を広げた。
「君が、僕と?」
カレンは口を押さえて笑った。
トニーは、僕のことを好きなのかしら。
寒い。
焚き火がちっとも暖まらない。
カレンは目を覚ました。
身体中のあちこちが痛い。砂利の上で、うつ伏せになって倒れていた。焚き火など、どこにもなかった。
カレンの背中に、重たい腕がのしかかっている。
「やだなぁ、トニー。手を外して」
カレンはトニーの腕を降ろした。
視界に、トニーの驚いた顔が飛び込んでくる。
トニーは青ざめていた。目を見開いて、口を半開きにしたまま動かない。
「トニー、目を開いたまま、気絶しているの? 器用なんだね」
と、カレンは冗談めかしく笑った。
トニーを揺すった。
冷たい。
気を失っているにしては、生命を感じられない。
トニーの腕が、砂利に落ちる。
「トニー、どっきりは止めてね……」
という意味の言葉を発したが、言葉にならなかった。カレンの両目に涙が溢れ、視界が歪む。
トニーの首を指で触れる。
脈がない。
「そんなはずはない……!」
直接、胸に耳を当てた。
音が聞こえない。心臓が機能していない。
トニーは、死んだのだ。
人間の死体ほど、生命が抜けきった物体はない。
カレンは泣いた。大声で泣かなければ、正気を保てないからだ。
「ごめんなさい」
大切な親友を失った。
「ナスティに会いたいって、僕が我が儘を言わなければ、君は死ななかった」
トニーが、意識を失ったカレンを抱えて岸まで泳いでいる映像が見えた。
「君は、命を捨てて僕を助けてくれたんだね」
気づいて、カレンは更に泣いた。
トニーを森の近くまで引きずった。砂をかき集める。
トニーの遺体を砂で隠しても、いずれは肉食動物に掘り起こされ、食われるだろう。
筏の残骸から木材を取りだし、穴を深く掘った。
トニーを埋め、砂をかぶせた。
あたりが暗くなっていた。どこからか獣の鳴き声が聞こえる。
もつれる脚で、森に入った。
危険から身を守るため、木に登る。
うつろな目で闇を見つめた。このまま眠ってしまっては、地上に転落するだろう。一晩中起きておく必要がある。
当然、水も飲めない。
煮沸する器具は、川の底だ。川から水は直接飲めない。死に直結する行動だ。
次はどこに行けばいいのだろう? ガルグの地図も失った。
だが、カレンはもうどうでもよかった。少しでも前に進みたかった。
どこをどう歩いたか覚えていない。何日経過したか分からない。雨が降れば、手で水を溜め、飲み、虫を見つけては生のまま食べた。
夢でも見ているかのようだ。
森が終わった。
風が吹き抜けてきた。綺麗な空気が、カレンの肺を満たす。
田園と青空が広がる風景だ。
田園が、丘を取り囲んでいた。丘は何層にも分かれ、層には人間の住居らしき家が整然と並んでいた。そして、なにより、カレンが最も目をひくものがあった。
それは、頂上頂く、白く輝きを放つ建造物であった。
「あれが“魔王城”……? 予想と違う。もっと禍々(まがまが)しい形をしているのだと思っていた」
白い“魔王城”を見ていると、カレンは癒されていく感覚になった。
どこかで見た記憶がある。
優しい光を放っている。涼しげだが、胸の中から暖めてくれるような風が吹いている。森を抜けたときに吹いた風の出所は、城だったのだ。
カレンは、城まで続く街道に脚を踏み入れた。
足下は石造りで、まっすぐに進み、数人の大人が横に並んで歩けるくらいの幅であった。街道には二本の窪みが両端に平行していた。
街道は何度も左右に枝分かれし、農道となって、田園を幾何学模様に刻んでいる。
途中で、街道は十字路になった。十字路の中心に、石造りの囲いがあった。
囲いの中を入ると、木の植え込みと、獅子の彫像が設置されていた。
獅子の彫像は、頭部のみで、口が開いていた。彫像の両脇に金属製のレバーと、金色の杯があった。
レバーを引くと、獅子の口から水が吹き出され、カレンの足下に跳ねた。
慌てて水を杯で受け止める。杯の半分くらいで、水は止まった。
カレンは中身の水を見つめた。水は透き通っていて、ほのかに甘い匂いがする。カレンは唾を飲み込んだ。ここ数日、まともに水分を取っていない。
(こんな綺麗な水は、初めてだ……)
カレンは手が震えだした。杯が重い。黄金でできていて、さらに表面には大きな宝石が埋め込まれている。
(これはもう、飲めってことだよね?)
カレンは杯に口を付けた。杯を傾け、喉を鳴らし、滝のような水を身体に流しこんた。
(美味しい……)
飲み干すと、生き返ったような感覚になった。
水を飲むだけで、人間が甦るとは!
「お代わり……!」
むさぼるように、レバーを引く。獅子の流水で黄金の杯を満たし、すぐに自分の喉を満たした。
カレンは彫像にもたれかかった。
視界がぼやけていく。心地よい感覚に、カレンは自分が眠ると感じた。
3
「あんれ? お前さんは、ここで何をしているだか?」
頬の感触に、カレンは飛び起きた。目を開けると、太った中年の男が、カレンの頬を太い指で触っている。
中年の頬に大きな黒子があり、黒子から太い毛が生えていた。
「僕は泥棒ではありません。ここの水を頂きました」
カレンは抱えていた黄金の杯を、足下に置いた。
「泥棒? お前さん、ただの行き倒れでねえか? おらは、農家のムグサという者だよ。お前さんは、どこから来なすった?」
「僕は、シグレナスから来たジョエル・リコです」
「はて、シグレナス、シグレナス……。どこかで聞いた響きやな」
ムグサは突き出た自分の腹をさすった。何かを閃いたらしく、自分の腹を軽く叩いた。
「ああ、思い出したで。シグレナスは、歴史と地理の授業で学んだっけな。おら、あまり学校の授業を真面目に聞いてなかったでな。それに、ジョエル・リコ。それって……」
(悪い人ではなさそうだ。ジュギョウ? ガッコウ? レキシ? チリ? よく分からない言葉を使う人だけど……)
カレンは安心した。悪人といえば、ゲントおじさんや悪者だった頃のトニーを思い返す。
黄金の杯を見ると、疑問が湧いてきた。
「こんな立派な杯があって、盗まれたりしないのですか? 見張りもいないのに」
「この国で盗みを働く奴など、おらねえだよ」
と、ムグサは太い唇を半開きにして、驚いている。
外から足音が聞こえる。
一人や二人ではない。数人だ。
カレンは海底都市に追いかけられた状況を思い返した。
囲いの外を見ると、黒い一団が列をなして槍と盾を身にまとい、軍靴を鳴らしている。
「貝殻頭……?」
カレンは囲いの陰に身を隠した。顔のないアポストルを、カレンは貝殻頭、と呼び分けていた。
黒い甲冑に身を包み、頭部……兜に隙間があった。貝殻頭の動きは、どちらかというと昆虫に似ていて関節が固いが、この一群は柔らかい。
「いや、あれは人間だ。……“魔王”の軍勢」
「お前さん、何に隠れているだか?」
ムグサが呆れている。ムグサの肥満体型は、鈍重である。外敵に襲われて生き残れるのかしら、とカレンは心配した。
「……捕まって、殺されるかもしれません。ムグサさん、貴方も隠れたほうがいいですよ」
「おらが? おらは何も悪いことなんど、してないだよぅ」
ムグサが自分を指さし、驚いている。
「お前さん、何か悪さをして、ここに来ただか? ……でも、おらには、そうは見えねえだよ」
“魔王”の軍勢が、囲いを通りかかった。
兵士の一人がカレンたちに気づいて、囲いの中に入ってきた。
「私はヴェルザンディ国の兵士、ザイリック。なにか問題か?」
黒い兜の中から、若い男の声が聞こえた。
「滅相もねえだ。ただ、この子どもが、おらが逮捕されるとか言うだよ」
ムグサが困った表情で返事をする。
「貴様、本当か? この者は何か犯罪を起こしたのか?」
と、若い兵士ザイリックがカレンに向き直った。
「ええと、違います。落ち着いて、水でも飲みませんか?」
カレンは黄金の杯をザイリックに見せた。ザイリックの表情が怒りに満たされていく。
「貴様。それは民の所有物だ。軍人であるこの私が飲むことは、まかりならん。それを勧めるとは、貴様、贈賄の容疑で逮捕するぞ?」
「タイホ? なんですか、それ?」
理由はよく分からないが、カレンは自分の対応が失敗だと気づいた。
「うわー、おら、関係ないだよぅ」
ムグサが半泣きになった。
「なんなの、この空間?」
混沌状態となった囲いの中で、カレンは困惑した。ムグサもザイリックも好き勝手に、カレンの発言を解釈している。
囲いの外では、兵隊の列が通過していく。
ザイリックがカレンを詰問する。
「銀髪の小僧。貴様は、どこから来た?」
「シグレナスからです」
ザイリックの声が強張る。
「シグレナスだと? とっくに滅んだ国だ。それに、シグレナスからヴェルザンディまで来るのに、多くの犠牲を出さなければならないのだぞ? 貴様のような細い子どもが一人で来れるはずがない」
犠牲、と聞いて、カレンはトニーを思い返した。
「でも、来ちゃったんです」
下を向いて、涙を隠した。
「来ちゃったんです、でなくてはだな……」
呆れるザイリックの背後で、馬車が止まった。馬車は紺色と紫の布地で覆われ、布地には、小さな星が無数に描かれていた。
「はわわ、あれは大宰相様の馬車でねえか」
ムグサが慌てて地面にひれ伏した。
「大宰相の馬車が止まった? どうしてだ?」
ザイリックも地面に膝をついた。
「こら、銀髪の小僧。貴様、頭を下げろ。大宰相の馬車であるぞ」
と、片方の眉を吊り上げて、カレンを注意した。
大人たちがしゃがんでいく。カレンは何が起こっているのか事情が把握できない。
この国は不思議が多すぎる!
「大宰相? 一体誰なんです?」
「この国で二番目に偉い人だあよ。悪いことは言わん、お前さんもひれ伏しなさい」
ムグサが小声でカレンを囁いた。
馬車の扉が開く。
中から、小柄な人物が現れた。紺と黒の着物から目深にフードをかぶっている。
歩き方から、老人だと分かった。
兵士たちに手を借りて、囲いの中に入ってくる。
フードのさらに垂れ下がった瞼の隙間から、カレンを見つめた。
「そちらにおわすは、カレン・エイル・サザード様であらせられますか?」
大宰相が、優しげな人物だと口調で分かった。
「はい、そうです」
カレンは、自分でも驚くほど、正直に答えた。
大宰相が、フードを外す。
顔は深い皺に覆われ、肌は浅黒く、頭部に少し残った白髪が目立っていた。
垂れ下がった瞼を開いて、カレンを真剣な眼差しで見つめている。
カレンは目をそらし、後ずさる。
ムグサとザイリックが驚きの声を上げた。
大宰相が床に膝をつき、カレンに平伏したのである。
「勇者様。お待ちしておりました。よくぞヴェルザンディにおいでなされました」
ムグサとザイリックが大宰相に向かって平伏し、大宰相がカレンに向かって平伏している。
(だから、これ、どういう状況なの? 大の男三人が、落とし物をさがしているみたくなってるけど。……ヴェルザンディって不思議な国!)
カレンは困惑するばかりである。




