地図
1
海岸に着いた。
船乗りたちと別れを告げ、カレンは歩き出した。
ヴェルザンディは暑く、空気から柑橘類の匂いがする。
匂いの源は、海岸の向こうに見える森だった。
ヴェルザンディは砂漠の国だ、とオズマに教わった。だが、実際に来てみると、緑豊かであった。
ガルグからもらった地図を広げる。
青い光……つまり現在地は北の大陸から海を越え、南の大陸にいた。
カレンは船の中で、地図の操作に熱中していた。
カレンが地図の上を指で払うと、画面が、指の動きに従って動く。
ヴェルザンディの南に、さらに大陸が続く。南の大陸は想像以上に広く、ヴェルザンディは南の大陸の中でも北部分にあった。ヴェルザンディの近くに大きな川が流れていて、川の周りに森林地帯が広がっている。
カレンは、地図を親指と人差し指でつまみ、広げた。地図は拡大し、より細かな情報を映し出された。
「この動作をピンチアウトと呼ぼう」
と、カレンは勝手に命名した。
地図によると、ここから森林地帯を通って、川を横切れば、ヴェルザンディに到達する。
順路は確定した。
まず森だ。
カレンは、地図を片手に歩き出した。
歩き出すと、胸に違和感がある。
「この服、胸が痛い。素材が悪いのかしら? それとも、田舎育ちの僕に上着は向いていないのかな?」
カレンは、船乗りから麻の上着を譲ってもらっていた。
生まれてこの方、上着を着る経験がなかった。不快感の原因は、胸にこすれる麻だった。脱ぎ捨てたくなったが、思いとどまった。
ナスティにまた会うとき、野蛮人のままでいられない。都会の人間は上着を着ているものだ。文化的な身だしなみを試したい。
「リコさぁ~ん」
カレンの逡巡を打ち破るように、後ろから、間抜けな呼び声が聞こえた。
トニー・チーターが手を振って、追いかけてくる。
背中には木の板を組み合わせて、大量の荷物が盛られていた。
灼熱の砂浜を走り抜けてきたトニーが、カレンの目の前で息を切らしている。
「トニー、君まで来なくても良かったんだよ。今からは僕は“魔王城”に行くんだ。どんな危険があるか分からない。巻き込みたくない」
「水くさいなあ、リコさん。あっしはどこまでも従いていきますよ。すりすり」
と、トニーが頬ずりしてくる。
「気持ち悪いよ。ワルのトニー・チーター」
と、カレンは両手で押し返した。頬ずりは余計だが、危険を承知で従いてきてくれたトニーの勇気が嬉しかった。
「食糧を持てるだけ持ってきました。船で無理を言って分けてもらいましたよ」
「ありがとう。この暑さだと、問題は飲み水の確保だね。森の中に川があるけど、飲めるかどうか分からないね。綺麗な水を探し出そう」
森の中に入る。
シグレナスには生えていない種類の植物ばかりだ。奇妙な丸みを帯び、とげで身を守っている。
獣道に入った。
カレンたちは南国の枯れ木を脚で踏みつけ、枝を手で払いつつ、先に進んだ。
人が通った感覚がする。獣も人も、通りやすい道を選ぶ。
獣道は曲がりくねり、森の中で分岐を繰り返して、複雑な網の目を作っている。
現在地を教えてくれる地図がなければ、完全に迷っていた。
「暑い……。重い……」
トニーが不満を漏らす。
「情けないなあ、冒険は始まったばかりだよ。だいたい、荷物を持ちすぎ」
トニーが遅れだした。山育ちのカレンにとって、森歩きなど生活の延長にすぎない。自分のペースで歩くと、トニーを待たなくてはいけなくなる。
森の中で、開けた場所にたどり着いた。
カレンは、何かを感じ取った。ひときわ高い木からだ。どこからともなく、鳥の鳴き声が聞こえる。
木を見上げると、頂点には、実が成っている。
カレンはトニーを休ませた。その間、木登りを始めた。木登りは得意だ。片手を延ばし、“星白の剣”を使って実のへたを斬り落とした。
木の実は二つある。
落ちた実はどれも、皮が堅く、手で剥けられない。
本来であれば、実を岩に叩きつけて穴を開ける。手頃な岩を探す必要があるが、カレンには“星白の剣”がある。
表面を切り裂き、穴をあけ、飲みやすいように切り口を工夫した。飲み口から甘い香りのする果汁があふれ出る。
中身が少し地面にこぼれたが、カレンは木の実に口をつけ傾ける。果汁が口内を通り、喉を潤す。
「甘っ! トニー、君も飲むんだ」
トニーに実を渡す。
トニーは訝しげな表情をしていたが、甘い汁の匂いを嗅ぐと、飲み口にむしゃぶりついた。
「甘っ!」
と同じ感想を述べた。
飲み干した実を“星白の剣”で切り分け、中身の果肉を取り出した。
船乗りたちから分けてもらった干し魚と一緒に食べる。
(美味しい……。食べ物を作ってくれる霊骸鎧とかいないかな)
空腹を満たす。まだ昼間だが、トニーに提案した。
「今日は、もうここで休もう。ここをキャンプ地とする」
夜の森は危険だ。
昼から寝床を準備しなければ、暗くなるまでに間に合わない。
「力持ちな霊骸鎧を呼び出して、寝床をつくってもらおう。……出でよ、“伝説”」
だが、現れない。
「あれ、やりかたを間違えたのかな? もう一度……出でよ、“伝説”」
それでも出てこない。他の霊骸鎧を呼ぶが、出てこない。
「どうしたんですか?」
トニーが心配そうな目線を送る。
「わからない。霊骸鎧が出てこないんだ。……ストライキかな。あまり酷使したから怒らせちゃったかも。……いいさ、僕たち人間の力でできる仕事だから、僕らでやろう」
枝と倒木を組み合わせて、密集している木の上で寝床をつくった。虫や動物に睡眠を邪魔されたくない。
トニーと協力して寝床を作る。
日が暮れて、カレンたちは、木の上で作った寝床に潜り込んだ。木の葉を集めて、身を守る。快適、とは言い難いが、ないよりましである。
カレンは虫の鳴く音を耳にして、目を閉じた。
「でも、どうして霊骸鎧がでてこないんだろう……」
2
早朝に起きて、移動する。
昼まで安全な場所を見つけ、食糧と寝床を確保し、夜に備える。
カレンとトニーは、そんな生活を繰り返した。
雨が降っている日は動かなかった。地面がぬかるみ、滑りやすくなっていて、危険だからだ。それに、雨に打たれると体力の消耗が激しい。
むしろ飲み水を手に入れる機会と割り切った。水筒を石と土で固定して、雨水を貯める。
ヴェルザンディの森は食糧が豊富なので、カレンの旅は、順調だった。 川までたどり着いた。
川を越えれば、目的地……ヴェルザンディに着く。
対岸の木々が小さく見える。川の幅は、海か湖かを思わせるほどの
広さだ。
寝床は、川岸より高い位置に寝床をつくるべきだ。いつ氾濫するか分からないからだ。
問題は、川を越える手段である。
“水中橋”を試しに呼んでみたが、出てこない。「一度倒れた霊骸鎧は、二度と甦らないんだ……」
貝殻頭と同じく、霊骸鎧も海水に弱い。川に塩分が含まれているとは思えないが、水中を移動できる“水中橋”は貴重だった。
「霊骸鎧が死ぬ……。霊骸鎧そのものが死んだ人って感じだけど……。死んだ人が、もう一度死ぬ。二度死ねば、もう戻ってこない」
カレンは呟いた。とある閃きが頭を過ぎった。
「記憶がないだけで、【異形なる存在】との戦いで、霊骸鎧を多く失ったのでは……?」
“伝説”や“忍者”といった強力な霊骸鎧を失うほど、激しい戦いだった。
(とすれば、犠牲者は霊骸鎧だけでは済まされないはずだ)
カレンは全身から体温が抜け落ちていく感覚に襲われた。
この感覚は、喪失感。大切なものをなくしてしまったときの感覚であった。
「リコさん、どうしました?」
トニーが心配そうな目で見てくる。
カレンは涙を流していた。トニーから顔を背けた。
「大丈夫だ、誰も死んでいない。霊骸鎧が出てこない理由が、他になにかあるのだろう……」
今は寝床作りの作業に没頭するべきだ。カレンは涙を振り払い、仕事に取りかかった。
二人だけで船を作るとなると、一日では終わらないだろう。
最初の一日は、食糧を集め、寝床をより充実させた。
「あくまでも船は生活のついでに作る気持ちでいないとね」
三日目に、船造りに手を着けた。
「大きい木を探そう。カヌーを作るんだ。筏は作りやすいけど、壊れやすい。カヌーは中身をくり抜く作業があって大変だけど、僕対には“星白の剣”がある」
と、トニーに提案すると、すぐに承諾してくれた。
「大きい木って、地図で探せませんか?」
トニーの閃きにカレンは「大きい木を探して」と地図に頼んだが、地図は反応しなかった。
「駄目みたい。……大きい木は曖昧な表現で、人によっては、大きさは違うからね。地図には判断ができなかったみたい。それに、大きい木は沢山あるし」
トニーと二人で巨木を探した。
途中、岩と岩の間から、水が湧いて流れていた。
喉は乾き、疲れている。
静かにわき出ている水は、美味しそうだ。
口をつけて飲みたくなったが、やめた。
たとえ見た目が綺麗な水でも、森や山の生水を飲んで無事でいられる者はいない。
薬がなければ、死ぬまで熱と下痢と嘔吐に苦しみ続ける結果になる。
カレンは空になった水筒で水を汲んだ。
トニーと顔を合わせて、頷いた。
寝床に戻ったら火を起こし、煮沸する。
さらに森の先を進む。
トニーが小さく悲鳴をあげて、指を指した。
先には、蜘蛛が倒木に止まっていた。子犬ほどの大きさの黒く、毛むくじゃらだ。身を低くして、こちらを警戒している。
「まさか、飛びかかってくるんじゃ……」
トニーが心配しているが、カレンは気にならなかった。
「大丈夫。任せて。この蜘蛛は大きいだけで、とても臆病なんだ」
カレンは近づいて、“星白の剣”で巨大蜘蛛の胴体を突き刺した。
蜘蛛は無抵抗のまま絶命した。
「これは、今夜の晩ご飯にするよ。でも、この蜘蛛の毛は毒だから、触ると手が腫れ上がるよ」
トニーに注意した。
「食べるんですか? 毒があるんでしょう?」
トニーを無視して、太めの枝に蜘蛛の死骸を突き刺した。
寝床まで持ち帰った。
寝床の手入れを終え、カレンは火をおこした。
蜘蛛の死骸を火で炙る。
「毛を焼き払ってしまおう」
頃合いを見て、熱々の脚を一本つまみ、殻を割る。中身の肉に程良く火が通っている。赤い線の入った白い肉が、食欲を誘う。カレンはたまらず、肉にかぶりついた。旨味の詰まった肉汁が、口に満たされる。
「美味っ。君も食べなよ」
トニーに勧めたが、最初は嫌がっていた。
だが、カレンの勢いに負けて、「じゃあ一本だけなら」と肉をすする。
トニーの動きが一瞬、止まった。口を手で押さえ、後ずさりをした。背中に木をぶつけた。
「美味っ。焼いた蟹みたい」
一瞬にして虜になった。
水筒に汲んできた水を鍋で沸かす。魚の干物を加え、蜘蛛の胴体から食べられる部分を取りだし、煮詰めた。
小枝で煮物を口に運ぶ。蜘蛛のほろ甘い肉が、苦みの利いた内臓と干物の出汁が相俟って、芳醇な味が口の中で広がる。
トニーもカレンの真似をする。
「美味っ。美味すぎるっすよ、リコさん。これで酒があったら、最高なのに……。まさか蜘蛛を食べるなんて、知らなかった」
宴会のように、トニーが大喜びしている様子を見て、カレンは微笑んだ。
(この蜘蛛鍋、ナスティにも食べさせてあげたかったな。とても喜んでくれただろう。いくらガルグでも、こんな美味しいものを用意できないだろう)
焼いた蜘蛛の脚を裂いて、肉を取り出した。
3
次の日、カレンたちはカヌーの素材探しをしていた。手頃な巨木が見つからない。
カレンが倒木を跨いだ瞬間、腹部に痛みが走った。
身体を曲げ、眉をしかめた。味わった経験のない痛みである。
「緊急事態、発生!」
トニーを置いて、茂みに隠れた。
痛みの原因を外部に放出する作業に乗り出した。
だが、作業が終わらない。見覚えのない物質が、身体から出てくる。
「なんだこれ……。僕はどうなっているんだ……?」
カレンは愕然とした。出しても出し終わっても、腹痛は収まらない。
「リコさん、大丈夫っすか~?」
茂みの向こうから、トニーが声をかけてきた。
「いや、これはもう駄目みたい」
“癒し手”を呼んだが、出てこない。
「昨日の食べたものがいけなかったのかも」
わき水……。
蜘蛛……。
「生水を飲んじゃ駄目よ」
母親リリアンの声を思い返す。
(心当たりがありすぎる。だが、処理は完璧だったはずだ)
蜘蛛の毛を焼き払いきれなかったのだろうか?
「おかしいな、同じものを食べたのに……。なんで」
トニーが動揺している。
「地図よ、近くに村はないか?」
カレンは、息も絶え絶えに質問した。自力では、どうにもならないほどの腹痛である。助けを求めるべきだ。
地図が反応している。現在地から森の右下……南東部分に、赤い光が移動した。ヴェルザンディのルートから外れるが、仕方がない。腹痛は、すべてに勝る緊急事態である。
「安静できる場所まで連れて行って欲しい」
カレンはトニーに地図を渡した。
トニーが地図を眺めて、困った表情を浮かべた。
「この地図って、大ざっぱすぎですよね? もっと細かい地図にしてほしかったっす」
腹痛が酷く、発言する体力も残っていない。語数をなるべく最小限に抑えて出た言葉を、カレンはひねり出した。
「ピンチアウトして」
「激痛? なんですか?」
カレンは、トニーの反応が気に障った。だが、なるべく棘の出ない発言を心がけた。
「その地図は不思議な地図で、人差し指と親指で広げると、地図が拡大されるんだ。指で挟むから、ピンチアウト」
トニーは人差し指で、地図上の画面を横に払った。
「違う。それはスワイプ。ピンチアウトは、指を二本使うの。地図を指二本で広げる感じ」
カレンの口調が荒くなった。要領が分からないトニーに対して、怒りを感じた。
(丁寧に説明しているのに、どうして分からないの?)
「殴打? 地図を殴るんですか? 若者言葉は、おじさんには、従いていけませんよ。……こうですか?」
「だからそれは、フリック! もういい、僕がやる」
カレンはトニーから地図を奪い取り、トニーにも分かるくらい拡大して投げてよこした。
(僕がこんなに苦しいのに、なぜこいつは、言われたことができないんだ?)
怒り任せで怒鳴りつけてやろうと思ったが、冷静なもう一人の自分が出てきて押しとどめた。
(ここで怒っても、空気が悪くなるだけだ。とにかく黙っていよう)
トニーが準備をしに寝床に戻った。
カレンはお腹を押さえ、その場に倒れ込んだ。一切の行動がとれない。
ただ、腹痛に堪え忍ぶだけだ。
トニーが木の板を組み合わせた骨組みを背負っていた。ここに寝かせてもらった。
「他の荷物は、寝床に置いてきました。最低限の装備だけです」
トニーがカレンを背負って、歩き出した。
「揺らさないで……」
我ながら無茶な要求をしていると思うが、わずかな振動でも、腹部に影響がある。
カレンは、自分の股間から、汚物が垂れ流れていると気づいた。
「何か布を持ってないか。……止まらないんだ」
トニーから布をもらい、カレンは股間にあてがった。
それから、何時間経ったのだろう。あたりは、暗くなっていた。
トニーが松明を取りだし、火をつける。
おぼつかない足取りで、森の中を進む。
「リコさん、村を見つけました。……ここでしばらく、待っていてください。俺が交渉しますんで」
離れた場所の茂みに置いて、近くの小屋まで走り寄った。り、扉を叩いていた。
ヴェルザンディの住民が友好的である保証はない。いざというときのために、トニーはカレンを匿ってくれたのだった。
「トニー、君は、本当に良い友人だ。さっきはごめんね、酷い言い方をして」
木の枝で編み込んで作った小屋だった。
トニーが声をかける。扉が、開いた。
トニーは、悲鳴を上げた。
腰を抜かして、その場で倒れた。
家から出てきた人物は、着ている服や、動きから女性だと分かった。
だが、顔が異なっていた。
毛むくじゃらで、昨日の蜘蛛が顔に張り付いているようだった。
(貝殻頭……!)
シグレナスの周辺に現れる、無貌の種類ではない。
海底都市に出てきたクルトのような特徴的なタイプである。
異変に気づいて、他の小屋からも、村人たちが出てきた。
どれも貝殻頭たちだ。顔はそれぞれ特徴を持ち、手には鋤や鍬といった農具を手にしている。
顔を隠して怖がっているトニーを取り囲んだ。
ある者が、カレンに気づいた。カレンを指さし、松明をかかげ、数人を連れて向かってきた。




