罠
1
松明が照らす、暗い通路に、貝殻頭が呆然と立っていた。
槍と盾を手にしているが、だらりと腕を下げている。この貝殻頭から殺気を感じない。
貝殻頭は動かなかった。
カレンも動けなかった。
抵抗する体力も霊力も残っていない。肉食動物に睨まれたウサギのようだ。迫り来る敵の攻撃を、槍の一閃を、ただ回避するためだけに意識を集中させた。
背後でナスティが殺気を放っている。いつでも応戦が可能だ。
カレンは、ナスティを見ず、手で制した。
(ナスティ。霊力を温存してほしい。僕なんかのためよりも、君のために使ってくれ)
心の中で叫ぶ。ナスティが首を傾げている映像が見えた。おそらく、ナスティは理解していない。
それにしても、奇妙だ。
普通の貝殻頭であれば、人間を見ると、問答無用に殺しにくる。だが、この貝殻頭は何もしてこない。貝殻頭の顔は表面が滑らかで、松明の炎が映って揺れている。
貝殻頭は槍と盾を構えた。カレンは反射的に腰を落とす。疲れすぎて、頭が回らない。ただ直感に任せて動くのみ。
だが、カレンの心配をよそに、貝殻頭は後退しはじめた。
カレンは呆気にとられた。カレンにとっては予想外の事態である。その隙に、貝殻頭はさらに離れた。
十分な距離を取ると、貝殻頭は背中を見せて駆け出し、煉瓦でできた通路の向こう側に消えていった。
「一体、どういうことなのだろう……?」
カレンは呟いた。助かった、と素直で喜んでいいのか、何か罠があるのか疑うべきなのか分からなくなった。
後ろから、ナスティの声が聞こえた。
「二対一で、私たちが数に勝っている。……不利に気づいて、援軍を呼びに行ったのだろう。一先ずだが、命拾いをしたな」
軍人らしい分析である。
理屈は正しい。
だが、カレンは腑に落ちなかった。これまで何度も貝殻頭と対峙してきたカレンだったが、初めて見る反応だった。
貝殻頭は、行動原理が昆虫に似ている、とカレンは思っていた。感情も意思もなく、ただ獲物を捕食する。
獲物を前に、逃げる虫など見た経験がない。
貝殻頭が消えさった道を眺めていると、髪が風に揺れて、カレンの頬を撫でた。風は横からだ。
「外の匂いがする……」
風が吹く方向は、灯りが届かず、真っ暗だった。手を伸ばすと、空間がある。
手探りで、暗闇を進む。
ただの手探りではない。手で風に触れる。風の感じる方向に進む。
薄暗かったが、徐々に目が慣れてきた。
進む先に、両開きの扉が見えた。片側の扉が開いていて、隙間ができている。開いた隙間から、外界の明かりがこぼれていた。外は暗かったが、カレンがいる場所よりは明るい。
カレンは、扉を押し開け、外に出た。
最初に目に映った映像は、空に浮かぶ、星や月の光が瞬いていた。
だが、よく見れば空は、海であった。
海底都市では、上空には海が広がっている。海に映し出された星が輝いているように見える。
ナスティが追いついてきた。
外に出ると、足の裏から砂を感じる。
そこは円形の広場だった。
周囲は壁で覆われている。
壁の向こうには、巨大な階段が見えた。
いや、階段にしては一段一段が大きすぎる。
広場の中心に箱があった。線路の奥にあった箱と同じ形である。
「軍用食だ」
隣で、ナスティが両の瞳を星のように輝かせた。
ナスティが、駆けだした。
違和感がある。なにかが奇妙だ。
カレンは、ナスティを止めようと追いかけた。だが、体力が回復したナスティの脚は速い。カレンの脚がもつれる。
叫んだ。
「待って、ナスティ。それは罠だ」
声を絞り出すが、声になっていない。
ナスティが箱の蓋を押した。蓋が砂地の上で、鈍い音を立てる。
箱の中から、何か音がする。
カレンは飛んだ。ナスティを突き飛ばし、自身も箱から離れる。
ナスティを上から庇う。目を閉じ、罠の作動を待った。
だが、何も起きない。
身体を起こして、振り返った。
箱から、白い煙が立っていた。煙は上空、いや海に向かって昇っていき、霧散した。
蓋の開いた箱から煙は立たなくなった。
「わ、ごめん」
カレンは、ナスティに気づいた。
カレンの下で瞳を潤ませている。目を合わせようとはしない。
押し倒したのが不味かったのか。
ナスティの腕を引いて、立ち上がらせようとすると、カレンは足下が揺れた。
ナスティに腕を引っ張られたのかと思った。
だが、原因はナスティでなかった。地面そのものが揺れているのだ。
音を立てて、カレンたちの周囲に何かが、せり上がった。
黒い鉄の柵であった。
柵はカレンたちの背丈を越え、折れ曲がったかと思うと、カレンたちの頭上で組み合わさった。
カレンはすぐに状況を把握した。
閉じこめられた。
まるでカゴに入れられた虫になったみたいだ。
カレンが柵を掴んだ。鉄製でかなり丈夫だ。
壁の上方、巨大な階段の一部に光が灯った。
光の正体は松明で、人物の顔を照らした。人間離れした、豚の顔である。
「クルト……!」
2
クルトは松明を片手に、もう片方の手をレバーに持っていた。
クルトの他に、複数の影が続いた。
影の一人が、縄を持っている。縄に引かれ、見覚えのある人物が現れた。
「レミィ!?」
「ミント!?」
カレンとナスティは同時に、それぞれの呼び方で叫んだ。レミィは細く、小さかった。両手首を厚く縛られている。
カレンは柵にしがみついて、クルトたちの様子を観察していた。
「リコ、そこから離れろ!」
ナスティが悲痛な叫びをあげる。
目の前に爛れた顔をした存在が立っていた。
その存在は、片目であった。目から緑色の液体をカレンの顔に向けて飛ばした。持ち前の反射神経で顔面直撃は避けたものの、液体が左目にかかった。
手で拭いさろうとしたが、拭った手が痺れたように痛い。左目が膨れ上がっていくような感覚に陥った。
手も目も痛い……!
「俺様はヨーガス。俺様の酸を食らって、生き残った者はいない。銀髪の小僧。俺様の酸は特別だぞ。貴様が溶けてなくなるまで、酸は消えることはない」
爛れた顔のヨーガスが、高笑いをする。毒の酸を操る貝殻頭だった。ヨーガスの隣に、毛むくじゃらの貝殻頭が現れた。
「そして、こいつが俺様の相棒、マルハだ」
毛むくじゃらのマルハは、両肩の前方に、それぞれ小さな砲台が体毛の隙間をぬって突起していた。
二門の砲台が、カレンに向かって火を放った。
カレンは悲鳴をあげた。
今、浴びている炎は、これ以上耐えられないほどの熱さであった。
熱よりも呼吸ができない状態が苦しかった。周囲の空気が焼き尽くされる。
自分の身体が燃やされ、カレンは両膝を砂地につけて前のめりに倒れた。
「貴様らぁ!」
ナスティが、怒気を含んで声を荒げた。ナスティの霊力の動きに反応し、ヨーガスはクルトに手を振って、合図を送った。
「おおっと、変身はさせないぞ。クルト!」
マルハとともに、柵、いや牢屋の天井に空中二段跳びで飛び乗った。
クルトが、二本目のレバーを動かす。
広場を覆う壁の一部が開く。中から、水流が押し寄せてきた。
水の勢いが、牢屋に侵入し、ナスティとカレンを格子の内部側面に叩きつけた。
水の中で視界が回る。ナスティに肩を掴まれた、とまでは分かった。
ナスティがカレンを天井まで連れていく。
牢屋の天井ギリギリまで、海水が満たされていた。ナスティの細い腕が天井の格子を掴んだまま震えている。
顔を天に向けてさえすれば、なんとか呼吸ができる空間はある。ナスティが反対の腕で、支えてくれていた。
天井の上で、ヨーガスが同僚のマルハとともに、カレンとナスティを見下ろしていた。薄ら笑いをしている。
「銀髪の小僧、俺様とマルハの攻撃を受けて、まだ生きているのか? なかなかの生命力だな。貴様のようなザムイッシュは、初めて見たぞ。……褒美によいことを教えてやろう。この水は、海水だ。これで貴様ら変身もできないし、得意の術を使えまい」
霊骸鎧は、貝殻頭と同じく海水に弱い。霊骸鎧を呼び出せない。呼び出した瞬間、海水で溶けてなくなってしまう。
カレンはナスティを見た。海水の中では、ナスティも変身できない。
クルトの声が響く。
「ここは、かつては闘技場であった……。貴様らザムイッシュがまだ華やかりし頃、闘技場で奴隷や猛獣を戦わせていた。あるときは、闘技場に海水を入れ、船を浮かばせて遊戯にふけっていた。その装置がまだ動いていたのだ。まさか貴様らの繁栄を証していた機械で、貴様らザムイッシュを捕まえるとはな。なかなか皮肉の利いた話だ」
話の途中でクルトは、豚鼻を盛大に鳴らした。くしゃみであった。
「今、ここでレバーを引くと、さらに水位があがる。貴様らは一巻の終わりだ。ここで取引をしようではないか。……余計な動きをするなよ。貴様らの上には、ヨーガスとマルハがいることを忘れるな」
(しまった……)
カレンは、自分の愚かさに後悔した。
クルトのやり方は、魚の追い込み漁に似ている。
上流から川魚を追いこんで、下流に張った網で一気に捕まえる。
さきほどの貝殻頭といい、巡回する貝殻頭といい、カレンたちを「殺す」必要はなかった。逃走ルートを制限し、追い立てるだけでよかった。
まともに戦えば、むしろ返り討ちにあう、とクルトは経験で理解していたのである。カレンは、クルトの想像以上、いや自身が自覚している以上に危険な存在なのだから。
カレンは梯子を登る前に、クルトの策略は映像として見ていた。
そのときに気づくべきだった。いや、貝殻頭が不自然な動きをしていた時点で、気づくべきであった。軍用食の入った箱も、今ではカレンたちを油断させるための罠だったように思えてきた。
「取り乱すな、リコ。軍人たるもの、どんなときでも平常心でいろ」
ナスティがカレンを抱き寄せ、呟いた。カレンの頭を優しく頬ずりした。
瞳から涙が溢れ流れている。
「取引とは、なんだ?」
ナスティは、声を張り上げた。少しでも気丈に振る舞うつもりだ。
クルトの顔から、いやらしい笑みが横切った。
「女。それは貴様だ。貴様が俺の女になるなら、考えてやってもいいぞ。ひざまずいて、俺の両脚に口づけをしたら、な」
ナスティは息を呑んで、黙った。クルトの無礼な申し立てに、怒りで震えている。
カレンはナスティに助言したくなった。だが、酸の毒と火傷のせいで、身体が燃えるように熱く、言葉が出ない。
ナスティは、クルトに訊いた。
「ミントとリコ……他の者はどうなる?」
落ち着いた声だった。だが、どこか不安が混ざっていた。クルトが笑顔で返事をした。
「助けてやる。もちろんだ。俺が保証してやる」
クルトの発言を聞いて、ヨーガスは下品な笑いをした。仲間のヨーガスですら、クルトの「保証」を信じていない。
ナスティは目を閉じ、眉間にしわを寄せた。ナスティの美しい顔が、苦悶に揺れている。ナスティの心を感じとり、カレンは胸が引き裂かれそうになった。
(ナスティ。もういい。変身できる隙を窺って、僕を捨てて逃げて)
心に祈った。自分の無力さを呪った。
クルトが腕を組んで、前のめりになった。
「どうする? 待っていてやるぞ。だがな、早く決めなければ、そこにいる銀髪の小僧が死んでしまうぞ」
言葉を言い終わるうちに、クルトの隣で異常事態が起こった。
両腕を縄で縛られていたはずのレミィが駆けだしたのである。
縄が、レミィの腕と一緒に消えてなくなっていた。
カレンは気づいた。軽く握っただけでも崩れる自分の両腕を、レミィは壁に打ち付けるなりして、わざと捨てたのだ。
腕を失くしたレミィは、レバーに体当たりした。
何か音を立てて、闘技場が揺れた。闘技場の一部の壁が開き、海水を吸い込んでいった。
水位が下がっていく。
貝殻頭の一体が、掌に巨大な氷の槍を生み出した。氷の槍を投げつけ、レミィの胴体を貫いた。
レミィは身体を反らし、黒い砂となった。風に吹かれ、レミィだった黒い砂は、散り散りになって消えていった。
カレンの目の前に、男の子が現れた。
長い髪を房のようにまとめている。カレンの年下だ。
カレンの手を取り、動かした。男の子にされるがまま、カレンは手の動きを記憶した。
「これが僕の動き。覚えておくんだよ。僕の霊骸鎧は、『癒し手』。僕の名前はレミィ・ミンティス。……忘れないでね」
声が聞こえなくなると、カレンは目を覚ました。一瞬だけ夢を見ていたようだ。
カレンは濡れた砂地の上で横になっている。周囲は牢屋だ。ナスティの後姿が見える。
背中から絶望が伝わってくる。
「もういい。もう十分だ。……もう生きていたくない」
死人のように身体が揺れている。死人のような声で、頭上のヨーガスに話しかけた。
「貴様らの仲間に伝えてやってくれ。降伏する、とな」
ヨーガスはマルハに笑みを見せて、クルトにナスティの意向を伝えた。
クルトがレバーを引くと、牢屋の天井が開き、せりあがっていた鉄格子が、地面に飲み込まれていった。
「リコ、貴様にはもっと軍用食を食わせてやりたかったぞ」
ナスティはカレンに優しく耳打ちをした。去り際に微笑みかけた。
カレンは、ナスティの意図を理解した。
(駄目だ、ナスティ。逃げるんだ)
クルトを見る。クルトの両脇には、四体の貝殻頭がいる。クルトやヨーガスに似た、個性的な形状をしている。
(ナスティ。クルト級の敵が七体もいるんだよ。絶対勝てない)
カレンが心の中で叫んでも、ナスティには届かない。
ナスティはクルトのいる場所に駆けだした。途中で身に着けていた毛布を投げ捨て、その場にひざまずく。自分の両手を重なり合わせた。
「出でよ、我が霊骸鎧……汝の名前は『聖女騎士』!」
ナスティの目の前に、スカートをつけた霊骸鎧が、黄色い煙とともに現れた。
「我が名は、カレン・サザード!」
ナスティは、高らかに名乗りをあげた。




