壁
カレンは衝撃を受けた。鉄槌で後頭部を殴られたように、身動きができない。
ナスティが提案する。
「さっき決まった名前……ジョエル・リコを試してみろ。すばらしい名前だから、霊骸鎧も喜ぶぞ。響きも可愛いし」
「決まってもいないし、可愛くもないと思うよ」
カレンの反論に、ナスティは眉をつり上げた。怒っても、顔が可愛いので怖くない。
「軍人たる者、上官の命令にゴチャゴチャ逆らうな。いいから、やれ!」
カレンは“最終勇者”に、恐る恐ると声をかけた。
「……ジョエル・リコ」
馬鹿馬鹿しいとは思うが、一握りでも可能性があれば、賭けてみたい。
“最終勇者”は全身から、静かに光を放っている。特別な反応はない。
「貴様はジョエル・リコではなかったのだな」
ナスティは、長い睫毛を伏せた。残念そうな反応である。
「本当の名前を知れば、変身できるだろう。本当の自分に出会うことだ」
カレンは返事をできなかった。状況を整理できない。
ナスティは慌てている。
「リコ。ガルグは、変身していない状態が強いんだぞ」
なぜガルグが出てくるのか理解できなかった。
カレンは、白髪の老人ガルグを思い浮かべた。たしか、船の上で、貝殻頭の上に乗って、身動きを封じていた。
ナスティは、弁明しているかのように話を続けた。
「ガルグは武器を失うとな、更に強くなるのだ。……私の五百倍は強い」
武装解除された老人が強くなる理由がよく分からないし、五百倍の基準もよく分からない。ただ、ナスティはナスティなりに慰めてくれているのだと分かった。
「ちなみに、ナスティの能力は何?」
「……私か? 私は加速装置だ。霊力の消耗が激しいからな、短時間しか戦えないのだ。すぐに変身が解けてしまうな。……ガルグが傍にいるときにしか使えない」
カレンは我に返った。変身できるかどうかとか、能力がどうとかではなく、自分の名前が『カレン・サザード』ではない……この事実が問題なのだ。足下の地面が、本当に崩れ去っていきそうな感覚に陥った。
「僕がカレン・サザードでないとしたら、僕は一体誰なんだろう……?」
カレンは途方に暮れた。生きてきたこれまでの時間が否定されたようだ。
ナスティが不思議そうな表情を浮かべている。
「名前など、私は気にしたことがないな。……貴様がこだわる理由が分からん」
「気にしないって、う○こちゃん(ナスティ)。君が言うと、説得力を感じるなぁ。ひどい名前だけど」
「ガルグがこの名前をつけてくださったのだ。とても誇りに思っているぞ」
ナスティは腰に手を当て、胸を張った。大威張りの様子である。
どれだけガルグを尊敬しているのだろうか。
カレンは呆れた。
「僕ならガルグに抗議するね。へんてこりんな名前は、遠回しな虐待だよ」
カレンが率直な感想を告げても、ナスティは誇らしげであった。
「私は気にしない。薔薇をなんと呼ぼうと、薔薇は薔薇だ。それに、この名前には深い意味があるのだ……」
「どういう意味があるの……?」
カレンは、ナスティの横顔をのぞき込んだ。名前に隠された意味があるなんて、初めて聞く話である。好奇心に負け、カレンはナスティの周囲にまとわりついた。
だが、そんな好奇心も一瞬にして構っていられなくなった。
遠くで、物音が聞こえたのである。金属が擦れ合っている音だった。
実際に聞こえたわけではないが、カレンには感じた。
目を閉じて、貝殻頭の状況を探る。
一体の貝殻頭が、崩れた地面を目の前に立っていて、槍と盾を捨てた。宙に浮かぶ線路の上で、四つん這いになった。
背後にいた貝殻頭も同じく武器を捨て、四つん這いになった。仲間の背中を這って進み、線路の途中で止まった。
後続の貝殻頭も、同僚の真似をする。
貝殻頭の橋が完成した。
貝殻頭の列が、仲間を踏みつけて、進軍している。
カレンは目を開いて、ナスティに報告した。
「貝殻頭だ……。ここに近づいてくる。逃げよう」
「私は変身できるぞ」
ナスティが肩で風を切って、応戦の姿勢を示した。カレンはナスティの腕を引いた。
「だめだ、数が多い。それに、クルトが出てくるまで、体力は取っておいて」
カレンは逃げ場を探した。
足下から冷たい空気が流れ込んでくる。ここは絶壁だ。空でも飛ばない限り、どこにも行けないだろう。
壁を見た。重厚な煉瓦づくりで、押しても反応がない。手で触れていると、疑問が湧いてきた。
「この裏はどうなっているのだろう?」
カレンは目を閉じた。
壁の向こう側に、空間がある。ただの空間ではない。地面もある。さらには、通路がある。
目を開いて、壁が途切れている箇所を見つめた。壁は地面と一緒にえぐれている。
カレンの頭に、ある推理が過ぎった。
えぐられて、存在しないはずの壁を想像する。
もともと一個の空間があったが、壁で二つに仕切っていた。えぐられた壁には、扉か門か何かがあって、二つの空間を出入りしていたのであろう。
軍用食の入っていた箱を触る。空中の浮島に放置された箱を背に、カレンは閃いた。
カレンがここに立つ現在地は、食料の貯蔵室だった。
軍用食の箱を、貨車で、貯蔵室まで輸送する。
壁の向こうから兵士たちが列をなして歩いていく映像が見えた。
もはや存在しない出入り口の先で、兵士たちが軍用食の受け渡しをしている。食料を受け取った兵士たちが向かう場所は、都市から離れた敵地である。
「この先を進めば、外に出られる……」
カレンはナスティに結論を告げた。
「でも、どうやって?」
ナスティが疑問を呈した。不安げな表情である。
壁を破壊できる霊骸鎧を呼び出そうとしたが、カレンには霊力が残っていない。“最終勇者”を呼ばなければよかった、とカレンは小さく後悔した。
カレンは崩れた壁を指さした。
「壁がない場所を通るんだ。……床もないけど。壁に掴まって、隣の部屋まで伝って歩けばいい」
「もしも、壁の向こうに何もなかったら?」
ナスティが心配する。カレンは、ナスティを安心させるため、穏やかに説明した。
「そこは心配しなくていい。この部屋は食料を貯蔵する部屋だ。だったら受け取る部屋もあっていい」
伝え終えると、貝殻頭たちの接近を感じた。自分たちが思っている以上に、貝殻頭の進軍は速い。
これ以上、問答している時間はない。
カレンは壁に手をつけた。掴まる箇所は少なく、足下は瓦礫で、岩や煉瓦が谷底に呑み込まれていく。
この煉瓦づくり壁は、初め一枚の壁かと思ったが、分厚い二重構造になっていて、向こうの部屋まで、割と距離があった。
カレンは片足を伸ばし、指先を動かしたが、空を切るばかりでとっかかりがない。
ナスティが小さく悲鳴をあげる。
カレンは片足を戻し、線路側をのぞき込む。
灯りに照らされて、小さいながらも貝殻頭たちの姿が見えた。自身の身体を橋にしている。
「ナスティ。君が先に行ってくれ」
カレンはナスティと場所を入れ替わろうとしたが、ナスティはカレンの脇を飛んだ。ナスティの飛び込んだ先は、谷底であった。
「ナスティ!」
首を回して、ナスティを目で追いかける。
そのまま谷底に落ちていくかと思ったが、ナスティの足裏が煌めいた。
空中に円形の光が発生した。
光の円を蹴って、カレンの反対側……目的地に着地した。
「心配には及ばない。これが空中二段跳びだ」
「……僕には無理だね」
カレンは首を傾げた。
後に続かなくては、と思った。腕が震え出す。カレンの筋力も限界を越えてきた。
空を切る足の指先が、一個の岩を捉えた。
壁の境目にもう片方の足をかけ、一気に飛び乗った。
ナスティのいる場所に、着地したはずだった。だが、足下が崩れた。
向こうにいるナスティの姿が見えた瞬間、カレン自身が谷底に呑み込まれていく。
腕に強い力が懸かった。
カレンの腕をナスティが掴んでいた。眉間にしわを寄せている。
カレンは両脚を振り回すが、足場はない。冷たい空間があるばかりだ。
ナスティが早口で喋る。
「リコ、腕を引きあげるぞ」
ナスティが腰を落とし、もの凄い力で引き上げる。
「リコ、私の身体をよじ登れ」
命令に従うと、色々と柔らかい。命が懸かっているので、楽しんでいる余裕もないが。
カレンは床に手をつけた。
肩で息をする。後ろでナスティが仰向けになって同じく肩で息をしている。
気配を感じる
見上げると、一体の貝殻頭が立っていた。




