意地悪
1
世界が爆発した。
壁が割れる。
割れた壁の先にある、次の壁も割れる。
横向き? ちがう、方向は、下だ。
地面に向かって、床を突き破る。
“それ”は落下している!
たとえ床が石材であろうと、鋼鉄製であろうと、その力の前で柔らかい紙と同然であった。
“それ”は黒い炎に包まれた星となって、大地に激突する。
怒れる大地に、“それ”は、憎き敵を叩きつける。
首を絞め、呼吸を許さない。
青い衝撃波が円形に広がって、黒い星の中身を露わにした。
“それ”は人間だった。いや、人間なのか?
人間といえば、人間である。ただ、形状は貝殻頭の姿を真似した、霊骸鎧である。
黒い霊骸鎧。
他の霊骸鎧であれば、突起物や飾りがついているが、その霊骸鎧には一切飾りがない。
全身は黒檀のように黒く、両目は炎のように燃え、両目から赤くて燃えさかる溶岩のような液体を流している。
塔が、黒と赤が濁り混じった空に向かって高くそびえていた。
塔の周囲、いやカレンの周囲は瓦礫に埋まっている。
黒い霊骸鎧と、敵……青白い貝殻頭によって崩壊していったのだろう。
黒い霊骸鎧は、青白い貝殻頭の首を片手で絞めたまま、もう一方の腕を振り上げた。
貝殻頭の顔を殴りつける。
凄惨な音が周囲に鳴り響く。
黒い霊骸鎧が、拳を振り上げるたびに、貝殻頭が潰れていく音が聞こえる。
カレンは我に返った。
数歩先に、ナスティが仰向けに倒れていた。髪は乱れ、口から血を流している。目を閉じ、呼吸をしていない。クルトに捕まったときよりも、状況が悪い。
「ナスティ!」
カレンは這って進んだ。が、前に行けない。
這う?
カレンの下半身は、瓦礫に埋まっていた。
脚の感覚がない。
自分の脚を見ると、瓦礫の暗い空間の中で潰れていた。
カレンは叫んだ。叫ばなければ、正気を保てないと思ったからだ。
黒い霊骸鎧が、カレンの叫び声に反応した。
振り向く。
(僕の声が聞こえるのか……?)
黒い霊骸鎧と視線を交わす。
憤怒と悲しみに燃えた赤い瞳から、血涙が止めどなく流れていた。
カレンは赤い瞳に飲み込まれていく感覚に陥った。
黒い世界が爆発した。
普通ならば拡散していくが、今回の爆発は一点に集まっている。
床の上に散らばった石材が、自分の意志を持ったかのように、あるべき場所に戻っていく。
破壊されたはずの天井や壁が修復されていった。
離れていたナスティが、空に吸い込まれていった。カレンを下敷きにしていた瓦礫も、すでに元にあった場所に収まっていった。
何者かが、カレンの背中を強い力で鷲掴みにした。上に引っ張られていく。
見えない何かが、自分の力ではどうすることもないほどの、強大な力が、働いている!
(これが、あの黒い霊骸鎧の力なのか?)
黒い霊骸鎧を探した。上昇する瓦礫が邪魔で、見つけきれない。
地面から離れていく。
復元されていく大地を眺めながら、カレンは、なすすべもなく、空に飲み込まれていった。
2
全身が痛い。
これ以上、動きたくない。
都合よく枕が敷かれている。
頬に柔らかい感触を感じて、カレンは顔を埋めたくなった。
枕にしては、暖かい。
「おい」
上から誰かが呼んでいる。
朝の睡眠を邪魔する存在と言えば、母親だろう。カレンは無視をした。枕に顔を埋める。疲労が睡眠欲と一体となり、カレンを夢の世界に誘惑した。
「嗅ぐな。貴様は犬か」
声の主は、母親ではない。母親にしては、口が悪い。
そもそも、何を嗅げ、というのか?
「あとちょっと……。もうちょっと眠らせて」
我ながら、会話が成立していないが、睡眠欲に甘んじていたい人間としては、最低限できる最大の返答であった。
「起きろ、とは言わん。……嗅ぐな」
「……だから、嗅いでいないって」
犬呼ばわりされたくない。
カレンは起きあがった。
目の前にナスティの顔が現れた。近い。ナスティの頬が真っ赤になった。心臓が激しく脈打つ感覚を、カレンは感じた。
反射的に顔をお互い逸らした。
柔らかい枕は、ナスティの膝枕であった。カレンは身体を反転させて、ナスティから離れる。
「ごめん、ごめん。寝ている間に変なことをしたみたいで……」
カレンは、片足立ちで謝った。
ナスティは、耳まで赤くして、眉をひそめている。
カレンには、ナスティの気持ちが掴めない。
(嫌な思いをさせてしまったのだろうか?)
カレンは不安になった。
「ここは、どこだろう?」
カレンは、自分の不安を誤魔化すために周囲を見渡した。煉瓦づくりの塔が目に入った。塔は天井に向かって走っている。
塔の出入り口は半壊していた。
ナスティが、塔の出入り口を指さした。
「あのあと、私たちはあそこから出てきた。ここまで歩いてきたら、塔の扉が崩れた。貴様は、途中で気を失って倒れたのだ。……死んだのかと思ったぞ」
ナスティが目を伏せた。
(本気で心配してくれていたんだ)
カレンは嬉しかった。
ナスティを見る。長い睫毛が綺麗だな、とカレンは思った。
瓦礫の隙間から、タイルの部屋が見える。タイルも壊れていて、クルトたちが利用できないだろう。しばらく、クルトたちの追跡から、時間が稼げそうだ。
カレンは、赤い涙を流した黒い霊骸鎧を思い浮かべた。ナスティに質問する。
「ねえ。途中で爆発とか起こらなかった?」
「……爆発だと? 私たちがあの塔から出ていったときに、塔の天井が崩れて、中に戻れなくなったが。他には異常はなかったと思う。……それがどうかしたのか?」
ナスティが顔を上げて、記憶をたどり寄せている。ナスティは、黒い霊骸鎧や爆発の件を知らないようだ。
「多分、気のせいだと思う。……夢だったのかな」
カレンは夢だったと結論づけた。だが、どこか腑に落ちない。
周囲は霧が立ちこめている。
最初に来た、レミィと一緒に落ちていった場所に雰囲気が似ている。
毛布を胸に巻いたナスティが、裾を伸ばして立ち上がった。
「……ミントを探し、ガルグをお助けしに行くぞ」
まだふらついているが、まっすぐ歩き出した。回復力が速い、とカレンは思った。
だが、無闇に歩き回っても意味がない。行き先が分からない。
(レミィ……!)
レミィと離れて、だいぶ時間が経った気がする。カレンは目を閉じた。
中は暗く、レミィの気配は感じ取れない。
しかし、暗闇の中で貝殻頭たちが行進している映像が見えた。
先頭にはクルトが歩いていた。
振り返って、口から唾を飛ばして、貝殻頭たちを叱咤激励している。
「クルトたちが僕らを捜している」
次の目的地は?
そうだ、ガルグと合流しよう。
カレンは、ガルグの姿を思い浮かべた。
白い胴着を身につけた、白い髭と白い髪の老人は、白い光となった。
純粋な白ではなく、黄色と白が混じったような光にも見える。黄色と白が交互に移り変わっているようにも見えた。
光は塔のはるか上に輝いていた。
カレンは、目を開いた。
「ガルグは上にいる。上に行けば、会える」
霧が揺れ動いて、隙間から壁が現れた。
現在地から壁まで距離がある。壁には梯子が天に向かって走っており、どこまで続くか分からない。
梯子の途中で通路が壁に沿って設置されていた。通路には横穴が見える。梯子は『転移装置』が使えない場合の非常手段だと、カレンは理解した。
壁が霧に覆い隠され、見えなくなった。
「あそこの向こうに梯子があるよ。梯子を登っていけるかい?」
ナスティに聞いた。さすがにナスティを背負って、梯子を登り続ける体力は残っていない。
「問題ない」
ナスティは、そっけなく答えた。なんでもない素振りをしているが、自信がないのだろう。
(無理なら無理って、言ってくれればいいのに)
カレンはナスティの気持ちが理解できず、少し腹が立ってきた。
梯子の位置まで歩いていった。
どこまで伸びるのか、霧が邪魔で先が見えない。
ナスティの体力が持つか心配だ。
「途中で通路や横穴があるから、そこで休憩しよう。ゆっくり行けば、必ずたどり着けるから」
ナスティを励ました。ナスティは無言で頷いた。
遥か後方、遠くに貝殻頭の気配を感じる。なにか機械を操っている。
動きから察するに、クルトの捜索隊とは別部隊である。
カレンたちに、まだ気づいていない。
だが、カレンたちが梯子を登っている様子を目撃されたら、追ってくるだろう。
「君が先に行って。僕が下からついて行く。追っ手がきたとき、時間を稼ぐから」
ナスティは目を見開いて、驚いた。頬が真っ赤になっていく。
「いやだ!」
ナスティは首を振って、強く拒否した。眉間にしわを寄せ、瞳には涙を浮かばせている。
「どうして……?」
だが、カレンはすぐに理解した。ナスティは毛布以外、何も身につけていない。
ナスティを先に登らせたら、下に続くカレンは、ナスティの様々な個人情報を知ってしまう。
「わかった。僕は目を閉じて登るから……。下から敵が来たとき、対応できないよ」
ナスティを強引に登らせた。
「絶対、見るなよ」
念押しされるまでもない。カレンは目を閉じて、梯子に手を掛けた。
「むっ。柔らかい」
予想と違う感触がする。
「貴様、どこを触っている……?」
怒気を含んだ声が、上から降ってきた。
「ごめーん」
「貴様、降りろ。この陣形は、やっぱりダメだ。やり直し!」
二人とも、地上に足を着け、カレンを先頭に登り始めた。
(こんな呑気にしていて、大丈夫なんだろうか……?)
カレンは梯子に手を掛け、戸惑いを隠せなかった。
3
一番目の通路に到達した。
カレンは通路に身を乗り出して、ナスティの様子を見た。震える手で、懸命に登っている。
あともう一段のところまでに来たとき、ナスティは小さく声を出した。
「あっ」
手を滑らせたのである。
カレンは、素早く飛び出しだ。腹を打ったが、ナスティの手首を掴めた。間一髪、ナスティはバランスを崩し、後ろに倒れそうになっていた。
カレンはナスティを引き上げ、提案した。
「少し休もう」
ナスティは無言で、カレンとは距離をとり、腰を落とした。腕を組んで、霧だらけの世界に目をやっている。
(綺麗な顔をしているな……。でも近寄ってこないのは、嫌われたからなのかな)
と、カレンは勝手に傷ついた。嫌われる原因は思い当たらない。カレンはナスティに近づいて、声をかけた。
「僕、なんか怒らせた?」
座っているナスティの顔をのぞき込む。
「……怒っていないぞ」
ナスティがそっぽを向く。何を考えているのか分からない。
「でも、なんか不機嫌だよ?」
ナスティが意外そうな顔をした。歯を食いしばって、俯いた。
「……私は、いつもこうだ。ガルグのお役に立てずに、情けない。ミントすら助けられない」
自分を責めているのだ、とカレンは解釈した。どう慰めようか思案した。
「あの豚鼻野郎に辱めを受け、騎士とはあるまじき逃走を繰り返し……」
ナスティの言葉が続く。
そんなに自分を責めなくてもいいよ、とカレンは思った。
「挙げ句の果てには、貴様のような奴に助けられているとは」
(貴様のような奴で悪かったね!)
カレンは、心の中で苦笑いした。
(むしろ、ガルグじゃなくて、僕の足を引っ張っているような気がするんだけどね)
口に出して言いたくなったが、ここで雰囲気を壊したくない。カレンはシグレナスの皇帝になる人間である。皇帝たる者、些事で腹を立ててはいけない。
「ミント……。ミントが心配だ」
ナスティが譫言のように呟く。ナスティの引き裂かれるような気持ちが、カレンに伝わった。
「大丈夫だよ。きっと上手くいく。……レミィは安全なところに置いてきた」
カレンは、なるべく優しい口調で伝えた。
「なんだと?」
余計な発言だったらしい。
ナスティはカレンを睨んだ。立ち上がり、カレンに掴みかかった。
「貴様、ミントを捨ててきたのか!」
捨ててきた。
今度は、カレンが、心を抉られるような気持ちになった。
「違う……。僕と一緒にいるよりも安全だと思ったから」
カレンは口ごもった。ナスティの怒り狂った視線が突き刺さる。
「では、私はどうなんだ? 私は貴様と一緒にいる方が安全だったか?」
ナスティの呆れた口調には、怒りが混ざっていた。
捨ててきた、と追いつめられたら、反論できない。
「だいたい貴様は何なのだ。いきなり現れて、私たちの……」
ナスティは言いよどんだ。
私たちの邪魔をしている、とカレンは心の中で補足した。
邪魔しているわけではない。現に何度もナスティの命を救っている。
ただ、自分は何者だ? と訊かれ、用意している回答は、それほど持っていない。
「シグレナスの皇帝です……」
カレンにとっては精一杯の回答であった。
「シグレナスの皇帝だと? シグレナスはもう滅んだんだぞ。今さら皇帝になっても無駄だ」
ナスティが早口でカレンに詰め寄る。
「無駄ではありません。僕が再興させます」
カレンは静かに抗弁した。この言い争いに意味があるのだろうか?
「再興させてどうする? 誰もいない帝国など」
意地悪な発言に、カレンは頭に来た。これまで寛大な態度で接してきたが、もう我慢できない。
「じゃあ、貴女こそ何ですか? ガルグがどう、レミィがどう……。自分がどうしたい、とか意見がないですよね?」
カレンは怒ると、口調が丁寧になる。
「自発的に行動しないから、貴女のような指示待ち人間が、組織の足手まといに……」
カレンはまた余計な発言をした、と思った。
ナスティの両肩が、怒りで震えている。
「目をつぶって、歯を食いしばれ!」