夫婦
1
息を切らして、雨の坂道を駆け上がる。
雨よけにまとった外套の隙間から、大粒の雨水が入って、ナスティの身体を冷やした。
だが、ナスティの体調は、懸案事項ではない。
(今夜なんだ……! 奥様が、旦那様を殺すんだ……! 止めないと……! 旦那様が殺されて、奥様が投獄されたら、お嬢様はどうやって生きていけば良いの?)
リゼルの将来を想像すると、心臓が張り裂けそうだ。
リゼルが愛おしい。生徒を通り越して、守りたい存在になっていた。
屋敷に滑り込む。予定時刻よりも早く到着した。
だが、屋敷の空気が、おかしい。
「嫌な予感がするよ……」
クリステルが、ナスティに眼を合わせない。
何か一悶着を起きた後だと、ナスティには分かる。
「今日で終わりね。お疲れ様」
クリステルが、冷たく皮肉をぶつけてきた。
「……まだ授業を続けます」
ナスティは、リゼルの手を引いた。
リゼルは従いてきた。
「駄目よ。アナタの仕事は、蛙殺し。早く、池に行ってちょうだい」
クリステルは、棒とバケツを指さした。
棒は以前と変わっていない。血痕すら見当たらない。
(まだ、何も起きていない)
ナスティは安堵した。
「……雨が降っています」
蛙殺しを天候を理由にして拒否した。
「壁や床が汚れているから、拭いといて」
雑巾を投げ渡される。
周りを見渡すと、いつも庭仕事をしている奴隷たちが、屋敷の掃除をしている。雨の日は、皆で大掃除をしているのだ。
クリステルの目が怒っている。夫のアリーサザナと喧嘩をして怒りが収まらず、ナスティに怒りの矛先を向けているのだ。
ナスティは黙って雑巾を絞り、床に膝をつけて、拭き掃除を始めた。
他の奴隷たちと肩を並べる。
リゼルが隣に寄り添ってくれた。手伝おうとしてくれるのだ。
「リゼル。それは、奴隷がやる仕事。アナタはやらなくていいの」
クリステルが、わざと意地悪な発言をした。
ナスティは歯を食いしばった。
リゼルがますます気まずい表情になった。ナスティにも、母親にも味方になれない。
(ボクは、お嬢様に嫌な思いをさせてしまっている……)
ナスティに罪悪感が芽生えた。
だが、リゼルは、むしろ、ナスティの味方をしてくれている。
(でも、時間がどんどん経っていく。こんなとき、ジョニーだったら、どうしただろう?)
ジョニーの顔を思い返すと、自然と口から、シグレナスの詩歌が出てきた。
シグレナスの至高神セレスティアと鹿の子タニスの歌だ。
リゼルも一緒に歌った。
「歌をやめて」
クリステルが苛立った口調で、リゼルが電撃に打たれたかのように、止まる。
だが、ナスティは無視した。
「……これは、シグレナスの修辞学の勉強です。歌で文章を暗唱するためです」
また、ナスティが歌い始める。すぐに、リゼルも続いた。
「やめなさい」
ナスティは、セレスティアが傷ついた小鳥を助ける歌を歌った。
母鳥の代わりに、愛おしく鳥を撫でる。
リゼルだけではなく、奴隷たちも旋律をなぞり始めた。
「やめろ!!」
即席の合唱団に向かって、クリステルは、狂ったかのように叫んだ。
リゼルが辞めた。奴隷たちも静かになる。
クリステルは、蛙を殺す棒を、ナスティめがけて、振り回してきた。
(セレスティア、お願い、助けて!)
ナスティは、顔を逸らした。
セレスティアが準備をして待ち構えていたかのように、すぐに世界は暗転していく。
2
暗転した世界が、明るくなった。
波の音が聞こえる。
薄暗い一室だった。肌の黒い女奴隷たちが大きな葉っぱで、寝台の上に眠っている人物を、扇いでいた。
リゼルに似た少女……いや、幼い頃のクリステルだった。
寝台の上で、自身の耳を塞ぎ、包まっている。
別室から、女の怒鳴り声が聞こえる。
年配の女が、同じ年齢くらいの男を指さして、叫んでいる。
(奥様のお母様……?)
クリステルが、夫のアリーサザナを問い詰めている構図とそっくりだ。
少女クリステルは、寝台の上で、苦しそうに足をばたつかせている。母親が父親を詰る声が、苦痛なのだ。
窓から海が見える。
青空に、カモメが跳んでいた。
建物は、崖の上にある。崖崩れが心配になったが、海の風景を見ることを優先して建てられた建物だ。
日常生活を送るには不便な場所にあるから、ナスティは、別荘だと分かった。
(小さい頃の思い出なのね。奥様が、別荘に来て楽しい思い出になるはずだったのに、ご両親が喧嘩をして、ぶち壊しにされている……)
奴隷たちが、鳥の羽で作った扇で、小さい頃のクリステルに風を送っていた。
苦悶の表情を浮かべているクリステルの顔が、現在の年齢になった。かと思うと、小さい頃の顔に戻る。
「怒鳴り声が絶えない」
両親の喧嘩は、一日や二日ではない。
クリステルの母親が常に怒っている。
大人になったクリステルも、いつも怒っている。作り笑顔で見せていないだけで、内心は、燃え上がるかのような怒り方だ。母も娘も常に怒りを抱えている。
それぞれの夫を見るなり、怒りが発火する。
「なんで? どうして? これだけ立派なお家に住んでいるのに?」
だが、ナスティにはすぐに分かった。
セレスティアのいた時代、他人の庭で木の実を盗み食いしている少女を思い返した。
果物だ。
果実が欲しいのではない。食欲を満たしたいのではない。金や地位では手に入らない、愛情が欲しいのだ。誰かに対する怒りではなく、自分に向けられた、愛の果実が不足しているのである。
そのまま、夜になり、すぐに朝になった。
女の悲鳴が、聞こえた。
別荘の外で、肌の黒い、女奴隷が、腰を抜かし、崖の下を指さしている。
震える奴隷を素通りして、クリステルの父親が崖をのぞき込んだ。
幼き頃のクリステルがのぞき込もうとしたが、父親が止めた。
だが、幼き頃のクリステルは、父親の脇から見た。
女の……母親の死体だった。
崖から飛び出た大岩に、赤い花弁を広げた花であるかのように、血を飛び散らせていた。
砕け散った桃色と、白の肉体だった。
(お母様……!)
(お母さん……!)
ナスティは、クリステルの口を借りて、身投げをした母親に向かって叫んだ。
3
目を開くと、目の前にクリステルが立っていた。
怒りの形相は消え、怯えている。
どちらかといえば、余計な憑きものが落ちた感じがする。
両目は弱々しく、急激に力を失っている。
「帰って」
力なく命令をした。
「……帰りません」
ナスティは毅然とやり返した。
帰宅命令は、クリステルの本意ではないと、ナスティには分かった。
勝算は高い。
(クリステル奥様は、お母様が亡くなった理由を、お父様のせいだと考えている。直接手を出したわけではないけど)
夫婦は、分かり合えなかった。
妻は自分の意思を伝えるために、夫に死を持って伝えた。
(どんな内容を伝えたのか分からなかったけど。多分、クリステル奥様は、小さかったから、理解できなかったのだと思う)
父親が母親を殺した。
直接手を出したわけではない。
母親の気持ちを分かろうとせず、見殺しにした。
間接的に父親が母親を殺した。
(こんなに明るそうな奥様に、そんな過去があったなんて)
クリステルは、棒を下ろしていた。
名家のアリーサザナに嫁いだ。
結婚相手は、父親に似た男だ。この男も、父親と同じく妻の話を聞かない。
どうして蛙の声が怖いのか、ナスティには分かった。
暗い闇の中から聞こえる、蛙たちの鳴き声は、死者の鳴き声に似ている。
母親に重ねていたのだ。いや、自分自身だ
叫んでも、叫んでも、届かない、蛙の鳴き声……。
クリステルは、蛙を殺したかったのではない。
自分自身を殺したいのだ。
叫んでも届かない、不甲斐ない自分を殺したいのだ。
死ぬか、殺されるかしかない。
リゼルと同じくらいの年齢から、ずっと、そんな気持ちの中で生きてきた。
クリステルの周りに、屈強な奴隷たちが集まる。
ナスティをつまみ出す算段をしているのだ。
(どうすればいいんだろう?)
ナスティは焦った。ここで引き下がっては、すべてが駄目になる。
(もし、クリステル奥様が、旦那様を殺したら、リゼルお嬢様もクリステル奥様と同じになっちゃう……)
屈強な奴隷たちがナスティの周りに集まってくる。
4
手を伸ばしてきた。
(助けて、セレスティア!)
ナスティの全身が光ったような気がする。
実際には光っていないが、奴隷たちが、躊躇っている。ナスティを、まるで神聖な不可侵の存在であるかのように、手出しができない。
ナスティは、奴隷たちの間を、大きな足取りで、横切った。
我ながら大胆である。
自分が自分でない感じで、誰かに突き動かされているようだ。だが、確実に、自分の意思で歩いている。
クリステルの前に立つ。
すると、クリステルは、力が抜けたかのように、ナスティの前で跪いた。
ナスティは、クリステルをそっと抱きしめた。
胸の中で、クリステルは泣いている。幼きクリステルに戻ったかのようだ。
セレスティアの映像が見えた。
セレスティアが手を伸ばして、クリステルの額に手を当てる。
手を当てると、最初に戻り、再び、セレスティアが手を伸ばす。
その映像が、繰り返し繰り返し、流れてきた。
(ティーンさんから教わった“祝福”と一緒だ!)
神話では、よくセレスティアは誰それに光を与えた、と何度も出てくる。文章で書かれた内容が、現実に一致する瞬間を目の当たりにして、ナスティは軽い興奮を覚えた。
(ヴェルザンディのティーンさんは、シグレナスのセレスティアから学んだのかな……。それとも、どこもやり方が、いや、根っこは同じなのかも)
ナスティはセレスティアの動きに合わせて、クリステルの額に手を当てた。
だが、何も起きない。
(はわわ、これじゃ、奥様を助けられないよう……)
ナスティは慌てた。クリステルは泣いている。
「ちがう」
セレスティアの声が聞こえた。
実際に会った経験はないが、セレスティアの声だと分かる。
声の質が変わった。
「お嬢ちゃん、あいつに、ジョニーに“祝福”をしただろう? そのとき、何を考えていた? ……幸せな自分を想像しろ。自分を愛せ」
次に、老人ティーンの言葉が聞こえた。優しげな声だ。
「そうだ。ボクは、ボクを愛して良い。ボクがボクを愛せる瞬間は……」
ナスティは答えを知っていた。
(ジョニー、好きだよ。愛している)
ナスティは、心の中で唱えた。
隣にジョニーがいる。
ジョニーが傍にいる。想像するだけで、ナスティの奥底から、力が湧き上がってくる。
力は風となり、風は優しい光をまとって、あふれ出てきた。
黄金に輝く風である。
(右手を添えるだけ……)
ナスティの右手が、クリステルの額に触れた。
ナスティの、金色に輝く霊力が、クリステルに注ぎ込まれていく。
(この人は、奥様は、誰にも愛されていない、と思い込んで生きてきた。生きていても、意味がない。そんな無力感。奥様のお母様も、そうだった。自分の結婚相手に、何かをして欲しかったわけでもない。ただ、話を聞いて欲しかっただけ……)
クリステルが泣き止んだ。
ナスティの分析が、正解であるかのように。
ナスティは気分が良かった。クリステルが安心していると分かった。
ナスティは、クリステルと感覚が同期しているのだ。
(わかる。ボクもそうだった。ジョニーに出会う前のボクは、生きているようで生きていなかった。政略結婚の道具みたいに扱われていて、嫌だった。でも、今は違う。ジョニーに会えて、ボクは変われたんだ……)
ナスティは目を開いた。
部屋の扉に人影が見えた。中を覗いている。家の人間ではない。
古めかしいドレスと、黒くて長い髪に、花と葉の冠を載せていた。
ナスティの視線を感じると、奥に引っ込んだ。
(セレスティア……? これは、全部、アナタの仕業だったのね。……ありがとう)
ナスティは、心の中で礼をした。
アリーサザナ家は、静けさを取り戻した。
「お嬢様のお勉強を続けてもよろしいですか?」
クリステルに許可を取る。クリステルは、優しく頷いた。
ナスティはリゼルに問題集を解かせた。一問ずつ、丁寧に説明していく。
「お姉さん先生の教え方、大好き! これまでの先生で、一番、楽しい!」
リゼルが喜んでいる。
「お嬢様は、ボクがこれまで教えてきた生徒の中で、一番、優秀です。お嬢様の先生になれるなんて、とても光栄です」
ナスティは微笑んだ。まるで天使と話をしているかのような幸福感に包まれた。
「リゼルが勉強とは、珍しいな……」
リゼルの父親、クリステルの夫が部屋にやってきた。
クリステルが、声を掛けた。いつになく、優しい口調だ。
「あなた。こちらは大神殿から来た、ナスティさん。ナスティさん、主人のガーランド・アリーサザナです」
「それは、それは。いつも、妻と娘が御世話になっています」
ガーランド・アリーサザナが礼をした。妻クリステルの変化に戸惑っている、とナスティは感じた。
だが、立派な人物だと分かった。逞しい体格と、仕事ができる、知的な印象を持ち合わせた顔つきをしている。
アリーサザナ家の屋敷には、優しい風が吹いた気がした。
重苦しい空気などなかった。
「あら、もうこんな時間。お昼ご飯にしましょうね」
クリステルが、奴隷たちに合図を送ってくる。
(飯……!)
ナスティが、あふれる涎を飲み込んだ。




