介入
1
アリーサザナ家の食堂は、広い。
リゼルが走り回って、端から端まで、時間が掛かる。
大人数を収容する大神殿の食堂ほどではないが、ナスティが知っている限り、ヴェルザンディの食堂、いや、一般的家庭の敷地よりも広い。
食事をする場所だけではなく、接客用としても利用されている。広い空間を無駄に遊ばせる理由などないのだ。
家庭教師であるナスティが来た場合は、リゼルの学習部屋になる。
「貴女。もう、今日で終わりだから」
アリーサザナ家の奥様クリステルが、作り笑顔で、死の宣告をした。
(飯……!)
アリーサザナ家での食事が、ナスティにとって、最大にして唯一の幸せである。
家庭教師の職を奪われては、人生の楽しみを失う。
「お嬢様に勉強を教えさせてください!」
すかさず、クリステルに頭を下げた。ナスティは、クリステルの処分を事前に知らされていた。対策は事前に練っていた。
教える立場なのに、ナスティの身分は、奴隷なのだ。平身低頭、ひたすらお願いをする。教師役が頭を下げるこの歪んだ関係に、違和感があるといえば、ある。
「でも、あなた。全然、勉強を教えていないでしょう? 今更、命乞いみたいな真似をされてもねえ」
と、クリステルは、呆れた口調で応えた。
(いや、お前のせいや。勉強をやらせないで、誰がワイに蛙を殺させてんねん?)
ナスティは、喉から出そうになった本音を必死に止めた。
「見ての通り、うちの子どもは勉強が嫌い。やる気がないの。……やっぱり、女に勉学は無理なのだわ」
クリステルの弁に、ナスティは、腹が立ってきた。
女のナスティは、勉学に関しては、同年代の男どもに負けない自信があった。もっとも、同年代の男子と接する機会はなく、身近な男は、セロンくらいだ。セロンは、顔が良く、歌も上手くて人気者だが、ナスティの中では、頼りない存在に成り下がっている。
「いいえ、リゼルお嬢様は、知的好奇心が旺盛です。椅子に座ってのお勉強をする習慣がないだけです。やる気とか、女とか、関係ありません」
ナスティは引き下がらなかった。
食事を失いたくないからだけではない。
女を馬鹿にされたからだけではない。
リゼルを、仮にも自分の教え子を、否定されて、自分が否定されたような不愉快さが生まれたからだ。
「……お嬢様が勉強に向き合うには、時間が必要です。今やるべきは、勉強時間の確保です」
遠回しに、蛙殺しをやっている暇はない、と伝えた。
「じゃあ、三日。三日で娘のやる気を引き出して。もし駄目だったら、もう来ないでもらいたいわ」
クリステルが、一方的に宣言した。
(三日でやる気なんてでるわけないでしょおお? 頭がおかしいのかな? お嬢様とボクから勉強を遠ざけておいた人は、誰?)
ナスティは、クリステルの襟首をつかんで、前後に激しく揺さぶりたくなってきた。理不尽な理屈ばかり並べてくる。
だが、もう引き下がれない。
「分かりました。三日で、お嬢様のやる気を出してご覧に入れましょう」
ナスティは、自分の顔に筋力を総動員して、笑顔と余裕ぶりを演出した。
(勉強って、習慣だから。三日間の間に癖さえ身につけてしまえば、なんとかなるかもよ)
内心は、焦っている。
クリステルは席を外した。どこかに消えていった。
「お嬢様、偉い!凄い!頑張って!」
おだてて、自尊心を刺激する作戦に出た。
リゼルの顔を見上げた。だが、そっぽを向いている。
「やりたくなーい」
リゼルが、腕で教科書を振り払い、床にぶちまける。
「わー、駄目ですよ。お嬢様。教科書は大切にしなきゃ」
ナスティは、感情を抑え、作り笑顔で、教科書を拾い始めた。作り笑顔の技術向上に最適な職場だな、とナスティは自分を納得させた。
二人きりの大部屋は、静かだった。
ナスティは、飛び散った書類をかき集め、机に置き直す。
リゼルは、不貞腐れた態度で、机の上に両腕を突き出していた。
「なんですか、これ?」
ナスティは困惑した。
よく見ると、両腕を横切るかのように、いくつかのミミズ腫れの形跡ができていた。
(鞭を受けた形跡? お嬢様は、日常的に体罰を受けているの?)
ナスティの怒りは収まってきた。怒ったり冷静になったり、子どもの相手は感情の起伏が激しくなる。勉強を拒む子どもが目の前にいれば、なおさらだ。
母親ナディーンの気持ちが分かった。
(小さい頃のボクも、お母さんに反抗していたっけ。娘に政略結婚させて、大金を得るとか、今考えたら、バッチバチの毒親だったけどね。大嫌いだったし、お母さん見たくなりたくなかったけど、ボクにとって唯一のお母さんなんだ)
母親ナディーンと楽しく談笑した様子を思い返した。ナスティは薄らと涙が出てきた。
(もうちょっと勉強していれば良かった。そうすれば、お母さんも喜んでくれていただろうな……)
勉強を本格的にやるようになった時期は、大神殿に入れられたからである。ジョニーとの邂逅が、一番の理由であったが、ジョニーとは遊んだ記憶が多い。
大神殿に来て、誰も味方はいなかった。
自分の人生を切り開くには、勉強しかなかった。
勉強だけが、唯一の友だちにして生存戦略だった。
「お嬢様、今は大変かもしれません。でも、勉強をしていると、将来になったら、必ず役に立ちますから」
ナスティは、リゼルに諭した。なるべく優しい口調で伝える。
勉強しろ、と発狂する母親の真似をしたくなかったからだ。
「将来っていつ? どこで役に立つの?」
「実際、ボクだって、先生になりました。勉強をしたから、こうして、働いて、お金を稼げる」
「先生になって、どうするの? 先生でなくても、お金は稼げるでしょう?」
「うぐぐぐ……」
ナスティは、論破された。心が折れる。
過去の自分も、こんな屁理屈を親にぶつけていたのだ。
鏡に映し出された、過去の自分と戦っているのだ。
ただ、過去の自分と違って、口が達者である。
2
このまま、真正面で戦っても、負けるだけだ。
「……反対に、お嬢様が知りたい、勉強してみたい分野ってありますか?」
搦め手を突く。
リゼルは、上を見上げた。ナスティも倣って見たが、天井しかない。
「……天井ですか?」
「ちがう。天井のもっと向こう」
「……お空?」
「ちがう。お空のもっと向こう。宇宙を見てみたい。いや、宇宙に行ってみたい。そこで、綺麗な服を着て、皆に歌を歌ってもらうの」
うっとりとした表情で、目を輝かせている。
ナスティの映像が切り替わった。
そこには、見知らぬ丘で、見知らぬ子どもが、先の尖った建造物の前に立っていた。
子どもは、今のナスティと同じか、少し年上のように見える。
この銀髪の子どもが誰なのか、ナスティは、知っている。
(この建造物が宇宙に行く装置なのね……)
ナスティには分かった。
銀髪の子どもが、老婆に何かを告げている。
(このお婆さん、未来のお嬢様!)
老婆は、リゼルだった。老リゼルは、孫に接しているかのように、銀髪の話に、頷いていた。
「お嬢様は、行こうと思えば行けるようです。でも、お嬢様は、断っちゃうみたい」
「え? なんで? あたし、行ってみたい!」
「とっても偉い人が、宇宙に行くのね。お嬢様は、危ないから行けないって」
「ええ? どうして? 絶対行くよ! ねえ、偉い人って、誰? その偉い人に、宇宙に連れて行ってもらえるの?」
「……リゼルお嬢様は、この世でもっとも偉い人に出会う運命みたい。でも、ちょっと先の話……」
「行きたい、行きたい、行きたい!」
「手を出して、目を閉じて」
駄々をこねるリゼルに、ナスティは手を差し出した。
リゼルの手が重なる。
瞬間、二人は、暗闇に飛ばされた。
夜空のように暗いが、星々が放つ光のおかげで、周りが見える。
ナスティは、宇宙空間に浮かんでいた。ナスティの隣では、光の珠が浮かんでいる。
「リゼルお嬢様……?」
名前を呼ぶと、光の珠は、リゼルの輪郭を作り出した。
「うわわ、ここはどこ? 宇宙?」
リゼルが声を発する。リゼルの輪郭が、リゼルそのものになった。
(はい)
ナスティは心の中で肯定した。すると、そのままリゼルに伝わった。宇宙空間にいると、心がそのまま伝わるのである。
「あの大きな星は何?」
リゼルが指さす先は、青い球体があった。少しだけ緑の陸地が見える。他の星と比べて、近い位置にある。
「あそこは、ボクたちが住んでいる星です」
「変なの! あたしたちが住んでいる場所って、もっと平らだと思っていた」
リゼルが、何度も、自分たちの母星を眺めていた。
はしゃぎもせず、ただ、感慨深く、地上を見つめている。
「あたしたちの家、ここから見えるかな?」
「ここからだと、遠すぎて見えないと思います。もっと近づいて探してみましょうか?」
「……うん!」
ナスティとリゼルは地面に近づいた。近づくとともに、光に包まれた。
目を覚ます。
アリーサザナ家の食堂だった。机の上に突っ伏していた。
机の上で、教科書と問題集が散乱している。
リゼルは眠りから覚めたように、伸びをした。
「おはよ、お姉さん先生」
「ボクたち、寝ていたみたいですね」
だが、二人は、知っていた。夢ではない。
ナスティもリゼルも佇まいを直した。
「偉い人に会うには、いっぱいお勉強をしないとね。そのときに、宇宙に連れて行ってもらいましょう」
「うん!」
リゼルは、笑顔で素直に頷いた。
(うん、可愛い)
ナスティは自然と笑顔になった。
算術の問題集を開くと、リゼルの顔つきが変わった。真剣な顔が、引き締まった。
次々と問題を解いていく。
(ボクが六歳の頃って、こんなに真面目に勉強していたっけ?)
リゼルの変貌に、ナスティが驚いた。大神殿内で勉強を教えていたが、リゼルほど没頭する巫女はいなかった。
(ひょっとして、ボクなんかよりもずっと勉強ができる子になりそう)
リゼルには、才能がある。
だが、驚きよりも、嬉しさが勝った。教師として、生徒が真剣に勉強している様子は、なによりの報酬なのである。
「すごいです、リゼルお嬢様! さすが、アリーサザナ帝のご子孫」
リゼルが問題を解き終えると、ナスティは褒めた。
「こことここが、分からないの」
リゼルは、真っ赤な顔をして、自分の間違えた箇所を指摘した。
(照れ隠ししていて、可愛い……)
ナスティは、リゼルを抱きしめたくなった。
妹ができたようで、愛おしい。
丁寧に解説すると、リゼルは持ち前の好奇心で、次々と知識を吸収していった。
(これなら、楽勝だね。お嬢様には、勉強のやる気が最初からあったんだよ)
ナスティの口元が緩んできた。
にやけた顔を見せるわけにはいかない。
(まだ笑うな、まだ笑うな)
笑いをかみ殺した。成績が上がる。間違いなく。
「お嬢様、次の問題に行きますか?」
「……うん!」
リゼルが元気いっぱいの返事を出したと同時に、食堂にクリステルが入ってきた。
3
「お母様、ここまで勉強ができたの」
リゼルが、クリステルの目前に問題集を広げた。
教科書と問題集を一瞥して、クリステルは冷ややかな表情を見せた。
「間違いばっかり。こんな勉強方法じゃあ、成績は上がらないわ。お母さんが、問題を作ってあげる」
ナスティの用意した教科書や問題集など見向きもせず、クリステルは、紙に文字を書き殴り始めた。計算問題を作り始めたのである。
「解きなさい」
クリステルの問題を、リゼルは渋々、解き始めた。
あまり嬉しそうではない。能動的に勉強をしている、というより、作業をさせられている様子である。
クリステルは、しばらく貧乏揺すりをしたかと思うと、席を外し、どこかに消えた。
すぐいなくなる。
教育熱心ではあるが、最後まで責任をもって、娘の勉強に付き合う姿勢を感じられない。
クリステルがいない隙に、ナスティは、リゼルの肩越しにオリジナル問題を盗み見た。
シグレナスの書店で販売されている問題集と、内容的には、それほど変わりない。いや、むしろ量が足りないし、書きかけの問題がある。
リゼルは、問題を除いて、解き終えた。
集中しているリゼルとは、別人のようだった。
「次は何をすれば良いのかな……?」
リゼルは困っていた。
ナスティにはクリステルの意図が見えない。
クリステルを待っていたが、昼食が出てくるまで、現れなかった。
三人で食事をとる。
リゼルは、元気を失って、クリステルは平然としていた。
だが、クリステルから苛つきを感じた。
ナスティは、美味なはずの、芋をすり潰したスープを頂いているのに、異様な緊張感で、味がしない。
食事が終わると、ナスティは口火を切った。
「奥様、答え合わせをしてはいかがですか?」
「……それは、アナタがやって」
クリステルが、素っ気なく応えた。
「ボクが作問したわけじゃないんで……」
ナスティが慌てて反論した。業務外の仕事はできない。
「答え合わせは、家庭教師の仕事でしょう?」
クリステルが冷たい表情で見返してきた。
「……ボクは、ボクが用意した教材の中でしか、答え合わせできません。ボクの用意した教材が完璧になってから、それから新しい問題に取り組んでいくべきだと思います」
「口答えをする気? アナタは、雇い主である私の命令に従えばいいの」
クリステルの口ぶりから、リゼルが、勉強しない本当の理由が分かってきた。
原因は、母親のクリステルである。
派遣業者からは、リゼルが不思議な性格だから、と説明をされてきたが、母親の介入、横やりが勉強の邪魔をしているのだ。
「あなたのやり方だと、進みが遅いの。だから、私が問題を作ったんです」
クリステルが自分の正当性を主張した。
(まだ始まったばかりなんですけど! これまで蛙を殺していただけなんですけど! むしろ、今日が、実質的な一日目なんですけど!)
ナスティは怒りがこみ上げてきた。だが、自分は家庭教師である。
「進みが遅くても、間違えた問題を、無理なく復習しましょう。焦らず急がずです」
ナスティは作り笑いで、クリステルを窘めた。
リゼルは下を向いていた。
クリステルは、つまらなさそうな表情をしている。
「……アナタは、蛙の始末はどうなったの? まだそっちの仕事は終わっていないわよ。……早く行って」
思い出したかのような表情を作り、命じた。
家庭教師から、蛙殺しに配置転換されたナスティは、棒とバケツを渡された。
「子どものくせに、生意気よ。私に注文をつける気?」
どちらが大人か分からない言葉を背中に浴びせられた。
(こんな母親に生まれて、お嬢様が可愛そう。もっと自由に勉強をさせてあげればいいのに。本当は、好奇心旺盛な天才なのに!)
母親に才能を潰されてる未来を想像すると、ナスティは、叫びたくなった。




