戦争
1
闘技場が割れんばかりの歓声で揺れた。
セレスティア祭が始まったのである。
ナスティたち大神殿の聖歌隊はひな壇に並んでいた。
ひな壇は木造で、ナスティは、一番、端の下に立たされている。
女神セレスティアを称える賛美歌を歌っていた。
ナスティは、帝がおわす天覧席を見上げた。
帝は、車輪の付いた寝台でお姿を御表しになられた。
隣に黒髪の女が侍っていた。
シグレナスの市民が立ち上がり、全員拍手で迎え申し上げた。
帝のお伏せになられる寝台を、巨漢の奴隷たちが傾け申し上げた。
(うわあ、すっごい細いお爺ちゃんじゃん。死にかけてるよ? ……こんな騒がしい闘技場に連れてきてはいけない人だよ?)
背の高い女が、黒い髪をなびかせて、颯爽と立ち上がった。
「皇帝陛下に代わって、この名代ヒルダ・ロンドガネスが、陛下のご意向を述べさせていただく……。シグレナス帝国の誇り高き市民たちよ。こうしてセレスティア祭を始められて、朕は大変嬉しく思う」
ヒルダが代わりに話をしていた。
ヒルダの演説中、帝は、虚空を見つめたまま、何かを宣っている。
「あの女性は誰ですか? 皇帝の奥さんですか?」
帝の痛々しいお姿に、耐えきれなくなったナスティは、隣の巫女に訊いた。
「ヒルダ・ロンドガネス…………皇帝の愛人よ」
隣の巫女が応える。
「愛人? 恋人なんですか?」
「しっ。声が大きい。不敬な発言をすると、逮捕されるわよ」
逮捕されたくないので、ナスティは黙っていた。
ヒルダの演説が終わると、扮装した一団が、闘技場の中に入ってきた。
民間の劇団が、セレスティアの伝説を演じる。
ナスティたち聖歌隊も、場面に合わせて賛美歌を歌った。
(大神殿の巫女であるボクたちよりも、劇団の人たちがセレスティアに詳しそう……)
ナスティは、気が散っていた。
気が散りながらも、合唱はできていた。身体に染みついた歌詞が、勝手に口から出てくるのである。
練習しているときは、“星空の世界”に行って、皆と歌を楽しめたのだが、闘技場に巻き起こっている地割れのような歓声に、完全に飲み込まれていた。
(大丈夫、とにかく歌詞も間違えていないし、変な感じにはなってないから……!)
よく分からない言い訳をしていると、視線を感じた。
帝の隣で、ヒルダが退屈そうに欠伸をしている。
(すごく、不敬……)
ナスティと目が合った。ヒルダの徐々に残忍な目つきになっていく。
(人を思いやる気持ちがない……相手が苦しむ様子に楽しみを感じる人種……。マグダレーナ、ベルザと同類……)
と、ナスティは直感した。恐怖の苦い記憶が甦ってきた。
ヒルダは、ナスティを見つめたまま、帝に何か言葉を申し上げた。ヒルダは帝に耳を傾け申し上げ、頷いた。
左右の兵士に指示をする。
「……皇帝陛下は、かなりご体調がお悪いのね。あんなにお痩せになって……」
聖歌隊の誰かが私語をした。誰も反論する者はいなかった。気づいていても、不敬の言葉は口にできなかった。
劇団の演技が再開する。
ナスティたちは歌い続ける。
(お腹が空いてきたよ……)
昼が過ぎた。
俳優たちは、演技を終えて、鉄格子の前に立った。
鉄格子が上がって、俳優たちは裏の控え室に向かう。
ナスティたち聖歌隊も、休憩を取ろうと、劇団の後に続いた。
行列ができる。
劇団が入っていく様子を、ナスティは後ろから見ていた。
控え室といっても、薄暗く、床には砂をまかれている。
剣闘士たちが、控え室で、練習をしている。剣を手元で回している者、盾で突撃の動作をしている者……。
ただ、普通の恰好はなかった。狼の毛皮を頭にかぶった者や、骸骨の兜をかぶった者がいる。まるで怪物の姿を仮装しているかのようだった。
先頭のケイトが控え室に足を踏み入れた瞬間、衛兵たちが、二本の槍で十字を作って、出口を封鎖した。
「皇帝陛下のご命令だ。諸君らは、闘技場に留まって、歌を続けよ」
ナスティたち聖歌隊は、顔を見合わせた。衛兵の発言が理解できない。
「どうしてですか? ……そんな話は聞いていません。今から、実戦と同じ武器を使用するのですよね? 我々が巻き込まれてしまいます」
ケイトが抗議した。普段大人しくて優しいケイトであったが、理不尽な命令に対しては毅然とした態度を取るのだ。
「……そちら様は、皇帝陛下よりもらい受けたこのご命令を不服と申すのですか? 皇帝陛下が、そちら様らの歌をたいそうお気に入りになられた。陛下のご要望を、恐れ多くも、むげに断るのでしょうか?」
兵士は、丁寧な口調で、冷徹な返事をする。
「それは……」
ケイトが口ごもった。困惑と動揺で、目が泳いでいる。
「大神官様に掛け合ってもらいましょう……」
他の巫女たちが、あたりを見回してセロンを探した。
セロンに抗議してもらおうと期待したが、セロンの姿は見えないのである。
(卑怯だ……。皇帝の名前を利用するなんて……!)
誰の差し金かが分かった。帝の隣に侍る黒髪の女、ヒルダ・ロンドガネスだ。
ナスティたちを見て、笑っていた。
(ボクたちに嫌がらせをして、何がしたいの? 意味が分からないよおお)
ナスティは、その場で地団駄を踏みたくなった。
「歌いましょう。歌っていれば、必ず大神官様がどうにかしてくれるはず」
ケイトが、皆を励ました。
ナスティたちは仕方なく、元の位置に戻った。歌の準備をする。
2
門から、剣闘士たちが、出てきた。ナスティたちが通してもらえなかった門である。
怪物に仮装した剣闘士たちである。
向かい合う、反対側の門から、大きな歓声とともに、剣闘士たちが現れた。人気者たちの集まりだと、ナスティには分かった。
古代の騎士を思わせる洗練された武装をしていて、全員が白に統一されている。
古代の騎士側が、セレスティアの騎士で、“正義側”なのだ。
反対に、ナスティたちの門から出てきた怪物に扮装した剣闘士たちが“悪”と分かる。
ナスティたち聖歌隊の前に、戦車が引き出された。
戦車は、両側に刃物が仕込まれた車輪を持ち、槍と弓で重武装した剣闘士たちが乗っている。邪悪な形状をした武装で、いかにも“悪役”といった面持ちだ。
反対に、セレスティア側の戦車は、白く塗られていた。白馬に引かれていて、白い騎士団が弓と槍を構えていた。
“正義”と“悪”が、それぞれ、横一列の陣形を作って、向かい合った。
横陣の背後には、それぞれの戦車が控えている。
(これが、古代シグレナスの戦争なのね……)
不思議と、高揚感が湧いてきた。なんとかの戦争といった、紙でしかお目にかかれなかった歴史学の知識が再現されたかのような気分になった。
喇叭の音ともに、両者は激突した。
盾と盾のぶつかり合い、誰かの片腕が、空中に吹っ飛んだ。加害者が返り血を浴び、血糊の付いた斧を、天に向けて叫ぶ。
聖歌隊の歌声は悲鳴に代わった。伴奏だけが続いている。
観客の需要は、違う。
血なまぐさい景色に、沸き立ったのである。
(信じられない、これが、シグレナス……!)
地響きのような歓喜に、ナスティは目眩がした。
堂々と行われる殺人未遂傷害事件を目前にして、歌どころではなかった。だが、熟練した巫女の何人かは、職人意識で歌い続けている。
ナスティも先輩に従いていった。持ち場から逃げていた巫女が帰ってくる。
“悪側”の戦車が、ナスティたちの周囲を爆走する。恐怖を煽るかのように見える。
巫女たちが悲鳴をあげた。
だが、逃げなかった。逃げれば、戦車の車輪に巻き込まれるからだ。
“悪側”の戦車からは矢が射かけられた。セレスティア側の剣闘士が一人、胸に矢を受けて倒れた。
(セレスティア側が負けたら、どうなっちゃうんだろう……? 普通は示し合わせて、“正義側”を勝たせるはずなのにね)
すれ違いざまに、敵の臑を斬りつける“善”側の剣闘士がいた。
臑を斬られた剣闘士……狼のかぶり物をしている……は片膝をつく。背後から棍棒で頭を打ち砕かれ、狼男は頭蓋骨から血しぶきを出して倒れた。
(全力でやっている……! 一切、手を抜いていない……! 演技とか小細工とか関係ない)
観客の熱狂ぶりが、ナスティの推測を裏付けた。
“悪側”の剣闘士が一人、立ち尽くしている。身体が細く、骸骨をあしらった兜から、恐怖の表情が覗いている。
「やる気、あんのかぁ!」
と、観客の一人が、怒鳴った。
「お前は、大好きなママの元には帰れねえぞ!」
「処刑決定だな!」
一人が投げかけると、次々と暴言を吐かれる。
殺戮こそが唯一の価値であり、殺し合わない者には、徹底的に侮蔑の言葉を投げかけられるのだ。
(とんでもない場所で歌わされているよぉ?)
だが、ナスティは歌った。歌うしかないのである。もちろん、星空の世界には行けない。
胸に投げ槍を食らった者が、“悪側”の戦車から、脱落した。
(わーん、やっつけてぇ。“悪側”の人たち、ボクたちを盾にしているよぉ)
殺人が通常の世界で、ナスティの感覚がおかしくなってきた。
セレスティア側の剣闘士が、動物のなめした革でできた投石器を振り回している。
投石器には、石があった。戦車と戦車が交錯する瞬間、投げつけた。
「あっ」
だが、戦車の盾に跳ね返って、聖歌隊の一人に当たった。
ナスティのいる位置とは、対照的に、向かって左側の下だった。
悲鳴をあげる聖歌隊たちに見られながら、糸のない人形のように崩れ落ちる。
だが、観客の中では、歓声が巻き起こった。
(この人たち、他人の不幸を楽しんでいるの? ……それより、誰か、手当を!)
ナスティは、狂った価値観の中で困惑をした。だが、誰も救護などしなかった。
まるで現実には起こっていないかのように、自分たちの仕事……合唱を続けていた。まともな思考ができなくなっているのだ。
(助けなきゃ……!)
自分が最も遠い位置にいる。だが、助けない理由にはならない。
ナスティは歌をやめた。
ひな壇を降りて、聖歌隊たちの前を通って、倒れた巫女の元に駆け寄った。
巫女を軽く起こし上げ、太ももにのせる。
石を食らい、右目が潰れている。右目と鼻から、鮮血が光に照らされていた。
自分よりも年上の巫女が、ナスティに何かを呟いている。
まるで遺言のようだった。
右目から流出する血液とともに、巫女の命が減っていくように見えた。
(何もできないけど……!)
ナスティは、自分のスカートをたくし上げ、袖を噛んで引っ張り破った。作った布地で、巫女の右目を覆う。
巫女は口を半開きにして、ナスティに訴えかけている。
この人は、生を諦めている……!
「お姉さん、大丈夫、大丈夫……! 負けちゃ駄目……!」
ナスティは天を仰いだ。闘技場を埋め尽くすほど人数がいるのに、一人の生命を救う者はいない。
「何をやっている? 歌い続けろ……!」
観客の一人が、酒の入った杯を投げつけてきた。
闘技場の砂地に、破片と酒をまき散らす。
衛兵たちは、酔っ払いを止めようともしない。見て見ぬふりをしているのだ。
だが、すぐに理解をした。
(忘れていた……ボクたちは奴隷だったんだ)
自分たち巫女は、奴隷であり、大神殿の財産にすぎない。命の価値も、家畜や家具と同じなのである。
「ヒルダさんよぉお、最高の演出、ありがとうなあ!」
ヒルダの仕業だと、観客は見抜いていた。
聴衆たちは、流血を求めている。
「皇帝陛下に感謝!」
帝に感謝をする者もいる。無力で無抵抗な巫女たちの流血を、望んでいるのだ。
「この流血を、我らが神セレスティアに捧げる!」
ナスティたちを供物のように扱っている。
(嘘だ! セレスティアが誰かの死なんか望んでいるはずがないよ! もっと優しいよ!)
ナスティは、怒りが湧いてきた。セレスティアとは、縁もゆかりもないが、身内を勝手に悪人に決めつけられたような気分になった。
“善側”と“悪側”の戦車が、巫女たちの前で、交差する。お互いの武器で撃ち合い、火花を散らしている。
(ボクたちが巻き添えになるなんて、気にもしていないんだな……! どちらが“善”で“悪”なのか分からなくなってきたよ)
戦車が、旋回して、また向き合う。互いに突進をした。
“善側”の投げ槍が“悪側”の軍馬の眉間に刺さる。軍馬は倒れ、“悪側”の戦車は横倒れになった。
戦車が、聖歌隊のひな壇に滑り込んできた。
ちょうどナスティ……“低音”の位置だった。先輩を助けに行かなければ、巻き込まれていたのだ。
ひな壇から、巫女たちが逃げ出した。
ナスティは、先輩を抱えたまま、動けなかった。
(この人を見捨てて、逃げられない)
聖歌隊のいた場所が、戦場になった。
周りで、剣闘士たちが武器を振り回している。鎖の先に鉄球が付いた武器、“鎖鉄球”が、ナスティの頭上を通り過ぎていった。
ナスティの傍で、金属と金属がぶつかり合う。
刃の付いた車輪が、ナスティの眼前を通り過ごす。
(怖いよぉ、逃げたいよぉ……。どうしてボクはこの人を助けているんだろう? 逃げてもかまわないのに……)
理不尽な状況に、ナスティは涙が溢れてきた。
ジョニーの後ろ姿が見えた。ジョニーは決してナスティを見捨てなかった。いつでも逃げられたのに、自分の脳が焼かれても、守ろうとしてくれた。
(いや、ジョニーなら逃げない。最後まで諦めないで戦うはずだ。ボクだけが、この人を救えるんだ! ……だったら!)
ナスティは、負傷した巫女に覆い被さった。
「ボクはここから離れないぞ、これがボクの戦争だ!」
ジョニーならそうする。
剣闘士の死傷者が増えた。
ある者は流れ弾にあたり倒れた。ある者は、戦車に押し倒され、踏み殺された。
聖歌隊たちは恐慌を起こしている。
鮮血が砂埃と混じり合い、闘技場に異様な熱狂に包まれた。
「大丈夫、大丈夫だよ……」
怪我をした巫女に声をかける。まるで自分に言い聞かせるように。
3
“善側”の勝利で戦いは終わった。
数人の剣闘士が敵味方、死体になっていた。生き残った者の中には、胸に矢を受けたり、片腕を失っていたりした。
生き残った剣闘士たちは、疲れた肩を回したりしていた。仕事終わりの様相である。
巫女たちは、壁の隅で固まって震えていた。
「殺せ! 殺せ!」
観客の一人が騒ぐ。全員が騒いだ。
一人の剣闘士が、闘技場の真ん中に連れてこられた。若く“悪側”の骸骨騎士だった。
「……臆病者は殺せ!」
ヒルダが立ち上がった。隣で、帝は寝台に伏したまま、お姿をお見せにならない。
「帝の代わりに、この名代のヒルダが、処刑を執り行う!」
と、親指を高く突き上げた。
控え室から、布をかぶった処刑人が現れた。
手には、邪悪な形をした大斧を持っている。
骸骨騎士は場外に逃げようとしたが、同僚……“悪側”も含む……剣闘士に引きずられ、処刑人の足下に引き出された。
骸骨騎士は震えて両手を合わせて命乞いをした。
「殺せ……! 殺せ……!」
耳をつんざくほどの怒声が、歓喜とともに闘技場を埋め尽くす。
ヒルダが細い唇を引きつけて、親指を下に向ける。
斧が振り下ろされた瞬間で、ナスティは目をそらした。
稲妻のような歓声に、闘技場は揺れた。
聖歌隊たちは骸骨のように疲れ切っていた。
ひな壇に下敷きになった者がいたので、聖歌隊たちで救出した。
意識も返事もない。
ナスティが守っていた巫女は担架で運ばれていったが、片目を失うといった一生直せない傷を負っている。
巫女たちはすすり泣きながら、闘技場を後にした。
セロンが控え室で、太った身体の男に対して怒鳴っていた。
「興行主のカイナハン。そなたは、今回の総責任者である。この酷い有様は、どういう理由なのか、説明をしていただきたい。大神殿の聖歌隊が数人、大けがをしたのだぞ? 打ち合わせにもない話で、しかも私を別室に連れて行くような小賢しい真似を、そなたはしたのだぞ? これまでに大神殿は、セレスティア祭に多くの貢献をしてきた。そなた、興行主が、どうして協力者である我々を危険にさらすのか? 説明をしていただこうか」
セロンが太っ男……興行主カイナハンに詰め寄った。
興行主カイナハンは怯んでいた。だがカイナハンは冷たい表情で返事をした。
「皇帝陛下のご命令なのです。誰も逆らえませんよ」
「皇帝陛下であっても、法律上の手続きをなくして、罪なき者を傷つけられようか? 我ら大神殿の巫女に、いかなる罪状があるとお思いなのか?」
「大神官様、それは不敬に当たりますよ?」
カイナハンがやり返した。
次は、セロンがは身を震わせる番だった。
カイナハンがセロンの動揺を見逃すはずがない。
「……面倒な話は無しにしましょうや。もう終わった話。私たちは、それぞれの職務を果たしている。セレスティア様、皇帝陛下、そしてなにより、シグレナス市民のために、ね」
カイナハンが足早に逃げ出した。
セロンは怒っていた。静かに震えていた。
「もう、大神殿は、金輪際、セレスティア祭には参加せぬぞ?」
「それは、うちらが勝手に決めていい話じゃないですよぉ?」
カイナハンは捨て台詞を残して消えていった。
「大神官様……」
聖歌隊たちが、セロンに集まった。
巫女たちは、涙を流していた。恐怖と怒りで、セロンに訴えた。
「すまなかった。まさか私を別室に閉じ込めておいて、こんな暴挙に出るとは思えなかった。……最初から仕組んでいたと考えるべきだったな」
セロンが謝った。頭を抱えている。セロンの表情は苦難に満ちていた。
「最初からって……?」
ナスティが問いかける。
「それに、ヒルダの実家ロンドガネスは、我々……大神殿を大いに憎んでいるのだよ」
「どうしてですか? なんでボクたち大神殿が嫌われているの?」
「……我ら大神殿は税務関係の業務をしているのを知っているな」
「はい、税金の調査を……あ」
ナスティはセロンと話をしていて気づいた。
「そうだ。ロンドギネスは、脱税の常習犯なのだよ。違法な方法で私たちを騙し、税金の支払いを免れている。何度も指摘したが、いつも脱税ばかりをしている。長女のヒルダが皇帝陛下の愛人になったので、もはや我々、大神殿が太刀打ちできる相手ではなくなったのだよ」
ナスティたち巫女は、誰も追求できなかった。
「今のシグレナスは腐っている……」
セロンが呟いた。だが、口を結んでいた。声にならない声だった。むしろ、心の声が、ナスティに届いたといってよい。
セレスティア祭とはいえ、内側に仕掛けられた戦争なのである。
「何を話している……? 不満そうだな。大神官殿」
ヒルダが現れた。隣で興行主カイナハンがもみ手すり手で付いてきている。
「こちらの連絡不足で、そちらに無用な被害が出てしまったな。聖歌隊が模擬戦に参加する、いや、参加したい、という話になっておったのだよ」
無用、という言葉を強調した。
(殺し合いの中に参加したがる人なんているわけないでしょ!)
ナスティは、心の中で反論した。
「……このような事態が二度と起こらないように、責任者を徹底的に調査して、処罰をせねばなりませんな」
セロンは穏やかな口調で、ヒルダを鋭く睨んだ。言葉を選んでいるな、とナスティは思った。
「慌てなくても良い。手を打っておる。だが、問題は、目の前の祭りだ。まだ聖歌は必要だろうて」
「……もはやこれ以降、大神殿は、聖歌隊を出せません。歌を歌うには人数が足りません」
セロンが、毅然とした態度で返事をした。聖歌隊の巫女たちは、頼もしい存在を見るかのようにセロンを見た。
「……皇帝陛下は楽しみにしておられる。大神殿の聖歌隊は、シグレナスで一番、いや、世界で一番だと、宣っておられたぞ?」
(うそだ。あのお爺ちゃん、見ていなかったよ? それどころか、寝台で寝たきりだったけど)
「全員は出せませぬ……」
セロンの表情に翳りが出た。
「ほう、では数人なら出せるのだな? 数人でも歌える楽曲があるはずだろう? どうして歌わないのだ?」
ヒルダが意地悪な笑みを浮かべた。セロンが押されている。
(ああ、もう全部、ぶっちゃけちゃえばいいのよ。アンタは、皇帝を利用しているだけのずる賢い女だって。とんでもない脱税女だって)
ナスティはヒルダだけではなく、負けているセロンにも腹が立ってきた。
「ならば、大神官殿。そなたが歌えば良い」
「当方一人で歌える歌などありません」
「ならば、もう一人、そこにいる子どもはどうだ?」
ヒルダが顎をしゃくって、ナスティを指名した。
「二人で歌を歌えば良い。……帝のみならず、シグレナス市民たちも、そなたらの歌を楽しみにしておるだろう。もしも、歌わなければ、市民たちがそなたらを闘技場から生かしては帰しまい。……ふはははは、冗談じゃ。皇帝陛下がお待ちしておる故、ここで失礼させてもらうぞ」
ヒルダは、言外の脅しをかけて、立ち去っていった。
(ボクがセロンと二人で歌うの? またあんな怖い場所で?)
ナスティは気が遠くなった。
セロンは拳を握って、震えていた。両目から、怒りの炎で燃えている。
「この国に正義はないのか……? 正義が執行されないのだというのなら……こんな国は、滅びてしまえば良いのに……」